後編

 身体が宙を舞う浮遊感があった後、足に激痛が走ると共に、ごきりと嫌な音がした。


 鈍い痛みに呻いていると、青い顔をしたジョセフィーヌ様とティナ様が、階段下の私のところまで、慌てて飛んで来る姿が見えた。


「大変だわ…! ティナ、すぐに回復魔法をお願いできる?」

「もちろんですわ、ジョセフィーヌ様」


 ひそひそと言葉を交わした二人は、顔を見合わせて頷くと、ティナ様が私の足に手を翳した。柔らかく白い光が、私の足を包んでいく。


 私は自分の足よりも、二人の様子をただ、呆然と見つめていた。


 ……なんだ。ジョセフィーヌ様とティナ様、仲いいんじゃない。


 二人の雰囲気は、緊急事態だから協力しようとか、そういうよそよそしいものではなかった。明らかに、元々仲の良い友人の間のそれだった。


 頭の中にクエスチョンマークがいくつも浮かぶ中、私はひょいと誰かに抱き上げられた。


「……!?」


 びっくりして顔を上げると、間近に第二王子の整った顔が見えた。


「えっ、マキシミリアーノ様?」

「セシル、足は大丈夫か。救護室まで連れて行こう」

「いえ、あの、大丈夫です! ティナ様が回復魔法をかけてくださいましたので……!」

「いや、すぐには痛みは引かないはずだ。少し身体を横たえて、休んだ方がいい」


 この恥ずかしい、俗に言うお姫様抱っこの状態から早く逃れたくてもがいたものの、残念ながら彼は救護室のベッドに着くまで、その腕を離してはくれなかった。


 私をそっと救護室のベッドに下ろすと、マキシム様は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「危険な目に遭わせてしまって、すまなかったな、セシル。……私は少し、君を頼りすぎていたようだ」


 少しどころか、私ばっかり動いていたじゃないですか。そんな心の声はぐっと飲み込んで、私は彼にどうにか微笑んだ。


「いえ、こちらこそ、わざわざお手を煩わせてしまいましたが、ここまで運んでいただいてありがとうございました。……これからは、できることならもう少しお手柔らかにお願いできると……」

「ああ、考えておこう」


 珍しく黒さのない、柔らかい笑みを浮かべると、マキシム様はお大事にと言い残して立ち去って行った。


 救護室の入口の扉の後ろに隠れている二人の影が見えて、私は声を掛けた。


「あのう……そこにいらっしゃるのは、ジョセフィーヌ様とティナ様でしょうか?」


 そろりと姿を現したのは、やはりその二人だった。ジョセフィーヌ様とティナ様は、私のベッドの脇に歩み寄って来た。


 少しばつが悪そうにもじもじとした後、ジョセフィーヌ様が口を開いた。


「あなたに、あんな思いをさせてしまって、ごめんなさいね。……ティナのことを、庇ってくれようとしたのでしょう?」

「ええ、まあ……」


 ティナ様を庇うというよりも、ジョセフィーヌ様を止めるのが本来の目的なのだけれど、それを言う訳にもいかず、私は言葉を濁した。


「それから、あなたは、……気付いてしまったわよね?」


 ジョセフィーヌ様のその言葉には、すぐにこくりと頷いた。


「はい。……ジョセフィーヌ様とティナ様は、仲がよろしくていらっしゃるのですね」


 二人は少し苦笑しつつも、視線を交わして頷いた。

 ティナ様が私に微笑んだ。


「ジョセフィーヌ様と仲が良いなんて、私には勿体ないお言葉なのですが。私は、元々隣国の貧しい家の出身なのです。食べる物にも困っているところを、ジョセフィーヌ様に助けていただいたのです。いわば、ジョセフィーヌ様は私の恩人です」

「いえ、助けるなんて大層なことは、私はしてはおりません」


 ジョセフィーヌ様は首を横に振った。


「ティナが、転んだ幼い兄弟に回復魔法をかけるところを、たまたま隣国を旅行していた私が、馬車から目撃したのです。驚きましたわ……。彼女のような回復魔法の使い手は、滅多にいませんから。まさに天の恵みです。それで、聖女の資質がある者として、この国に連れて来たのです」


 そんな背景があったとは、知らなかった。驚きに目を瞠る私に、ティナ様は続けた。


「ジョセフィーヌ様は、貧しい我が家に惜しみない支援を与えてくださいました。そのお陰で、私の家族は今、幸せな生活が送れています。拾われた私に教育を与えてくださったのも彼女です。……私は聖女などと言われていますが、この国よりも何よりも、ジョセフィーヌ様をお守りするためなら何でもするつもりでおります」


 ティナ様は尊敬を込めた眼差しでジョセフィーヌ様を見つめてから、私に視線を戻した。


「ジョセフィーヌ様からは、聖女として、特定の貴族に肩入れするようには見せないほうがよいとの助言をいただいていました。そのために、今まではジョセフィーヌ様ともほどほどに距離を取っておりましたので、おわかりにはならなかったかと思いますが」


 彼女の言葉に頷いた私は、直球でジョセフィーヌ様に質問を投げることにした。


「またどうして、ジョセフィーヌ様はティナ様に、嫌がらせに見えることを、躍起になってなさろうとしているのです?」


 ジョセフィーヌ様はそっと目を伏せた。


「……それは、私の婚約者のマキシミリアーノ様から、私に婚約破棄を告げて欲しいからなのです」

「……ああ、腹黒王子様ですものね……」

「えっ、今何か?」

「いえ、何でもございません」


 どうやら、心の声がだだ漏れていたらしい。慌てて誤魔化すと、ジョセフィーヌ様は真剣な顔で続けた。


「私は、幼い頃からマキシミリアーノ様を存じていますし、兄のようにお慕いしています。けれど、私には心にただ1人、想う相手がございます。しかし、彼とは身分の差があり、添い遂げようと思えば、家を追われて身分を失くし、国外にでも追放されるほかないのです」


 ジョセフィーヌ様は、思い詰めたような表情で呟くように言った。


「……マキシミリアーノ様に一番ご迷惑をかけずに、私の希望を達成する方法がこれしか思い付かず、ティナにも協力してもらっていました。聖女に手を出したとあれば、間違いなく重罪に相当するでしょうし、王子の婚約者としても相応しくありませんから」


 第二王子を兄のように慕っているというジョセフィーヌ様のフレーズに一番の衝撃を受けつつも、……私以外にはあの腹黒さは見せていないのだろうか……、私は必死に頭を回転させた。


「あの。もし、ジョセフィーヌ様がティナ様にそのようなことをなさっても、マキシミリアーノ様がジョセフィーヌ様を好いていらっしゃっていて、婚約破棄を告げることがなければ、目的は達成されないのですよね……?」


 ティナ様は、そんな私ににこりと笑った。


「もしそのような可能性があれば、私の魔法でマキシミリアーノ様を操ることも可能ですので、問題ございませんわ。……私の身がどうなろうとも、ジョセフィーヌ様がお幸せになれるのであれば、それで構いません」


 どうやらティナ様の魔法はチート級らしい。ジョセフィーヌ様は眉を寄せて溜息を吐いた。


「できれば、そんなことをしたくはないのですけれど。この国が聖女と認めた彼女を罰することは、国の威信にも関わります。それに、ティナの魔力はとても高い。もし彼女がそのような魔法をかけても、きっと彼女がやったとは誰にもわからないでしょうし、もしわかっても恐らく大丈夫だと踏んではいるのですが、出来ることなら、そのようなリスクのある事態は避けたいのです」


 そこまで言うと、彼女は何かを閃いたように、突然目を輝かせた。

「……そうだ。セシリア様、私たちに協力してはいただけませんか? 私がティナに嫌がらせをしていて、私との婚約など破棄すべきだと、隣国にでも派手に追放すべきだと、マキシミリアーノ様をご説得願えませんか。それが難しければ、聖女を害したとみなされる決定的な場面作りにでもご協力いただけたら、嬉しいのですけれど……」


 私は頭がくらくらとした。

 嫌がらせの場面作りに協力したところで、結局自分で巻き戻すのだから、意味のない無限ループになってしまう。それに。


「あの、マキシミリアーノ様はジョセフィーヌ様を愛していらっしゃると思うので、私が何を言ったところで、私の言葉は彼に届かないかと……」


 必死に抵抗する私の言葉に、ジョセフィーヌ様はうふふと大変に美しく微笑むと、きっぱりと言い切った。


「マキシミリアーノ様も、私と同じですわ。私のことをまるで妹のように好いて、大切にしてくださっています。女性として愛されているのとは、また違いますわ。女性の勘として、私にはわかりますもの」


 そして、なぜか楽しげに瞳を輝かせた。


「それよりも、セシリア様の方が、マキシミリアーノ様によほど好かれているのではなくて? 最近、彼とよくお話されているでしょう。彼の瞳があれほど楽しそうに輝くのを、私は初めて見ましたわ。先ほども、とてもセシリア様を心配していらっしゃいましたし。よろしければ、私がお二人の仲を取り持つように協力いたしますわよ?」

「いえ、結構です。そんなことをしていただくには及びません」


 私は即座に全力で否定した。ぞくりと背筋に悪寒が走る。

 仮にジョセフィーヌ様が第二王子から妹のように見られているとして、私は彼の道具ないしは玩具としか見られていないはずだ。


「……ああ、セシリア様はジャレッド様に愛されていらっしゃいますものね。そういうことでしたら、余計なことはいたしませんわ。失礼いたしました」

「それもないですね」

「……あら、見ていればわかりますけれど」


 ぶんぶんと勢いよく首を横に振る私を、ジョセフィーヌ様とティナ様は、可哀想なものを見るような目で見た。最近、こういうことが割とよくあるような気がする。


 おかしな方向に流れた会話に、私はしばらく口を噤んだけれど、しばし頭を巡らせてから、ジョセフィーヌ様とティナ様の顔を見上げた。


「あの、お約束は出来ませんけれど。もし、先程ジョセフィーヌ様が仰った通り、マキシミリアーノ様がジョセフィーヌ様に妹のような愛情を感じていらっしゃるのなら、ですが。……ジョセフィーヌ様との婚約破棄をして、国外追放するという茶番劇を、マキシミリアーノ様がもし演じてくださればよろしいのですよね?」

「それをお願いできるなら助かるわ」

「もっと、ほかにも方法がありそうな気もしますが……」


 さすがに、それをジョセフィーヌ様から直接、マキシミリアーノ様にお願いする訳にもいかないのだろう。婚約者として彼女を愛しているならば、そんなことを言われては彼のショックは計り知れないだろうし。


「ダメ元で、マキシミリアーノ様に聞いてみます。あまり期待はなさらないでくださいね?」


 ジョセフィーヌ様とティナ様は嬉しそうに頷いている。

 私がそっと溜息を吐く中、二人は何度も礼を述べてから部屋を出て行った。


 マキシム様とはこっそりと相談していたつもりだったのに、案外目立っていたようだ。今後は気を引き締めて行こうと心に誓う。


 二人と入れ違いになるように、見知った顔がドアから覗いた。ひらひらと手を振って、ジャレッドが入ってくる。

 ベッドサイドに腰掛けると、私の顔を覗き込んだ。


「お前、階段から落ちたんだってな。怪我の具合は大丈夫か?」

「うん。ティナ様がすぐに回復魔法をかけてくださったの」

「そうか、それならよかった」


 一瞬、ほっとしたような柔らかい表情を見せた彼だったけれど、すぐにじとりと私を見ると、私の近くに顔を寄せて、小声で囁いた。


「なあ、いったい、どうなってるんだ? ……第二王子が、お前を抱き上げて、ここまで運んで来たんだってな。しかもセシルって愛称で呼んでたそうじゃないか。ここ最近、お前の行動も変だ。……お前、彼の依頼で、時間の巻き戻しの魔法を使ってるのか?」


 黙った私に、彼は状況を理解したのだろう、悔しそうに右手を握り締めた。


「くそっ、お前は、俺のものなのに……」


 お前は、ではなく、お前の魔法は、の言い間違いだろうけれど、不覚にも一瞬、彼の言葉にどきりとしてしまった。


 ジャレッドはなぜか悲しげに私をじっと見つめると、


「回復魔法をかけたとは言っても、すぐには完治はしないだろう。早く治るといいな。……もし辛ければ、しばらく俺の家の馬車で学園まで送ってやる」


 そんなことをもごもごと言ってから、私の髪をそっと撫でて、部屋を出て行った。


 こんなに優しい手付きで彼に髪を撫でられたのも、多分初めてだ。

 私はしばらくぼんやりと、そんな彼の背中を見送っていた。


***


「ああ、そういうことだったのか。……じゃあ、別にそれで問題ないな」

「えっ。本当に、それでいいんですか?」


 びくびくしながら、マキシム様に、ジョセフィーヌ様とティナ様に関する事の次第を伝えに行ったというのに、彼の意外な言葉に、私は拍子抜けしていた。


「でも、あの、マキシム様はジョセフィーヌ様を愛していらっしゃったんじゃ……」

「ジョセフィーヌは、私の本当の妹のように、目に入れても痛くないほど大切な存在だ。絶対に傷付けたくはないが、婚約破棄と国外追放が本人の希望ならば、それも問題なかろう。それよりも、」


 彼の瞳が、ふっと暗く、いや黒い色を帯びる。


「この私が、この国でも五本の指に入る屈指の魔法の能力者である私が、魔法で操られるなどとというのは、私の人生の汚点だ。断じてそんなことはあってはならないし、そんなことが起きるのを、黙って見過ごす訳にはいかない。……だが、私が自らの意思であの台詞を言うのであれば、別に何の問題もないだろう」


 ああ、そっちでしたか……!

 私はがくりと肩を落とした。

 完全に、問題の所在を見誤っていました。


 ごほんと咳をして気を取り直すと、私はマキシム様に尋ねた。


「……では、ジョセフィーヌ様がティナ様に何かしら嫌がらせをしても、もう止める必要はありませんね?」


 彼はきょとんとして私を見つめた。


「いや、そういうことなら、もうそんな嫌がらせは起こらないと思うが……」

「何故です?」


 失礼なことに、彼は私の真剣な顔を見て吹き出した。


「ははは、セシリア。君は、ジョセフィーヌの嫌がらせを、上手いこと気付かれないように、止めたと思っていたんだろうが。ジョセフィーヌがティナに嫌がらせをするのを、君が間に入って、身を呈して止めようとしていたようにしか、私にも、周りにも見えなかったはずだ。……まあ、何回かは、何事もなかったように、嫌がらせがなされようとしたこと自体が気付かれないまま、君のお陰で止めることに成功していたけれどね」


 マキシム様は顔を引き攣らせた私に対して続けた。


「……だから、もし俺にまだ婚約破棄をする気がないのなら、さらに重ねて、決定的に酷い嫌がらせでも必要かもしれないが、俺が茶番を演じる前提ならば、まあ今の状況でも、嫌がらせの証拠としては十分だろう」


 今度は私のほうが首を傾げた。


「なぜ、そんな意味のないことを……? 私が下手を打ったら、またすぐにやり直させればよかったじゃないですか」


 まだ第二王子はくっくっと笑っている。


「だって、何だか君、面白かったし。……久々に、こんな面白いものを見たよ。君の必死な姿を見てると、またすぐにやり直せっていうのも申し訳なくてね。もし本当に卒業パーティーの場面でどうしようもなくなれば、また一気に時間を戻せば済む話だし」


 ……鬼だ。この人、本当に鬼だ。

 私は心底げんなりした。さっさとこんな人のところからは逃げ出したい。

 内心でそう毒づいた私に気付いたのかどうか、彼は続けた。


「時間を巻き戻すと、君と二人だけの思い出を、時間を共有できる。それも、なかなかいいものだと思ってね」


 一般的に見ればたいそう美しいのであろう彼の微笑みを見ながら、それではあんまりフォローにはなっていないなと思いつつ、私はそっと溜息を吐いた。


「では、卒業パーティーでは、時間を巻き戻す前と同じセリフを、マキシム様が言うことになるのですね?」

「ああ、そうだな。……何だ、不満そうだな?言いたいことがあるなら、言ってみろ」

「いや、私も報酬をいただきますし、マキシム様は魔法にもかかりませんし、ジョセフィーヌ様もティナ様も、みんな結果オーライなのは、わかるんですが……」


 つい、私の口からは本音が溢れていた。


「何というか……。これだけ色々やったのに、結果として、マキシム様のセリフとして出る言葉も、起こる出来事も、周りから見ると何も変わらないということに、何とも言えない徒労感が……」


 私の言葉を聞いたマキシム様が、何かをぶつぶつと呟いた。


「じゃあ、ひとつ変化球でも投げてみるか」

「……? 何か、仰いましたか?」

「いや、何でもない。こちらの話だ」


 第二王子がその時にやりと笑ったことに、私は気付いてはいなかった。

 彼に下手に本音を漏らしてしまい、おかしな気を起こさせたことを、私は後日、心底後悔することになる。


***


「……ジョセフィーヌ、君は聖女であるこのティナに、度重なる嫌がらせをしたそうだな」


 ああ、始まった。


 私は、今度は最前列ではなく、私を引っ張るジャレッドの手をするりと躱して、人垣のだいぶ後ろのほうから、これから始まる婚約破棄の茶番劇を見守ることにしていた。

 さすがに、筋書きを知っているだけに、驚いた顔をするのは、フリだとしても嘘臭くなってしまいそうだ。それだけならまだしも、間違えてうっかり吹き出してしまいでもしたら、大変だ。


 マキシム様はよく覚えているなというくらい、時間を戻す前と同じ調子で、ジョセフィーヌ様との婚約破棄と、彼女の国外追放の台詞をすらすらと述べていく。

 彼の言葉にジョセフィーヌ様が深く一礼したのを見て、私はふうと一息吐いた。


 ……ああ、これで無事に茶番が終わった。


「……驚いたな」


 ジャレッドが横で呟くのを聞いて、普通はこの場面を見たら驚くよねと思う。彼は私がさして驚きもせず、それどころか微妙な顔をしているのを見て、怪訝そうな顔をしていた。


 さあ、このままマキシム様が背中を向けて退場したら、幕引きね。

 そう思っていたのに、彼は舞台上から動く気配がない。……なぜ?


 そう不思議に思いながらマキシム様を遠目から見ていると、あの黒い笑みが彼の顔に浮かぶのが見えた。何だか嫌な予感がして、ぞわりと背筋が粟立つ。


「そして、私の婚約者だが。……今回の一連の出来事に関して、聖女の身を守るために、自ら危険を顧みず、その身を呈した女性がいる。そのような崇高な精神の持ち主こそが、私の隣に立つ者に相応しいと、私は考えている。したがって……」


 彼のこの後の言葉は、皆さまのご想像にお任せしたい。


 私の前にいる人垣が、いっせいに、信じられないという顔で私の方を振り向いた。……いや、数人はきょろきょろと私を探しているみたいだけれど。皆の視線が刺さって痛い。こんなことになるのなら、まだ最前列にいた方が、正面からの視線を浴びずにましだった。

 ジョセフィーヌ様とティナ様は、お二人とも顔を伏せたまま、少し肩を震わせている。

 ……そんなに笑うと、茶番がばれてしまいますよ!


 私は口から心臓が飛び出そうになりながら、嫌な汗と闘っていた。

 助けを求めて左を向くと、誰よりも驚きに目を瞠る幼馴染みの姿がある。


 ジャレッドの肩にもたれかかって借りをつくる訳にもいかず、必死にふらつく両足を踏ん張っている青ざめた私に対して、彼は舞台上からにやりと笑ってこちらを見ている。私を驚かせるのが、そんなに楽しいのだろうか。心の底からやめてほしい。


 ……もし不都合があれば、また巻き戻せばいいだろう?


 そんな彼の心の声が、彼の笑顔に透けて見えたような気がした。

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