脱出編 その2
ジャレッドに時の巻き戻りの依頼をしてもらい、私セシリアは、マキシム様へのあの痛恨の失言をした直前まで時間を戻していた。
「では、卒業パーティーでは、時間を巻き戻す前と同じセリフを、マキシム様が言うことになるのですね?」
……そう、ここまでは私の台詞に問題はなかった。
「ああ、そうだな。……何だ、不満そうだな? 言いたいことがあるなら…」
マキシム様の言葉を、私は勢いよく遮った。
「いえ、不満など小指の爪の先ほどもございません! 私も報酬をいただきますし、マキシム様は魔法にもかかりませんし、ジョセフィーヌ様もティナ様も、みんな結果オーライで、万々歳ですね!!」
きょとんとしている様子の彼に、私は畳み掛けた。
「では、これで本件は万事解決ですね。卒業パーティー当日は、どうか筋書き通りによろしくお願いいたします!!!」
いきなり早口になってまくし立てた私に、マキシム様は数回瞬きをして不審そうな表情を浮かべたものの、そうかと一応頷いてくれた。
私は背中に嫌な汗が流れていくのを感じつつも、ようやくほっと息を吐いた。
……筋書き通りで、ということも強調しておいたし、余計なことは言っていないはずだし、卒業パーティー当日は、もうあんなに意味不明な事件は起きないはずだ。マキシム様とジョセフィーヌ様の婚約破棄だって、茶番とはいえ大事件なのだ。それ以上のおかしな事件が起きては、決してならない。ええ、私の精神をまともに保つためにも、あんな身が削られるような思いは、決して、二度と……!
場も収まってマキシム様との別れ際、また後でなと言われた。
そう、私はこれからいつものようにパン屋の店番だけれど、マキシム様は、初めてうちのパン屋に来てくれてから、週に二回、決まった曜日にあの店に来てくれている。今日はその曜日なのだ。
彼は、閉店の少し前に来て、紅茶を飲んで私と少し言葉を交わしてから、いつも残った店の在庫のパンを全部買い上げて行ってくれる。例の件の報酬は前金では貰えなかったものの、彼のお蔭で、うちには大分余裕ができた。その点だけで言えば、彼には特大の感謝をしている。しかしながら、欲というのはかけば幾らでも出て来るものである。お金はいくらあっても困らないし、稼げるうちに稼いでおこうということで、結局私は過去と変わらず、毎日のようにせっせと働いていた。まあ店の人手が足りないのもあるのだけれど。
とはいえ、週に二回も店に来てくれる彼を見て、思う。
……別に、すごく長居をする訳ではないのだけれど。マキシム様って、実はすごくお暇なのだろうか?店までの行き帰りだけでも、それなりに時間が取られるはずだ。
本当は、第二王子であれば、公務やらなんやら、王族としての仕事があったりするものではないのだろうか?
はじめのうちは、レジ打ちをする私の方に席から視線を向ける彼を見て、ああ、王族といえど、庶民の働きぶりも知っておくように熱心に観察でもしてるのかしら、殊勝な心掛けだわ、なんて思ったものだけれど、どうも様子がおかしい。
でも、うっかり気味な私は、お暇なんですね、なんて本音は、口が裂けても彼には言わないように気を付けている。
なんせ、彼が来る曜日は、売上が他の日の倍近くなるのだ。帰りにパンを買って行ってくれるのに加えて、彼が来る日は、なぜか喫茶スペースに女性客が著しく増えるのも大きい。
遠巻きとはいえ、明らかに彼のことを見に来ていると思われる。美形って凄い。
……こんな町外れの、しがないパン屋の喫茶スペースに、とんでもない美男子が腰掛けていて、そんな彼を取り巻くように女性客がそっと視線を送る…というのは、何ともシュールな光景だった。いくら腹黒とはいえ、客寄せパン…ごほっ…になっていただけるのであれば、私としてはwelcomeである。
いつか女性客からラブレターでも託されないかなとわくわくしているのだけれど、未だにそういうことは起きてはいない。彼の近付きがたいオーラが遠慮させるのだろうか。……とは言え、彼の内面を知って慄くよりは、目の保養に留めておいた方が正解なのかもしれない。
そして、マキシム様と話す時には、顔がひくりと引き攣り気味な私だけれど、紅茶を飲みながら彼と話す時間だけは意外と楽しかった。彼は紅茶の種類にも詳しくて、彼のお蔭で余裕のできたお金で、いくつか新しい種類の茶葉を仕入れることもできた。さすがに上客の彼には紅茶はサービスしている。きっと毎日美味しい紅茶を飲み慣れているであろう彼が、こんな庶民派の店でも美味しそうに紅茶を飲んでくれるのは、ちょっと嬉しかった。
今日も彼の背中を見送ってから、私は今後のことを考えていた。
せっかく時間を巻き戻したのだから、私としても、以前の心残りを解消したいなと思っていたのだ。
実は、あの私が階段から落ちた一件以降、ジョセフィーヌ様とティナ様とはすっかり打ち解けていた。人目もあるので、みんなで一緒に楽しく……とはいかなかったけれど、会った時には、ひそひそと仲良く会話を交わす仲になっていた。
そんな彼女たちから、お忍びでのお茶会に誘われた。……正確には、これから誘われるのだけれど。とっても行きたかったのだけれど、その日はパン屋のシフトが厳しかった関係で、巻き戻し前は泣く泣くお断りした。
今回、また同じことが起きるなら。
……さすがに無理かもしれないし、遠くまで大変申し訳ないけれど、このパン屋の喫茶スペースに誘ってみようかなと思った。
あのマキシム様も意外に馴染んでくれているし、もしかしたら、貴族でない想い人がいるというジョセフィーヌ様と、平民出身のティナ様ならば、足を運んでくれるかもしれない。シフトも事前にどうにか工面して、ある程度抜けられるようにしておきたい。
そして、やはり彼女たちにお茶会に誘われた時、遠慮がちにその旨を提案してみると、思いのほか嬉しそうに快諾してくれた。
風が吹けば桶屋が儲かる、なんて言うけれど。
本当に、ほんの少しの選択の違いがきっかけで、未来が、進む道の方向性が大きく変わることもあるのだと、私はこの後に実感することになる。
***
「あ、セシル様!」
にこにこと可愛らしく、ジョセフィーヌ様とティナ様が、レジ前の私に手を振っている。
もう一人の店番の女の子が、ご友人ですね、後はお気になさらずごゆっくり、と笑顔で私の背中を押してくれた。
私はいつもの店のエプロン姿のままで、喫茶スペースの奥のテーブルに彼女たちを案内すると、急いで紅茶を淹れた。ちなみに、もちろん、今日はマキシム様が店に来るのとは違う曜日である。
ジョセフィーヌ様とティナ様は、店内を見回すと、可愛いお店ねとか、わぁパンのいい匂いとか、こんな庶民派の店にきゃっきゃっとはしゃいで喜んでくれていて、何だか嬉しい。
「セシル様、今日はこちらにお誘いくださって、ありがとうございます。……ふふ、素敵なお店ですね」
「ね、とっても居心地がいいですね!」
ジョセフィーヌ様とティナ様の微笑みに、私もにこりと笑顔を返して、紅茶と用意しておいたケーキを勧めた。
「わざわざ遠くまで来てくださって嬉しいです! この場所なら、貴族はまず普段は来ないので、人目を気にせずゆっくり話せるとは思います。……今日は、お二人とも魔法で髪色を変えていらっしゃるのですね?」
ジョセフィーヌ様は瞳と同色の紫、ティナ様はいつもの緑の髪とは反対色の赤に髪を染めている。やっぱり、随分と髪色だけでも印象が変わる。
「ええ、一応、もしも誰か知り合いにでも見られた時のために、予防線を張っておきましたわ」
「たまにはこういうのも、気分が変わりますね」
私は時の巻き戻し以外は魔法を使えないので、そんな魔法がちょっと羨ましい。……何もしなくても、私は貴族だとすらばれない自信はありますけどね。
さて、ありがたいことに、紅茶とケーキにも喜んでもらいながら、しばらく女性同士の会話で盛り上がった後、ジョセフィーヌ様が少し顔を赤らめた。
「実は、セシル様にご紹介したい男性がおりますの。……もう少ししたらこちらに着くと思うのですが、よろしいですか?」
「もしかして、ジョセフィーヌ様の想い人という……?」
彼女はこくりと頷いた。
「ええ。セシル様には色々とご協力いただきましたし、せっかく仲良くなれましたので、是非ご紹介できたらと思いまして。……あ、私たちだけの内緒でお願いしますわね?」
「もちろんです。嬉しいです、是非お会いしたいです!」
思わず目が輝いてしまう。
既にお相手を知っているティナ様も、とても素敵な方ですよ、とにっこり笑っていた。
少ししてから、店のドアが開き、店内を見回していた男性二人組に、ジョセフィーヌ様が手を振った。
すらりと背が高く、美しい顔をした男性たちに、何人かの客が驚いたように振り返るのが見えた。
近付いて来る青年に、どうやら見覚えがあった。
「……あら、もしかしてダレル様?」
ジョセフィーヌ様は立ち上がってダレル様の元に向かい、軽くハグをしている。とっても嬉しそうに頬を染めるお二人からは幸せオーラが漂っていて、見ているだけでもほんわかと温かな気持ちになった。
彼女は私に向かってふわりと微笑むと、頷いた。
「ええ、私が一緒になりたいのは、私の執事のダレルなのです」
ダレル様は私に向かって柔らかな笑みを向けると、優雅に一礼をした。
「ジョセフィーヌ様の執事をしております、ダレルです。セシリア様とは、なかなかお話する機会はありませんでしたが、ずっと同じクラスですね」
彼の髪色は普段通り、深い海のような青色で、今も魔法を使ってはいないようだ。
その瞳は穏やかに輝いていて、優しそうな雰囲気が漂っていた。
「彼は私の執事ということで同じ学園に通っていますが、元々は隣国出身の平民です。……何も手を打たなければ、私の身分が邪魔をして、彼と一緒になれる可能性はまずありません。セシル様も巻き込んでしまって申し訳ありませんでしたが、どうにかして、彼と一緒に歩む未来を掴みたかったのです」
そんなジョセフィーヌ様の言葉に、ダレル様は申し訳なさそうな顔をして、彼女の髪を優しく撫でた。
「僕のせいで辛い思いをさせてしまって、ごめんね。僕は、君にそんな思いをさせるくらいなら、身を引くつもりでいたのだけれど……どうしても、君を諦めきれなくなってしまった」
二人が並んで立っているところを見ると、お似合いという言葉しか思い浮かばなかった。マキシム様とジョセフィーヌ様も、色々な裏事情を知る前はお似合いだと思っていたけれど、目の前の二人の方が、何というか、雰囲気がしっくりと来ている。
「それから、もう一人、ご紹介したい方がいて。……私たちが卒業後、隣国に渡った後は、彼の支援を受けて、彼の元に身を寄せるつもりなのです」
ジョセフィーヌ様の視線を受けて、澄んだエメラルドのような瞳に、透き通るような白い肌をして、艶のある若草色の髪が整った輪郭を彩っている眩しい容貌の青年が、私に手を差し出して来た。
私も手を差し出して握手を返すと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「久し振りだね。……僕のこと、覚えてるかな?」
私は彼を見つめて、何回か目を瞬いた。
確かに見覚えはあるような……。
ジョセフィーヌ様が、横から助け舟を出してくれた。
「彼はセドリック様で、隣国のフレイ公爵家のご出身です。昨年、セイチェーニ王立学園に1年間、留学なさっていたのですよ」
「これからもよろしくね、セシリア様」
彼を思い出せそうで思い出せず、記憶を辿りながら目を泳がせていた私に、彼はもう一度その美しい顔でにっこりと笑いかけた。
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