慶長19年9月秋月(その1)
父無二斎が死んだ。
もはや諸国廻行の武者修行にも出ず、本阿弥光悦の鷹峯の芸術村で水墨画と作陶に没頭していた無三四は、ただちに秋月に駆けつけた。
通夜には、かっての作州竹山城の新免衆の仲間たちと、無二斎が黒田藩のみならず細川藩にまで広めた当理流の門弟たちが弔問にやってきた。
秋月城裏の墓地に無二斎の遺骸を葬ってから、武家長屋の部屋の遺品を片付けていると、馬に乗った佐々木家の使いと称する者が城門前に現れた。
門番が持って来た書状は、豊前国の田川郡添田庄に館を構える佐々木一族からの果たし状だった。
極悪非道なやり口で娘婿の小次郎をなぶり殺しにした無三四を、口をきわめて罵り、当主の細川忠興公に敵討ちの許しを得たので、小次郎の未亡人と立ち会えという文面だった。
期日は明後日、場所は小倉の浜とあった。
無三四は、小次郎との果し合いは第三者の長府藩の検使が立ち会った正式なもので、互いに生死を賭けて戦い、遺恨がないことになっているので、この果し合いは受けることができないと、無三四はすぐに書面をしたため、使いの者に持たせた。
新免衆の長老の内海孫兵衛に話すと、
「たしかに、互いに遺恨を残さないという約束での果し合いじゃった。細川の大殿が裁可したというのはまことじゃろうか」
と孫兵衛は疑い、細川家家老の松井興長にたしかめるためすぐに早馬を杵築へ送った。
「今にも徳川と豊臣の間で戦端が開かれようとしておる。豊家恩顧のわが主君をはじめ、福島正則さま、加藤嘉明さま、蜂須賀家政さま、平野長泰さまは江戸城留め置きとされるらしい。徳川は外様大名が豊臣に寝返るのを恐れておる。それでなくとも、幕府は外様の争いごとに目を光らせておる。細川家も外様じゃて。あってはならないことじゃ」
孫兵衛は首を振った。
翌朝になっても早馬はもどってこなかった。
「やはりこれはまともに取り合わないことじゃ。逃げるが勝ち。四年前の舟島のときと同じように福岡へ抜けてから下関へ向かうがよい」
と孫兵衛が知恵をさずけた。
・・・だが、無三四は興長の返事を待つことにした。
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