脱出編 その3

 目の前でにこにことしているセドリック様は、親しみやすい雰囲気を漂わせてはいるけれど、公爵家のご出身とは、隣国でも指折りの名家の方なのだろう。

 そんな彼の顔を、私は失礼ながら間近でしげしげと見てから、ようやく彼のことを思い出した。


「……あ! 去年、学園の選択授業でご一緒したこと、ありましたよね……?」

「そうそう。思い出してくれてよかった」


 確か、複数人でのグループ発表を行う授業で、一緒の班になったことがあった。取りまとめ役を買って出てくれて、感じよくリーダーシップを取ってくれていた。

 あまり主張の強くない私は、そんな時、ついつい面倒な役回りを押し付けられがちになるのだけれど、彼はそんな不公平が生じないように、うまいこと役割分担を采配してくれていたように思う。

 でも、彼の髪色は……?


「セドリック様の髪、濃い目の金髪じゃありませんでしたっけ。魔法か何かで染めていらっしゃるのですか?」

「うん。今日はお忍びってことで、一応ね」

「ああ! どうりですぐにわからなかった訳ですね。随分と印象が違いますね」


 そう、選択授業で同じ班になった時、彼の蜂蜜色がかった金髪と、緑色の瞳のコントラストが綺麗だなと思った記憶はあった。


 ダレル様と私だけ、素のままの髪色だ。ダレル様は平民のため、魔法は使えないのだそうだ。


 揃っている髪色は、赤、紫、青、緑と大変に鮮やかだ。お忍びのはずが、何だか目立っているような気もするけれど、この場所ならまあ大丈夫だろう。私の髪がもし黄色だったら虹色だなぁ……なんてくだらないことを思ったけれど、私の髪は淡い色の金髪なので、あと一歩という感じで残念だった。きらきらしいご容貌の四人の中で、私一人がさらに薄く霞んでいるようにも思われる。


 いったん余計な考えは頭の片隅に押しやって、皆さまに椅子を勧め、淹れ直した紅茶と新しいお菓子を用意してから、仲良さげに寄り添うジョセフィーヌ様とダレル様に視線を向けた。

 お二人は今後、セドリック様の元に身を寄せると聞いたけれど、いったいどのようなご関係なのだろうか?


 そんな私の思いに気付いたかのように、ダレル様が私に説明してくれた。


「僕の父は、フレイ公爵家で住み込みの執事をしています。僕もゆくゆくはセドリック様の家で執事をする予定なのですが、セドリック様と僕は年齢が同じこともあって、昔から毎日のように一緒に過ごしていました。セドリック様は僕と遊んでくださっただけでなく、平民の僕に対しても分け隔てなく、勉学やマナーといった教育まで施してくださって、同じ家庭教師にも学ばせてくださいました」


 頷いた私に、彼は穏やかに続けた。


「そんな中で、セドリック様のところに、幼い頃からよく遊びに来ていたのがジョセフィーヌ様でした。年も同じですし、彼女が来る時はよく三人で遊んでいたのですが……」


 ジョセフィーヌ様が愛情のこもった目でちらりとダレル様を見ると、彼の言葉を継いだ。


「私の父がセドリック様のお父上と古い友人で、よく父に連れられて隣国の彼の家まで遊びに行っていたのですけれど。一緒に過ごすうちに、私の方からダレルのことが好きになってしまって。もっと彼との時間を過ごしたくて、彼に、私の執事見習いとして、ボロニア家にしばらく来てもらえないかとお願いしたのです」


 ジョセフィーヌ様はこんなにおしとやかに見えて、意外にも情熱的な方のようだ。


「僕は、彼女の執事ということで、セイチェーニ王立学園に通うことが認められていましたが、卒業後はセドリック様のいるフレイ公爵家に戻ることになっています。ジョセフィーヌ様は、学園を卒業なさったら、第二王子のマキシミリアーノ様とご結婚なさることになることが決まっていたので……僕は、彼女と一緒に過ごせる卒業までの時間を心に刻んで、彼女への想いは胸にしまっておくつもりでいました」

「でも、彼との時間をさらに過ごすうちに、私の気持ちは固まりました。地位も名誉も何もいらないから、ただ彼とこれからもずっと一緒に過ごしたい。私の願いは、ただそれだけです。結果としてセシル様を巻き込んでしまいましたし、あんなお願いまでしてしまいましたが。……マキシミリアーノ様に内々に話を付けてくださって、本当にありがとうございました」


 ジョセフィーヌ様とダレル様が二人して私に頭を下げたので、私は慌てて、いえいえと首を横に振った。なぜかセドリック様まで私に頭を下げたので恐縮していると、彼はダレル様を見て微笑んだ。


「ダレルは、僕の兄弟同然なんだよ。小さな頃から一緒に過ごしてきたのもあるけれど、彼は本当に心根の真っ直ぐな、信頼できる存在で、人としても尊敬している。そんなダレルと、ジョセフィーヌが幸せになるために力を貸してくれて、ありがとう」

「いえ、私は何も、たいしたことは……」


 そう。あの腹黒王子様には散々こき使われたけれど、ジョセフィーヌ様からの依頼でしたことと言えば、ちらりと第二王子に一言聞いて、お願いをしただけだ。何てことはない。

 こんな後ろ盾がいるのなら、あんな茶番をしなくても、どうにかして穏便にことを済ませられそうな気もするけれど……、ご本人のご希望で、それで片が付くなら、きっとそれでもいいのだろう。


 私はセドリック様とダレル様が居並ぶ様子を眺めた。

 もちろん、血の繋がりはないので、お二人とも美しいとはいえ、容貌はさほど似てはいない。けれど、何というか、お二人の纏う雰囲気が……その穏やかで優しげな空気感がとても似ていて、もし兄弟と言われても違和感なく信じてしまいそうな程だった。

 ジョセフィーヌ様も、そんなダレル様となら幸せになれるだろうなと思って、私の胸はほわりと温かくなった。


「……卒業も、いよいよ近付いて来ましたね」


 ティナ様の言葉に頷いた。あと一月もすれば、またあの卒業パーティーがやってくる。


「セシル様は、卒業後の進路は決めていらっしゃるのですか?」

「いえ、まだ何も。元々、父の仕事を手伝おうと思っていたのですが……」


 そこで言葉を切った。そう、そのつもりだったのだけれど、第二王子から報酬が入ったら、無理して父を手伝わなくても大丈夫そうだ。

 こんなことが起きるまでは諦めていたけれど、もしできるなら、もう少し色々勉強したかったな…という気持ちがあったことを、今更ながら思い出した。


「セシリア様は、確か特待生だったよね。セシリア様ほど成績が良ければ、たとえば、僕の国にある高等学院でも、奨学金を受けながら学べると思うよ?」

「えっ、本当ですか?」


 驚きに目を瞬いた私に、セドリック様が頷いた。


「ああ。学院では幅広い分野から選んで、深掘りした勉強ができるし、きっとセシリア様の学びたいことも見付かるんじゃないかな。もし興味があれば、資料を取り寄せておくよ」

「ありがとうございます! お手数ですが、ぜひお願いします」


 久し振りに胸が踊った。

 隣国への留学。……考えてもみなかった選択肢だったけれど、急に目の前に光が差して来たような気がした。

 この王国内だと、今後もどこかの学術機関で勉強を続けようとするとかなりの高額が必要になるため、はなから諦めていたのだ。


 それに。……あんな腹黒男たちから逃れて、ようやく自由を掴めるかもしれない。


 五人の会話はその後も盛り上がり、パン屋を閉店にした後もしばらくは、今後の話のほか、他愛のない話などを色々としていた。話を切り上げて店を出る頃には、私は、人のよいセドリック様とダレル様ともすっかり打ち解けていた。

 今まで腹黒男たちに囲まれていた私にとって、こんなに和やかに会話を楽しめて、さりげない気配りもできる男性がいるということ自体に、ちょっとした感動を覚えていた。

 ……ジョセフィーヌ様の選択は、大正解だったと確信する。


 一歩店を出ると、街はもう薄闇に沈んでいた。

 ジョセフィーヌ様とダレル様が、同じ方向のティナ様をボロニア家の馬車で送ることになり、私のことはセドリック様が家まで馬車で送ってくださることになった。


 豪華な馬車に恐縮しつつ、セドリック様に手を取られて馬車に乗り込む。馬車が走り出してから、おもむろにセドリック様が口を開いた。


「……セシリア様、学園の卒業パーティーも、もうじきだね」

「はい。あ、さっきも言おうと思ったのですが、私のことはセシルでいいですよ」


 私は彼に笑い掛けた。


「セドリック様は、昨年、学園に留学なさっていたのですよね。卒業パーティーには参加なさるのですか?確か、一度留学したことのある生徒は参加できますよね」

「招待状を受け取ってはいるものの、今までは欠席しようかと思っていたのだけれどね」


 彼は思案げに目を瞬いてから、じっと私を見つめた。


「……ねえ、セシルは、卒業パーティーのパートナーはもう決まっているの? もしよかったら、僕にセシルをエスコートさせてもらえないかな」

「えっ、いいんですか?」


 私は驚きに目を見開いた。まさか、ジャレッド以外の男性と卒業パーティーを迎えられる可能性があろうとは、思ってもみなかった。

 しかも、こんなに女性に人気がありそうなセドリック様とだなんて、何だか申し訳ないような気もする。

 けれど、ジャレッドを躱せるまたとないチャンスに、私は一も二もなく頷いた。


「私としては、ご一緒できたら嬉しいのですが。……でも、私となんかで本当にいいんですか?」

「ああ。君と一緒にいられるなら、出席したいんだ。だから、僕としても、君が僕にエスコートさせてくれるならとても嬉しいよ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、よろしくお願いします」


 柔らかい笑顔のセドリック様を見て、何だかほっとしてしまった。卒業パーティーに参加する精神的ハードルが、彼のお蔭で大分下がった気がする。


 ……馬車が何かにぶつかったような鈍い衝撃を感じたのは、ちょうどそんな時だった。馬車の前方から馬の嘶きが聞こえてきた。

 セドリック様と私は目を見合わせると、急いで馬車を降りた。


 馬車の前に、人が倒れているのが見えた。

 御者が先に駆け寄っている。近付くと、1人の老女がぐったりと倒れていた。

 御者の話だと、馬車が十字路を曲がる際、出会い頭にぶつかったらしい。


 時折り身体を痙攣させ、命の炎が消えそうになっている青い顔をした老女を目の前にして、私はさっきまでの浮ついた気持ちがどこかに飛んで行き、身体中から血の気が引くのを感じた。足が細かく震えている。


(……こんなことになったのは、私のせいだ)


 そうだとしか、思えなかった。

 だって、目の前の状況を引き起こしてしまったのは、私なのだから。


 私が自分勝手な都合で、あの卒業パーティーから時を戻すことを望まなければ、そして過去を変えてしまわなければ、私がセドリック様の馬車でこの道を通ることもなく、少なくとも、この女性が命を落とすことはなかったはずだ。


 今まで、割と軽い気持ちで使っていた私の魔法だったけれど。

 時を戻し、過去を変えてしまうことの影響力を、初めてまざまざと感じていた。

 過去を変えることで、未来を失う人がいるかもしれないなんて、そんなことは、考えたこともなかった。

 恐怖で、わなわなと震えが全身に広がる。


 気が動転したまま、私は、老女を抱きかかえたセドリック様の腕をぎゅっと掴んだ。


「お、お願いがあります。……詳細はまた後ほどご説明しますので……、私に、依頼して欲しいことがあるのです」


 セドリック様は驚いた様子だったけれど、私の言葉に頷いてくれた。

 私はセドリック様から依頼してもらい、すぐに、事故の少し前まで時を巻き戻した。


***


 馬車が何事もなく進んでいく様子に、私はほっと胸を撫で下ろしていた。強張っていた身体に、ようやく血が巡っていく感覚がある。

 さっき、巻き戻す前の時間で通った道は、少し細めの路地だったけれど、今は少し遠回りをして、先程の道を迂回する形で走る大通りを馬車が通るよう、セドリック様から御者に指示してくださっていた。今のところ、何も起こっていないことからは、どうやら事故は回避できたようだ。


 馬車の中、私が時間を巻き戻す能力のことをぽつりぽつりと説明するのを、セドリック様は厳しい顔で静かに聞いていた。

 私の話が終わると、セドリック様は真っ直ぐに私の顔を見つめた。


「君に、お願いがあるんだ」


 私の能力を知った人に、今までろくなお願いをされたことのない私は、びくりと身を竦ませた。


「……君の能力は、できるだけ使わないでほしい」

「えっ?」


 予想外の彼の言葉に驚く私に、彼は続けた。


「君の魔法は、きっと禁忌の能力と呼ばれているものの一つだろう。自然の摂理に反することを行える、そんな力だ。今、君がそれほど自覚していないとしても。その種の魔法は、魔力だけでなく、目に見えない何か大切なものをすり減らしている可能性がある」


 私ははっと息を呑んだ。薄々感じながらも、これまで見て見ぬふりをしてきたことを、改めて正面から指摘されたような気がしていた。

 

「さっきのような場面で、時を巻き戻す選択をした君の判断は、英断だとは思うけれど。でも、君の身を考えるなら、これからは、君の魔法は余程のことがない限り、恐らく使わない方がいいし、僕としても、使わないで欲しいんだ」


 セドリック様は私を優しい瞳で見つめた。


「時間というのは、誰にも等しく与えられていて、誰もが真剣にそれに向き合いながら、未来を模索し、形作っていく。そこで何が起きたとしても、君にそれを変える義務はない。皆、一度きりの時間を大切に生きるべきで、そこに君が責任を負う必要もないんだよ」


 彼の言葉を聞いた私の目に、じわりと熱いものが滲んだかと思うと、こらえきれず、大粒の涙がぽろぽろと頬を流れ落ちていった。……今までジャレッドにどんな意地悪をされたって、泣いたことなんてなかったのに。


「……っ、う……っ、ひっく」

「どうしたの、大丈夫?」


 彼は慌てて私の背中を撫でてくれた。私は何度も大丈夫だと頷いたけれど、それでも溢れてくる涙を止めることはできなかった。


 事故を回避した安堵感からか、自分の力の怖ろしい可能性を自覚したせいか、それとも……彼の、私を気遣う言葉の温かさのためか。


 私の能力を利用するどころか、私の身体を慮ってこんな言葉を掛けてくれる人に出会えるなんて、今まではほんの少しですらも期待したことはなかった。


 色々な感情がないまぜになって、結局家に着くまでぐすぐすと泣いていた私の肩を、セドリック様はずっと優しく抱いていてくださった。……その手は彼の言葉と同様、とても温かかった。


***


 僕セドリックがセシリア様……セシルと会ったのは、昨年、セイチェーニ王立学園に留学していた時だった。


 選択した授業で一緒だった彼女は、自意識が高くて主張の強いほかの貴族生徒たちとは違って、控えめな雰囲気の少女だったけれど、いつもにこにことしていて感じよく、班の中でも気配り上手で、グループ発表の準備も率先して手伝ってくれていた。

 僕は、あまり彼女に負担が偏らないように分担を考えつつも、彼女を少し心配していた。……どうも彼女は顔色が悪く、疲れているように見えたからだ。


 さすが特待生というべきか、準備は手際よく進めてくれていたけれど、分担を僕が一部代わろうかと声を掛けようと思っていた。

 ただ、彼女の側にはいつも黒髪の美形の生徒…彼も成績優秀で有名だったが……が睨みをきかせていて、なかなか彼女に近付くことができなかった。

 そして、彼女は授業が終わると、ほかの生徒たちがゆっくり談笑しながら居残っているのとは対照的に、いつもすぐに姿を消してしまう。

 そのうちに、彼女と一緒のグループ発表もつつがなく終わってしまった。


 けれど、授業後、彼女の姿を毎日のように見失い続けていた僕は、そんな彼女に興味を持ち、一度、後をつけてみることにした。…女性をつけることに若干の後ろめたさを感じて、髪色を魔法で緑に変えてみる。


 そんな彼女が向かった先は、貴族ならまず立ち寄らないであろう、街外れにあるパン屋だった。


 そっと僕が店内に入ると、何故か店のエプロンを付けて接客をしている彼女の姿があった。

 喫茶スペースがあったので、セシルとは別の女性に飲み物を頼み、しばらくセシルの様子を観察することにした。


 彼女は、学園にいる時よりも生き生きとした表情で、丁寧に客への応対をしていた。小銭を握り締めて来た小さな男の子に菓子パンをおまけしてあげたり、背の曲がった老人に尋ねられて、目線の高さを合わせて説明したり。


 平民にも分け隔てなく親切な彼女のそんな様子を見ていて、僕は胸が温かくなった。


 ……僕の地位にへつらう貴族は数多くいるけれど、自分よりも地位の低い者を見ると、途端に尊大になったり、見下したりするような態度を取る者は、嫌というほどたくさん見てきた。

 僕が本物の兄弟のように大切に思うダレルに対しても、平民だと知った途端、掌を返したように冷たい態度を取る者も多く、ジョセフィーヌはかなり例外的だった。そして、目の前のセシルもとても珍しいタイプだ。


 しかも、彼女は、いつも授業後に姿を消していたところを見る限り、毎日のようにここで働いているのだろう。理由はよくわからないけれど、特待生で奨学金を受けていることといい、金銭的に厳しいのだろうか。

 こんなに働きながら特待生を維持するなんて、想像もつかないくらいに大変なはずだ。僕は、相当な努力家であろう彼女に尊敬の念を抱いた。


 僕はもっと彼女と話してみたかったけれど、仕事の邪魔をするのも申し訳なく、いくつかパンを買ってから店を後にした。彼女は僕には気付かないままだった。

 学園でも、また彼女に話し掛けたいと思ったけれど、結局黒髪の彼に阻まれてチャンスを逃したまま、留学期間を終えてしまった僕は、後ろ髪を引かれるような気持ちで国に戻ったのだった。


 そんな彼女は、ダレルとジョセフィーヌが一緒になるために、一役買ってくれたのだという。

 ダレルのところを訪ねてコダリー王国を訪れていた僕は、ジョセフィーヌに誘われて、久し振りにセシルに会えるのを楽しみにしていた。

 はじめ、彼女は僕の髪色のせいで僕に気付かなかったようだけれど、ようやく僕のことを思い出してくれた。


 彼女の淹れてくれた紅茶は美味しくて、そして彼女との会話も楽しくて、時間はあっという間に過ぎた。彼女の笑顔は僕の心を明るくしてくれるようだった。このまま別れるのも名残惜しく、僕の馬車で彼女を送ることにしたのだが、あろうことか馬車は老女を巻き込んだ事故を起こしてしまった。


 息も絶え絶えの老女を目の前にして、青ざめたセシルが使った魔法の力に、僕は非常に驚き、そして感動も覚えていた。…倒れていた老女は貧しい身なりだったけれど、そんな彼女を助けるために、セシルはその比類ない貴重な能力を躊躇いなく使っていたからだ。


 そして、それと同時に、彼女のことが心から心配になった。

 彼女の身体を考えるなら、こんな能力は滅多なことでは使ってはならないだろうし、もしおかしな輩にその能力に目を付けられたら、とても危険なことになる。


 ……僕が、これからも彼女のことを側で守れたら。そして、彼女の笑顔をこれからも一番近くで見ていられるのなら。


 彼女を家まで送り届け、ようやく泣き止んだ彼女が僕に礼を述べてふわりと微笑む顔を見た時、そんな強い気持ちが僕の心に芽生えていた。


***


 そして、卒業パーティーの日がやってきた。


 卒業パーティーに当然私セシリアと一緒に参加するものだと思っていたらしいジャレッドに断りを入れた時、彼はひどくショックを受けたように青ざめて、ふらふらと覚束ない足取りでどこかへ行ってしまった。


 ……そんな顔をされると、私の方が悪いことをしたような気持ちになってしまう。見目よく女性人気の高い彼なら、いくらでも綺麗なご令嬢をパートナーに選べるはずなので大丈夫だろうと思っていたら、卒業パーティーでも彼の姿を見掛けることはなかった。……いくら腹黒とはいえ、腐れ縁の幼馴染みは熱でも出して寝込んではいないだろうかと、少し心配になる。


 けれど、隣で私の腕を取ってくださるセドリック様の笑顔に、……まったく黒さを感じない笑顔に、私はたいへんに癒されていた。


 セドリック様は卒業パーティー用にと、私に、私の瞳と同色の薄い水色の絹に、金糸で細かな刺繍の施された美しいドレスと、同じ薄水色のアクアマリンを金の装飾が彩った、ネックレスとイヤリングのセットまでプレゼントしてくださった。


 とてもこんな高価なものは受け取れないと断ったものの、馬車の事故を回避してくれたお礼もしていないし、君のために誂えたものだからと、彼は譲ってはくれなかった。高位貴族である彼の隣に立つ時に、彼に恥をかかせてもいけないので、結局ありがたく受け取ったのだけれど。


 セドリック様からプレゼントされたドレスに身を包み、アクアマリンの装飾品を身に付けた私に、彼はとても綺麗だと微笑んでくれて、思わず私は頬に熱が集まるのを感じた。……もしこれがジャレッドなら、馬子にも衣装と鼻で笑われるのがせいぜいだろう。


 いよいよのマキシム様によるジョセフィーヌ様との婚約破棄の場面も、今度は筋書き通りに無事に終わった。最後、彼が背を向ける前にちらりとこちらを見た気がして焦ったけれど、彼は無言のまま、背を向けて会場を後にした。


 騒然とする会場を、ダレル様とセドリック様、そして私がジョセフィーヌ様を囲むようにして、そっと抜け出す。ティナ様とは後で合流することになっている。


 私は無事に隣国への留学が決まり、お父様の承諾も事前にもらっていた。既に隣国行きの準備はできていて、荷物も用意してあるので、このままこの足で、セドリック様の馬車で隣国に向かうことになる。ジョセフィーヌ様も私も隣国に行くことになり、ティナ様も、それならお2人と一緒のほうが楽しそうだわ、私の実家もありますしと、結局皆で隣国に向かうことになった。


 私が隣国に行くことは、ジャレッドにも第二王子にも内緒にしておいて欲しいと最後にお父様にお願いしたら、お父様は頷いた後、少し眉を下げてから、


「そうか、セシルはジャレッド様の元を離れるのか。彼を見ていると、まるで私の若い頃を見ているような気持ちになったものだが。残念だ……」


 なんてとんでもないことを言っていたので、聞かなかったことにした。


 セドリック様の馬車のふかふかとした座席に、彼の手を借りて乗り込んだ。セドリック様と私がこの馬車で、残る三人はもう一台の馬車で、セドリック様のフレイ公爵家に向かうことになっている。

 私は、留学先の学院の学生寮に入れるようになるまで、セドリック様の家でお世話になることになっていた。


 馬車が動き出した時に、隣にいるセドリック様が私の顔を見つめた。彼の美しいエメラルドのような瞳が輝いている。


「セシルは、学生寮に入る予定だと言っていたよね。……でも、君さえよければ、寮ではなくて、僕の家にそのまま滞在してくれないか」

「いえ! そんなにセドリック様のご好意に甘える訳には……」


 私にこんな未来が開けたのだって、セドリック様のお蔭なのだ。しかも、入寮までは彼の家にお世話になるのだし、さすがにそれ以上ご迷惑をかけては申し訳なかった。


 彼はなぜか少し頬を染めて、そっと私の手に彼の手を重ねた。


「セシル。僕のほうが、君に僕の側にいて欲しいと思っているんだ。君の誰に対しても分け隔てない優しさも、努力家なところも、逆境にあっても前向きな姿勢も、僕は心から尊敬している。……よかったら、僕と婚約してくれないか?」


 彼がそんなことを真剣な眼差しで言うものだから、私はぽかんと間抜けに口を開けてしまった。


 今まで、彼の冗談なんて聞いたことがなかったので、びっくりして戸惑っている私に、彼はゆっくり考えてくれればいいからと、少し苦笑していた。

 彼の瞳に浮かぶ表情からして、これは、冗談ではないのだろうか? いや、そんなことは……。私は混乱しながらも、顔にかあっと血が上り、耳まで真っ赤になるのを感じていた。思わず、恥ずかしさに彼から目を逸らして、窓から流れていく、隣国に続く景色に目を向けた。


 馬車には、ティナ様が目くらましの魔法をかけてくれているので、隣国まで誰にも追われない快適な馬車の旅が約束されている。


 馬車の窓の外に広がる、光に溢れる景色を眺め、……そして、重ねられたままのセドリック様の掌の温かさを感じながら、私の胸の中を、今までに感じたことのなかった甘やかな感情が満たしていった。

 私は、突然目の前に開けてきた、今まで想像すらしていなかった明るい未来に、希望に胸が高鳴るのを感じていた。


***


 私マキシミリアーノは、筋書き通りの婚約破棄の台詞を言い終え、卒業パーティーの会場を退出していた。


 こんな婚約破棄の断罪劇を演じることになるとは、元々予想してはいなかったけれど、これも振り返ってみれば、なかなか都合のよいタイミングで起こったことだと言えた。


 実は、このコダリー王国で、少しキナ臭い話が持ち上がっており……まだ極秘の事項で、王家の外に漏らす訳にはいかないことなのだが……、しばらく放置されていたこの国の貴重な能力者たちの魔法の力を確認しておく必要が生じていた。


 そんな能力者の中でも、私が魔法の力を確認する王命を受けたのは、同じ学園のクラスメイトであるセシリアだった。時を巻き戻すという、かなり珍しい力の持ち主だという。


 どうやら、彼女の家は、長子が生まれて能力が受け継がれると、先代の力はほとんどなくなってしまうらしい。私はセシルを対象に、その魔法の力の強さや、魔法の発動をどのくらい精緻に行えるのかを確認する必要があった。

 有事の際、実際に魔法を使ってみたら、実は発動できませんでしたではお話にならない。重大な事件が起きる前に、何回か、実際に彼女の魔法を使ってもらい、力の程度を確認する必要があった。


 しかし、それには一つ問題があった。

 金を積むなり何なりして、彼女に時の巻き戻しを依頼すること自体は可能だろう。

 けれど、普通の人間は、よほどの理由や後悔でもない限り、時間などわざわざ戻したくないと思うだろうし……私だってそうだ……それに、そんな依頼をしたら、どんなに鈍い人間だって、その理由を訝るだろう。何か有事が起きている、あるいは起きようとしている、そんな疑いを抱かせずに、彼女の力を確認する方法に、私は頭を悩ませていた。


 そんな時、学園の卒業パーティーで、私も予想していなかった、ジョセフィーヌに対する婚約破棄の断罪劇が起きた。私も、あの時は何が起きているのかわからなかった。


 けれど、この一件に伴う時間の巻き戻しは、セシルの力を試す機会としてはうってつけだった。私にとっても一石二鳥だし、この件を理由に時間を戻してもらうなら、まさかセシルの能力を使わせるのにほかの理由があるなんて思い至りはしないだろう。


 セシルの数代前も、半年程度の巻き戻しが限度だったようだが、セシルも半年なら問題なく巻き戻せた。短時間でも、何度か魔法を発動して巻き戻してもらったが……ジョセフィーヌがティナに手を出した時だ……、巻き戻す時間も毎回、依頼通りにほとんど誤差なく正確で、彼女の能力は申し分のないものだった。


 そんなセシルと一緒に過ごすうちに、思った。

 彼女は、実に面白い。

 セシルは、私の言った言葉をすべて真に受ける。過剰に素直なのか、真面目なのか……。毎回驚きを顔に出してくれるので、非常にからかい甲斐があった。

 そして、家計が厳しいからか、欲しいものを目の前にぶら下げるとわかりやすく目を輝かせた。……きっと、幼い頃の彼女は、目の前にアメ玉でもぶら下げれば、あっという間に攫われるようなタイプだったに違いない。


 私は、今まで特に心惹かれる女性に出会ってはいなかった。熱い瞳で、もの欲しそうな笑顔で近付いてくるたくさんの女性たちにはうんざりしていたし、それであれば、人間的に好いているジョセフィーヌと結婚することに何の疑問も抱いてはいなかった。


 けれど、ジョセフィーヌにはほかに想う相手がいると知り、私は我が身のことを考えざるを得なくなった。

 ……私が興味を惹かれる女性は、いつしかセシルになっていた。


 私を見ると露骨に嫌な顔をする彼女は、他に類を見ない珍しい女性だった。

 ぶつぶついいつつも、何だかんだで依頼には頑張って応じてくれるし、どうやら私がジョセフィーヌを女性として愛していると思っているようで、ついセシルに酷な物言いをしてしまっても、そんな私のことでも心配してくれていることが言葉の端々から読み取れた。

 裏表のないいい子だし、一緒にいて飽きなかった。

 ……時々、心の声がそのまま口に出ていたけれど。


 ある時、この能力って王家の人が依頼者になるのが原則ですよね、例外の罰則とかあるんですか?と恐る恐る聞かれて、ないと告げれば、どこかほっとしたような表情を浮かべつつも、


「……この国、ゆるいわー。王子様もこんなだし、この国、先行き大丈夫なのかなー……」


 なんて随分と不敬なことをぼそっと呟いていたけれど、私は聞こえなかったフリをしておいた。


 王家の者が時の巻き戻しの依頼者になることが原則とされている理由は、恐らくだが、その能力の使用後に、回復を行える道具が王家にのみ伝えられていることもその一つだろう。


 セシルが一目見るなり「うわっ、高そう」と言った、私の指に嵌めているこの金の大振りの指輪こそ、王家に伝わる宝物だった。王家の者のみが魔力を込めることができるのだが、特殊な魔法の使用者の一定距離内でこの指輪に込めた魔力を放つことで、使用者、すなわち今回の場合はセシルの、魔力以外の毀損した部分を回復することができるらしい。彼女のような禁忌の能力というのは、特に大きな力を使うほど、彼女の場合は巻き戻す時間が長いほど、目に見えぬ部分も消耗するらしいので、私は彼女の働くパン屋に公務の間を縫って通っては、彼女の回復に努めていた。


 彼女のいる店に行くと出してくれる紅茶はとても美味しかったし、彼女がいることに慣れてしまうと、彼女がいない時間がどことなく物足りなく感じられた。

 いっそ、ジョセフィーヌとの婚約破棄後、彼女と婚約してしまおうか……なんていう考えが頭に浮かぶ。まあ、嫌がるのかもしれないが、もし彼女に婚約者指名をしたら、いったい彼女はどんな顔をするのだろう…と考えると、そんな様子も見てみたいような気もした。もし、私の心の中の天秤を少しでも傾けるような何かが起こっていたら、私はあの卒業パーティーの場で、セシルを婚約者指名していたかもしれない。彼女と過ごせる人生ならば、何だか楽しくなりそうだった。


 ……私の気持ちは、彼女に微塵も伝わっていないようではあったが。まあ、さすがに自分の彼女に対する態度が悪かった自覚はあった。ついつい、彼女を前にすると、彼女のよく動く表情を見たくてからかい過ぎてしまうのだ。

 あんなに頑張っていた彼女に、せめて労りや優しさを込めた言葉でもかけていたら、少しは違っていたのだろうか。


 そんな中、私がセシルから少し目を離した隙に、彼女も、そして聖女ティナまでもが、この大事な時にコダリー王国から姿を消していることがわかり、王家に衝撃が走るのは、このもう少し先の話である。

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婚約破棄は目の前で 〜没落令嬢は見た〜 瑪々子 @memeco

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