夢に出てきた神様

 次の日も、その次の日も、土日を挟んでも篠田は屋上に続く階段に座っていた。

ほとんど毎日、彼女は放課後をこの湿気臭い場所で過ごしている。最初と違うのは彼女が首を吊っていないことくらいだ。


 最初は嫌そうな顔をしていた彼女だけれど、この空間から僕を追い出そうとはしなかった。


 死ぬ意思がなくなったのか、自殺への興味が薄れたのか。真実はわからないけれど、彼女が生きていてくれるのならばどちらでもいい。全く会話をしない日もあったし、彼女がやたらと話しかけてくる日もあった。


 今日は恐らく後者だ。僕の姿を見た彼女が少し愉快そうな顔をする。



「ねえ、アイシャドウ変えたの、気付いた?」



 篠田が身を乗り出して自分の目を指さした。大きな瞳は少し潤んでいて毛細血管が透けている。目のまわりの粉にまで視線が追いつかない。



「え、いや」


「はあもう、まったく。先輩なら気付いてくれるのに」



 じゃあ先輩に言え。


 そう返したら、きっと自分から言うのはいい子じゃないと文句を言われるだろう。



「本当に好きだね、先輩」



 わざと呆れを含ませると、彼女は少し眉を寄せた。



「そりゃあ、私の彼氏だし」


「じゃあ放課後も先輩のところに行けばいいのに」



 僕の言葉に返事を返さず、篠田が鞄の中からタオルを取り出す。あの日、彼女の首に巻き付いていた物だ。先輩から借りているのだと聞いたのは、確か一昨日のことだったか。いや、三日前だったかもしれない。とにかく、篠田のものではないタオルが視界に入るのが嫌で目をそらした。



「先輩は今頃、本命の彼女と一緒だよ」



 篠田はそう言ってタオルの匂いを嗅ぐ仕草をする。



「あれ、うちの柔軟剤の匂いだ」


「そりゃ、洗濯したらそうなるだろ」



 なんで洗ったんだよ。そういう突っ込みをすれば篠田は何を当たり前のことを聞いているのかというように首を傾げた。



「でも、先輩が使ってそのままとか汚いし」


「好きなのに?」


「衛生面に恋心関係ある?」



 ないかもしれない。どうだろう。


 篠田が使ったタオルを僕が持っているとして。そこまで考えて、彼女の使い道はせいぜい首を吊るくらいだろうということに気が付いた。汗で汚れることはないだろうし、香りもきっと柔軟剤だ。



「何考えてるの?」


「衛生観念と恋心と、えっと、それから自殺について」


「自殺かあ」


「もうしないのか?」


「まだいい子じゃないから」


「そうかな?」



 教室では相変わらずみんなの人気者で頼りになる、クラスの癒し的な振る舞いをしている彼女は、いい子と呼ぶにふさわしいだろう。僕にはいい子過ぎる教室での篠田よりも放課後に見る人間味がある彼女のほうが魅力的に思えるのだけれど。



「いい子でいたらね、可愛くなれるんだよ」



 篠田が足元に視線を落として、小さな声でそう言った。注意深く篠田の声に耳を傾けていなければ聞き逃してしまうようなか細い声。



「どういうこと?」



 すかさずそれを拾い上げて篠田に返す。


 いい子にならなければいけないのは神様がそう言ったから、それ以上の情報を彼女の口から聞くのは初めてだった。



「いい子で死んだらね、来世は可愛くなれるの」



 ほら、今世は絶望的だから。


 自分の顔を両手で指さして篠田はため息を吐いた。少なくとも、彼女の言うように絶望的な容姿ではない。ひいき目もあるかもしれないが、篠田の顔は整っている。駅ですれ違ったらきっと振り返るくらいには。



「篠田は、可愛いけど」


「いいからそういうの」



 なけなしの勇気を振り絞った言葉だったが、彼女にとっては言われなれた誉め言葉だったのかもしれない。小さく手を振って諦めたような表情をする。



「でも……」


「佐山くんはさ、私じゃないよね」


「え、もちろん。そりゃ」


「じゃあさ、佐山くんが私を可愛いって思っていても私には何の関係もないわけ」



 僕が次の発言をするよりも、彼女が続きを話すほうが早かった。



「私のコンプレックスとか、辛さとか、嫌なこととか、そういうものは全部私の持ち物だから。佐山くんがどう感じるかとかは関係ないんだよ」



 二度も言われた関係ないという言葉がひどく不愉快だ。その不快感を愛しいという感情が上回ったのは、篠田が泣きそうな顔をしていたからだと思う。また新しい表情をしたなという発見が、彼女の言葉の輪郭をよりはっきりとさせる。



「篠田は辛いんだな」


「辛いよ、可愛くなりたい。可愛くなったらさ、きっとさ。いや、えっと、とにかく、来世は絶対可愛くなりたい」


「そのために、いい子で死ぬのか?」



 彼女は小さく頷く。重力に任せただけの肯定派は、コロンと音がして頭が階段を転がって行ってしまいそうだ。



「誰がそんなこと」


「夢に出てきた神様」


「神様?」


「うん、そうだよ、神様。嫉妬できないくらい可愛い神様が言うんだもん。きっと本当のことだと思うの」


「宗教的な話してる?」


「いいねそれ、宗教かあ」



 一際大きくなった篠田の声



「来世は絶対可愛い教、とか?」


「だっさ」



 そうやって茶々を入れるのが精一杯だった。


 来世は絶対、絶対、ぼくならその先になんと続けるだろう。可愛くなりたいわけではない。成績がよくなりたいわけではない。絶対、という言葉の責任感に見合う感情が見つからない。一つだけあるかもしれないけれど、いい子で死んだ後の来世に叶えるのに見合うかというと、そういう気はしない。


 篠田がスクールバッグを持って立ち上がった。今日はもう帰るのか、と背中を見送ろうとすると、階段の踊り場で彼女が立ち止まる。



「一緒に帰ろうよ、佐山くん」



 初めての誘いだった。できるだけ冷静を装って篠田の隣に並んだけれど、返事をするのを忘れていたらしい。訝しむような彼女が無視しないでよと唇を尖らせた。


 誰もいない廊下には西日が差し込んでいて、外からは部活動の声が聞こえてくる。やる気のある人間と、惰性で続けている人間は声だけでも判断できるのかもしれない。僕の人生は、おそらく後者だ。篠田はどうだろうか。前者のようで後者でもある。中間地点の人物がいるなら、きっとその人は篠田のような声をしているだろう。


 駅までの道に会話はなかった。


 篠田と別れてからどうやって帰ったのかは覚えていない。いつものようにできるだけ遠回りをして、公園で時間を潰した。日付が変わりかけたころに家に帰ると、母は出勤した後だった。カップ麺の容器が机の上に置いてある。脱ぎ散らかされた服を拾って脱衣所に押し込んだ。



「来世は絶対……なんだろうな……」



 篠田との会話を思い出しながら、冷蔵庫の中にあるコンビニ弁当を温めた。賞味期限は二日前くらいだろう。そんなもの、見なければ気にならない。


 母が飼いたいと言ったハムスターは、糞にまみれて眠っていた。絶対にお前は世話をするなと言われている。一度約束を破ってエサをやったら、ずいぶんひどい目にあった。このハムスターが最初に飼い始めたやつなのかどうかすら、僕にはわからない。もしかすると、二代目とか三代目かもしれない。



「お前も来世は別のところに産まれるといいな」



 このハムスターが入信するとしたら、来世絶対飼い主を選ぶ教、とかか。



「だせえ」



 僕のネーミングセンスは篠田といい勝負かもしれない。

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