#05 茉莉は私の手を引く




 変装しているけど、俺には分かった。あいつは翼だ。間違いない。フードを被ってマスクをしているけど、あの目は間違いない。


 翼と楽しそうに話す茉莉の姿が頭から離れない。いや、茉莉が誰とどこで何をしていようと俺に関係はないけど、だけどッ!! 茉莉は当然のようにずっと俺の傍にいると思っていた。当たり前のように近くにいると思っていた。でも……。



「春彩さま……? 大丈夫?」

「うん……ごめん」



 あ。頭の悪い俺でも分かった。俺、茉莉のこと言える立場じゃないんだ。紅音ちゃんとこうしてデートをしている俺だって、茉莉からしてみれば、気分が悪いのかもしれない。だって、茉莉は記憶喪失前にって言っていた。



「俺……最低だったんだ」

「え? ど、どうしたんですか?」

「俺、茉莉に酷いことしてる……今まで気づかなかった。自分が同じ目に遭ってはじめて気づくなんて、最低だよ」

「————っっっ!!」



 紅音ちゃんが店内の茉莉をすごい顔でにらんでいる。下唇を噛んで、相当怒っている——いや、悔しい顔をしてる。ど、どうしたんだろ。



「そういうことッ! どこまでも容赦ないんだからッ!!」

「え……? な、なに? 意味わかんないよ」



 溜息を吐いて、泣きそうな顔をするんだけど、紅音ちゃんはきつく目を閉じて頭をブンブンって振ったら、顔をパンパンって叩いた。



「春彩さま……春彩さまと白詰さんって付き合っているわけではないでしょう?」

「う、うん」

「私とも付き合っているわけではないですよね?」

「……うん」

「ならば、気に悩むことではないですよね? それに、白詰さんだって、ただカフェでお話ししているだけですし。私たちだって、そ、その……え、え、えっちなことだって、しているわけでは……」



 そうだけど、胸の中がざわざわする。茉莉を意識すればするほど切ない。涙が出てくる。辛い。きっと茉莉も俺を見て、そんな風に傷ついていたのかと思うと、可哀そうで可哀そうで、辛い。



「ちょ、ちょっと……春彩さま!?」

「……ごめん。涙止まらないや」




 ————えっ。



 なんで紅音ちゃん俺を抱きしめてくれるの? 頭を撫でながら「大丈夫だから。春彩さまがもうこれ以上、涙を流す必要なんてないから」って。天使の翼に包まれているみたい。柔らかくて、温かくて、余計涙が出てくる。



 もう一度、店内を見ると、茉莉は楽しそうに翼と話していた。




 俺がアホでバカだから、茉莉を傷つけていることに気付かなかったんだ。もし、俺がもう少し人の心をいたわることができたら、結果は違っていたかもしれない。茉莉が、翼を好きになることもなかったのかもしれない。



「紅音ちゃん、ごめん、やっぱり今日は帰るよ」

「……なら、送ってい————」

「大丈夫。一人になりたいから。一人で帰れるから」

「ま、待って」



 とても紅音ちゃんと一緒にいられる気分じゃないよ。紅音ちゃんが優しいからって甘えちゃうわけにはいかないし。紅音ちゃんは好きな人がいるのに、俺に優しくしてくれる。それって、俺のこと記憶喪失で可哀そうなヤツって思うからこそだよね。



「ごめん。紅音ちゃん。これ以上近づけば、紅音ちゃんを嫌いになるしか……」



 茉莉のために。紅音ちゃんのために。



「————っ!」



 あんまりだ。初めから気がないなら俺に接しないでほしい。突き放してくれればいいのに。茉莉もだ。思わせぶりなこと言って。俺の傍に居るって言って、愛想つかして、翼のところに行っちゃった。ああ、そうか。思わせぶりも何も、茉莉も一緒だったんだ。




 ————みんな、俺のこと可哀そうだから相手してくれるだけだったんだ。




 告白したって言ってみたり、傍にいるって言ってみたり。きっとそれは俺に記憶があってこその話だよね。記憶が戻らないもん俺。


 紅音ちゃんもそう。俺に同情して優しくしてくれている。でも、きっとそれじゃあ、紅音ちゃんを傷つけちゃう。だって、こうやって、一緒にいるところを見られたら、紅音ちゃんの好きな人も不審に思うじゃない。




 甘えすぎだった。俺、自分の記憶がないことをいいことに、みんなに甘えっぱなしだった。でも、どうやったら、一人で生きていけるんだろう。




 ————このままいなくなりたい。




 ★




 宵の明星が輝く夕刻。


 彼を行かせてしまった。絶対にいけないことなのに、行かせてしまった。彼は記憶障害を患っている。記憶喪失の他にも見当識障害けんとうしきしょうがいにも似て、自分のいる場所が分からなくなってしまうことがあるというのだ。一過性のものと白詰茉莉は言っていた。徐々に回復するとも言っていた。でも、完全に回復したわけではない。回復は人それぞれで、突然回復することもあれば、死ぬまで回復しない人もいるらしい。


 医者の認識からすれば、彼は未だ病中の最中らしい。白詰茉莉はそう言って、私に気を付けろって忠告してくれた。なのに、彼を追えなかった。



 分かっていたのに、それなのに。



 スマホを片手に、震える手で白詰茉莉の連絡先をタップする。



「もしもし……ごめん」

『なに、いきなりごめんって。今頃、わたしに敗北宣言~~~? らしくないよ?』

「……違うの」

『? なに泣いてるのよ』

「彼を……行かせちゃった。ごめん。春彩さまを……うううううぅぅぅぅぅあああああん」

『ちょっとッ!! な、なに言ってるのッ!? 本気で言ってるの?』

「だって、だってぇ」

『泣いてる場合じゃないでしょッ!! はやく追いかけなさいよッ』

「わかっ……てるわよ。でも、いないの……」

『……自分がなにしたか……分かってるのッ!? 今どこ』

「………駅」




 近くにいたことは知っていたために、白詰茉莉はすぐに私と合流した。



「ごめんな……さい……」

「今は泣いている場合じゃないでしょ。とにかくどこに向かったとか、どこに行くとか、言っていなかったの?」



 頷くしなかった。彼は、ひどく傷ついていた。おそらく、彼の態度からすれば、白詰茉莉が自分以外の男と楽しそうに会っていた事実よりも、自分が同じことを無意識でしていて、それを見ていた彼女が傷ついていたであろうという想像の元、己を傷つけてしまった。あくまでも彼の想像の範疇の出来事のはずだった。でも、最後に私に言ったセリフは、明らかに私まで傷つけてしまうという恐れだったと思う。



「とにかく、春彩の家まで行ってみるしか」

「うん」



 願った。彼が、春彩さまが無事に帰っていることを。できることなら、いつものように変わらず、とぼけた顔で卑猥な言葉を言うくらいの彼に戻っていてほしいと思ったけど、そこまで贅沢は言えない。とにかく、彼が無事であればそれでいい。



 白詰茉莉とは一言も会話をせずに、電車に乗ってひたすら無事を願った。白詰茉莉は決して泣かなかった。ずっと鋭い目つきで車窓の外の景色を眺めるだけ。この子の頭の良さは知っている。人懐ひとなつっこいキャラを演じていることも。決して性格は悪くないし、優しいことも知っている。だけど、決めた目標に到達するためには、容赦がないことも知っている。



 春彩の家は、下町の商店街の一角にある。薄暗い街灯の下を歩き、彼の家を目の当たりにしたとき、私も白詰茉莉も絶望にさいなまれた。電気が点いていない。もしかしたら、暗闇の中で一人、泣いているのかもしれない、などという淡い期待を胸に、インターフォンを押すが、やはり反応がない。



「……もし、彼になにかあったら、悪いけど、あなたを許せそうにない」

「ええ。構わない。だけど、今は、そんなこと言っている場合じゃないでしょ」

「……」



 合鍵で玄関を開けた白詰茉莉は中を窺って、すぐに彼がいないことを察した。靴がない。音がない。



 溜息だけをその場に残し白詰茉莉は、心当たりがある、と言って足早に歩き始めた。



 向かったのは、目黒の高級マンションの一角。なんで、こんなところに、彼がいると踏んだのか理解ができない。



 静寂が包むエレベーターに乗り込んで、ひたすら最上階に着くのを待つ。空気が重い。空気が苦い。空気が私を締め付ける。痛い、苦しい、寒い、気持ち悪い。吐きそうだった。



 最上階の角部屋の鍵を開けると、白詰茉莉は電気を点けた。明るくなった室内は、まるで要塞のようだった。ミキシング一式に、パソコンが数台。エレクトーンや、ギター、それにバーカウンターまであって、まるでスタジオ……いや、これは彼の作業部屋だったんだ。



「いるはずないか……」

「こ、ここって」

「あなたでも知らないことあるのね」

「それは皮肉?」

「うん。当たり前じゃない。まさか、彼の“秘密基地”を知らなかったなんて」

「……そうやってマウント取るの悪い癖よ。私は……」

「私は、なに? 結局、彼らのことも知らずに、彼らのことにも気付かず。なにもせずに毎日写真を眺めていたあなたに、彼と……の近くにいる資格なんてあると思うの?」

「え………彼らって。いったいなにを言ってるの?」

「………」


 白詰茉莉の言っている意味が分からなかった。白詰茉莉は決して性格が悪いわけではない。昔からそうだ。私たちは、いつまでも友達でいるはずだった。でも、バランスが狂い始めたのは、私が心夜さまに急接近したあたりからだった。




 知らなかったのだ。白詰茉莉が、心夜さまの幼馴染だったという事実を知らなかった。彼女は後も、心夜さまと度々会っていた。母親同士の仲が良い。なるほど、と思った。白詰茉莉が心夜さまに好意を持っていたという事実さえ知らなかった。



 そう考えると、私に恨みを持つのも当然のように思えた。



 心夜さまが同じ高校にいるなんて……いや、彼ならありえる。プライベートを一切話さなかった。心夜さまは定時制の高校に通っているって聞いたような気がする。でも、記憶喪失になって編入してきたとか、そういう理由があるに違いない。


 私が親の借金を抱えていることを知った彼女は、陰で私に只ならぬ支援をしてくれた。但し条件もあったけど、それでも、それを上回るほどの支援をしてくれた。白詰茉莉には感謝してもしきれない。恩を売るのがうまい。そして、容赦ない。



「ごめん……」

「変わらないね。紅音」

「茉莉……今は、彼がいないからいいでしょ」

「……まったく」

「ごめんっっっ!! 茉莉ごめんっ!!!」



 茉莉の胸を抱いて泣いた。もう耐えられなかった。自分がしてしまったことは、取り返しがつかないかもしれない。もしかしたら、彼を殺してしまったのかもしれない。そう思うと、自分を殺してほしいくらい。でも————。



「すっきりした? そしたら、探しにいくよ」

「どこに……もう、どこにも」

「そうやって、諦めるのが早いから、大切なものをいつも失うの」



 茉莉は私の手を引く。少し強引に。でも、私の親友は頼りになる。彼のとなりには、茉莉が一番お似合いなのかもしれない。




 そう考えると、煮え切らない気持ちでいっぱいになった。






———————

夜更新します。

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