可愛いは篠田の持ち物
次の日、篠田は来なかった。
久しぶりに一人で過ごすこの場所はかなり陰気臭くて、みんなが最期の場所に選ぼうとするのも頷ける。
今なら一人だ。これはチャンスかもしれない。鞄の底に隠したままの存在がそう呼びかけて来るけれど、僕にはもうそんな気はなかった。少なくとも、今世では。
「見ていたいものができたし」
僕の呟きが本人に聞こえることはない。
篠田が次に階段に現れたのは、週明けのことだった。
目の周りが少し青くなっている。教室で遠めに見ていて気が付いていたが、近くで見ると一層痛々しい。
「それ、どうしたの」
「タンスの角にぶつけちゃって」
もう何度も繰り返し吐かれたであろう嘘は、わざとらしく彼女の喉に張り付いている。
「嘘をつくのは、いい子じゃないんじゃないか」
「他人のためを想った嘘はいい子でしょ」
観念したように嘘を認めた篠田がそんな屁理屈を言う。
「先輩がね、見たんだって」
「なにを」
「私と佐山くんが歩いてるの」
「だからなに」
なんとなく篠田の怪我の理由がわかってイライラした。この感情を彼女にぶつけても意味がないことはわかっているのに
「他の男と浮気すんなって言われたのよ」
「浮気してるのは……」
「先輩は私が浮気を知ってるって知らないから」
だから強気でいられるのよ、と篠田が苦々しげに続けた。
それなら知っていると言えばいい。私がなにも知らないと思ってるのかと泣けばいい。きっと先輩は驚いた顔をするだろう。鳩が豆鉄砲を食ったようというたとえにふさわしいくらい綺麗にびっくりするはずだ。
だって先輩は、篠田を舐めている。
「馬鹿にされてるよ」
慰めのひとつでも言おうと思っていたのに、口から出たのはそんな呟きだった。
「わかってるよ、私は先輩に馬鹿にされてる」
でもそれがなに、と彼女は続けた。
「それと、私が先輩を好きな気持ちになんの関係があるの?」
「どこが好きなんだ」
「顔かな」
「どこが嫌いなんだ」
「他の人に向ける顔かな」
じゃあ篠田は、これからどうしたいんだ。
言葉は音にならなかった。
僕が黙ってしまったのを見て、彼女が気まずそうに頬をおさえた。コミュニケーションが得意な方ではないのだろう。クラスのアイドルとしての振る舞いはわきまえていても、一対一で真剣な話をするのには向いていない。
「だからさ、可愛くなりたいんだよね。もっと」
「だからの使い方、間違ってる」
「合ってるよ。先輩が浮気しないくらい……私が本命になれるくらい可愛くなりたいの」
「そのためにいい子になるの?」
「そうよ」
「無茶苦茶だ、そんなの。可愛いは、篠田の持ち物なんだろ」
篠田の言葉を借りて反論すると、わかってないなあと彼女は言葉を続けた。
「私の持ち物をどう使うかは私の勝手なの。私は先輩のために使いたいんだよね」
「それは……」
本心なのか。それとも意地なのか。
僕が立ち上がると、篠田は大げさに肩を揺らした。きっと座っているときに先輩に殴られたのだ。自分の上に影が出来ることを体が怖がっているのだろう。
腹が立つ。無性に腹が立つ。
「帰るの?」
「ちょっと、野暮用」
「野暮用って本当に使う人いるんだ」
篠田はそう言って笑って、体の反射を誤魔化していた。
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