脱出編 その1
学園の卒業パーティーの場で第二王子に婚約者宣言されるという、想像だにしなかった状況の中、周囲の驚愕の視線を一身に集めてしまった私は、極度の緊張と戦いながら、何とか深呼吸をして自分を落ち着かせようとしていた。
そう、これは、第二王子のあの黒い笑顔からも、彼のちょっとした悪戯に過ぎないはずだ。これも巻き戻してしまいさえすれば、問題ない。今は適当にこの場を凌いで、さっさと時間を巻き戻すことさえできてしまえば……。
私は震える口元から、どうにか言葉を絞り出した。
「お、お言葉ですが、マキシミリアーノ様。残念ながら、私はそのような崇高な精神の持ち主ではございません。ティナ様を庇う形になったのは結果論に過ぎず、その動機は崇高どころか、いささか卑しいものにございます」
息が苦しい。けれど、少なくとも、私は何も間違ったことは言ってはいない。
「したがって、マキシミリアーノ様が私を婚約者に相応しいと思われた根拠が誤っている以上、結果もまた誤っているはずでして、マキシミリアーノ様の婚約者には、私のような者よりもずっと相応しいご令嬢がいらっしゃることと、心より信じている次第に、ござい、ます……」
いくら後で時間を戻すとはいえ、私の答えは絶対にNOだということと、けれど報酬(動機)はくださいね、ということだけ、ぎりぎり不敬にならない程度に伝われば、それでいい。もし第二王子が大勢の生徒の面前で恥をかいたところで、それは自業自得というものである。
そう思って口を開いたものの、あまりの緊張のせいか、だんだんと目の前が白くなって、自分が何を言っているかもよくわからなくなり、呂律もうまく回らなくなってきたところで、限界が来た。
ついに足に力が入らなくなり、平衡感覚を失ってふらりとよろめいた私の記憶は、隣のジャレッドが慌てて私を抱きとめてくれたところまでで、ぱたりと途切れた。
***
私が目を覚ますと、見慣れた自室の天井が見えた。どうやら、自宅のベッドの上で寝かされているらしい。
何回か瞬きをしてからぐるりと周りを見渡すと、ベッド脇の椅子に座っているジャレッドの姿が見えた。
「……気がついたか」
ほっとしたように、ジャレッドが私の顔を見た。
「えっと、私、倒れたんだっけ……?」
あまり思い出したくもない記憶をぼんやりと回想しつつ、起こったことをだいたい把握したところで、私は上半身を起こしてジャレッドに尋ねた。
「私のこと、ここまで運んで来てくれたの?」
「ああ。まだあんまり顔色が良くないようだが、大丈夫か?」
珍しく、いつもの皮肉っぽい表情ではなく、心配そうに私の顔を覗き込むジャレッドに頷いてみせる。
彼は少し目を伏せた。
「いったい、あの第二王子との間で何があったんだ……? お前が倒れた後も、場が騒然としてたぞ……」
「……だよね。私も、まさかあんなことになるなんて、思わなくて……。あれは、ちょっとした、いや、たちの悪いマキシム様の冗談のようなもので……」
具体的に場面を思い出して来たら、また頭が痛くなってきた。
私は両目に涙が浮かぶのを感じながら、ジャレッドの両手をがしりと握った。
……彼に借りを作るのは気が進まないけれど、こうなったら仕方ない。
状況的に、第二王子が今の記憶を持って過去に巻き戻ってもややこしいことになりそうだし、ジャレッドに頼む以外には方法が思い浮かばなかった。
「ねえ、お願い、ジャレッド! 一生のお願い。……時間の巻き戻しを、私に依頼してくれない? 巻き戻す時間はね……」
そう、あの、私の失言のときまで。
私があんな余計な一言を言ってしまったばっかりに……!
ジャレッドはまたも珍しく、憎まれ口の一つも叩かずに私に頷くと、ふわりと優しく微笑んだ。滅多に見ない表情だ。
「ああ、わかった。それから、さ。あのさ、俺、お前に今まで……」
「ん?」
ジャレッドは、何か言いたげに口を開いたり閉じたりを数回繰り返していたけれど、結局何も言わないまま、代わりに溜息を一つ吐いた。
「今から巻き戻しの魔法を使う体力と魔力、お前に残ってるのか?」
「うん、大丈夫。できるだけ早くお願い」
「……わかった。お前から俺に、この魔法の依頼者になることを頼むの、初めてだな」
なぜか、ぼそっと、ありがとう、と聞こえた気がしたけれど、気のせいだろうか。
私は彼の協力を得ると、すぐさま時間を巻き戻した。
***
時間を遡った先で、俺ジャレッドは一人で自室にいた。
セシルが何をしようとしているのかは、だいたいわかっていた。
大勢の生徒たちの前で行われた、第二王子の、突然のジョセフィーヌ様に対する婚約破棄の断罪劇、そして、まさかのセシルの婚約者指名。
しかも、それをあれだけの観衆の目の前でセシルは断ったのだ。一応婉曲に断ったとはいえ、当然に角は立つ。もしなかったものにできるのなら、なかったことにしたいだろう。
それをセシルがなかったことにしたいと願っていることに、俺は心の底から安堵していた。
セシルが第二王子に婚約者指名された時、俺の足も震えた。もしセシルが承諾したらどうしようかと、気が気ではなかった。
彼女の否定の言葉を聞いて、ようやく身体に血が巡るような気がしたものだが……。
もちろん、セシルの魔法のこともあるのかもしれないが。
……彼女の魅力に、まさかあの第二王子も気付いてしまったのだろうか。
蓼食う虫も好きず……ごほっ……こんな憎まれ口が習慣になっているから、セシルから嫌そうな顔をされるのかもしれないが……それにしても、美しい貴族令嬢も多い学園の中で、とりわけ美貌の際立つジョセフィーヌ様との婚約を破棄してまで、あんなに目立たないセシルに目をつけたのが、まさかあの第二王子だとは、心底驚いた。
まずは女性の容貌に心惹かれるような男子生徒から見たら、それほど印象に残らないであろう彼女を、第二王子が気に入るとは……。
セシルと俺は、隣家に住む幼馴染み同士だ。
セシルは、家の環境もあってか、女の子らしいことよりもお金に興味があるという、割と幼い頃から少し変わった子だったけれど、俺はそんな彼女のことが気に入っていた。
貴族然として取り繕ったところや、お高く止まったところがなくて、優しい。大分鈍いところもあるが、頭の回転は早くて話していて楽しいし、彼女といると自然体でリラックスしていられた。
見た目はごくごく控えめで目立たないが、表情がくるくる動く。あまり感情を表に出すのは、貴族としてはよろしくないのだろうが、そんな表情豊かな彼女は、話してみると意外と可愛いのだ。特に、笑顔なんかはとても可愛い。
……まあ、美しいご令嬢の微笑みを、大輪の薔薇の花が咲く様子に喩えるなら、彼女は差し詰め、たんぽぽの蕾がほわっと咲く、というくらいの地味さかもしれないが、それもなかなかに味わい深いものがあった。
そんな彼女と仲を深めたくても、どうやら俺には素直さというものが欠けているらしい。彼女の気を引きたくて、ちょっかいを出したり、からかったりしていた幼い頃の習慣が、成長してもそのまま、振り回すような態度や皮肉めいた言葉になってしまったのだろうと思う。
彼女が、うっかりと彼女の能力を俺に漏らしたのは、いつのことだっただろうか。
この国には、いくつかの変わった魔法があって、珍しい能力者もいるらしいなんて話をしていた時だった。
何の気なしにしていた話だったけれど、彼女は、あ、それ、うちのことだ、なんて言ったので、俺は椅子から転がり落ちそうになった。
でも、彼女は、今のところその能力を使う機会はなさそうだという話だった。それに、魔法を使うには、自分以外に、誰か時間の巻き戻しを願う依頼者が必要なのだという。
「……自分一人で使えれば、便利なのになあ」
ぽつりと呟く彼女の言葉を聞いた俺は、あることを閃いた。
それなら、彼女が時間を巻き戻したい時に、俺がそれを代わりに依頼すればよいのではないか。
初めに彼女に時間を巻き戻しを依頼したのは、木登りをしていた俺が彼女の上に落ちて、2人で怪我をした時だった。
俺は軽い打撲で済んだが、下敷きになった彼女は足をおかしな方向に捻ってしまったようで、随分と腫れてしまった。
彼女は大丈夫というが、とても大丈夫そうには見えない。
俺は彼女に尋ねた。
「あのさ。セシルの魔法って、使うの大変なの?」
「うーん。まだ使ったことはないけど、うちに伝わってる話では、戻す時間が短ければ、たいしたことないらしいよ」
「じゃあ、さ」
俺はにやりと笑って、自分の打撲の痕を彼女の目の前に差し出した。
「これ、痛いんだよね。さっき木から落ちる前まで、時間を戻してくれない?」
本当は、俺の打撲なんてどうってことはなかった。君の怪我が心配だから、時間を戻して欲しい、と本音を言えればよかったのかもしれない。
でも、彼女を気遣うような言葉は、俺にはムズ痒くてとても言えずに、口を開けば憎まれ口しか出なかった。
彼女はぶつぶつ呟いていたけれど、結局時間を戻してくれた。
それを皮切りに、いろいろと彼女に依頼した。
俺が花瓶を割った時、その破片が俺の家に遊びに来ていたセシルの頬に飛んだことがあった。
鋭く切れた傷と、流れる赤い血に俺は焦ったが、彼女は、少し消毒すれば平気だという。
ごめんと謝ると、誰も私の顔なんて見てないし大丈夫だ、気にすることなんてないとあっけらかんとしていた。
「……俺は、見てるんだけど」
思わず口に出して真っ赤になった俺の気持ちなどまったく気付かない彼女は、首を傾げて、そっか、いつも遊んでるもんねなんて言うだけだった。……いったい、どれだけ鈍いのか。
俺は、割れた花瓶を指差して、彼女にまた時間の巻き戻しを頼んだ。
……君の顔の傷が心配で、なんて言えるはずもなく。
まあ上の2つは結局俺の行動が元だったから、俺に非があるのだが。
学園の試験前にセシルが熱を出して、どうやら失敗したらしく、試験後に、もう奨学金は打ち切りかもと頭を抱えていたときもそうだ。
俺は、試験の点が悪かったから時間を戻せと彼女に迫った。彼女が熱を出す前まで。実際は、俺が試験で悪い点を取ったことなど、ただの一度もないのだが。
……セシルは、頭は良い方だと思うが、何でもそつなく器用にこなせるタイプでは全くない。
むしろ、努力と力技で押し切るタイプだが、かなりそそっかしくて見ていられないこともあり、彼女が何かと失敗する度に、俺はいろいろセシルに依頼した。まあ、彼女からしたら俺の我儘にしか見えなかったかもしれないし、彼女が時間を戻したいと願った訳でもないのだから、余計なお世話というものだったのかもしれない。
家への資金の援助もそうだ。彼女の家から商品を買うのは、最低限にしていた。……彼女の家が没落しては大変だが、彼女を金でコントロールするような真似はしたくなくて、自分の力で振り向かせたいと、意地になっていた。
そんな彼女への想いは、口に出さなくても、きっといつの日か伝わることを願っていたけれど、そんな思いは俺の傲慢さに過ぎず、すべて裏目に出ていたのだと、俺は嫌でも気付かされることになる。
……そう、言葉に出さなければ伝わらないこともあるのだ。感情を素直に表す彼女が、俺をあれほど嫌そうに見ている時点で、気付くべきだったのだろう。
……そして、まさか第二王子以外にも、彼女に近付く男が現れようとは。
俺は、自分の彼女への素直でなかった行いを、心底後悔することになる。
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