慶長19年9月堺(その2)
明石沖にさしかかると日暮れが黒い雲を運んできた。
やがて灰色の雨が横殴りに降ってきて、船は激しく揺れた。
「今夜はここで泊まりです。みなさん船倉へ」
水夫頭が、臨時で船を明石港に着けると甲板を触れて回った。
低い天井に灯りがひとつともっていたが船倉はうす暗い。
それぞれが積荷の間で寝ることになった。
侍と牢人たちは前の方に、町人たちは後ろに、中ほどの階段の下は無三四と人買いの権太郎と娘の寝床となった。
激しく揺れる船倉でめいめいが葛籠などから握り飯を取り出して夕餉をすませ、一刻ほどするとあちこちから寝息が聞こえてきた。
・・・無三四は積荷にもたれて半覚半睡の眠りについた。
からだは眠るが、気は常に目覚めてあたりをうかがう、これが武士の戦場で眠る作法だ。
嵐は去ったのか、船の揺れは収まり潮のうねりをからだの下に心地よく感じるようになった。
無三四のそばに這い寄ってきた者がいた。
「お侍さま、お助けくだされ」
声を押し殺してささやく少女の顔がすぐ横にあった。
乏しい明かりで見ると、わざと煤だらけにした顔だが、卵のようなきれいな輪郭で、切れ長の目とすんなり伸びた鼻筋と小さな口がみごとに整っている十三ほどの美しい少女だ。
「泳げるか?」
無三四がたずねると、少女は頭をめぐらせてあたりをうかがってから、こくりとうなずいた。
無三四は少女の袂に銭をそっと落とした。
・・・翌日の昼前に便船は堺の港に着いた。
荷役をする軽子を乗せた迎えの艀がやってきた。
その軽子たちが乗船すると入れ替わりに、いちばん先に従者を従えた深編笠の高位の侍が乗り、大坂城の助っ人の山賊のような五人の牢人が続いた。
船頭に促されたが、無三四は商人の一団とともに次の艀を待った。
二艘目の空の艀がやってきた。
先に無三四が乗り、ひと買いの権太と少女と町人の一団が続いた。
艀が動いたところで、無三四が少女を海へ放り込んだ。
「こらっ!」
あわてた権太が立ち上がったので艀が大きく揺れた。
しかし、あざやかな抜き手を切って泳ぎ去る少女を見てあきらめたのか、権太は口惜しそうに唇を咬んだだけであとを追おうとはしなかった。
「もしや、宮本無三四どのではござらんか?」
堺へ上陸すると、先の艀に乗ったはずの高位の侍が無三四を待っていた。
「その辺で少しばかりお付き合いくださらんか」
侍は大野治長の家臣、妹尾順三郎と名乗った。
・・・大野治長といえば、淀殿の乳母・大蔵卿の局の長男で、秀頼公の側近筆頭ではないか。
『勝てば出世は思いのままじゃ』
父無二斎の縁と春海坊の斡旋で、東軍の黒田長政軍に陣場借りして関ケ原で戦った十七のころの功名心がよみがえった。
・・・だが、それは今では苦い思い出でしかない。
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