慶長15年5月舟島(その4)
検使が小次郎の死と無三四の勝利を宣告するや、無三四は検使に一礼をして、岸辺に乗り上げた舟を船頭の権蔵とふたりで岸へ押しやり、ただちに舟島を離れた。
若い権蔵は、無三四に祝辞を言うのも忘れて、懸命に櫂を漕いだ。
・・・あるいは、目の前で小次郎の頭蓋が砕け血が四方に飛び散るのを見て恐怖にすくみ声が掛けられなかったのかもしれない。
沖合に出ると、ゆるやかだが潮はまだ海峡の方に引いていた。
彦島を過ぎて振り向くと、五艘ほどの小舟が追って来るのが見えた。
それぞれに槍や半弓を持った侍たちが乗っている。
・・・小次郎の門弟たちにちがいない。
権蔵は目いっぱい櫂を漕いだが、追手の舟はみるみる迫ってきた。
赤間ヶ関の目の前に来たとき、門司の方角から、鉄砲や半弓を肩に武装した一団を乗せた屋形船が現れて、無三四の舟と小次郎の門弟たちの舟との間に割って入った。
・・・どのような話し合いが行われたのか分からないが、門弟たちの舟がそれ以上追ってくることはなかった。
赤間ヶ関の港に小林太郎左衛門がひとり立っていた。
権蔵が舟を岸につけると、すぐそのあとを屋形舟も追って接岸した。
門司城代沼田延元の家来と名乗った頭の侍は、無三四が小次郎との果し合いに勝てば赤間ヶ関にもどるので、警護して杵築城の松井興長の元へ送り届けるよう延元に厳命されて沖合を見張っていたという。
太郎左衛門の廻船問屋に延元の家来とともにもどった無三四は、お鶴から硯と筆を借りて二通の書状をしたためた。
一通は延元あてで、『ご配慮に感謝するが、これ以上細川家にご迷惑はかけられないので杵築への護送は辞退させていただく』旨の内容とした。
もう一通は、『小次郎との戦いは天祐によって勝利を得たが、力量は紙一重の差もなかった』と書き記し、晒しの布に巻いた血まみれの長い木剣とともに松井興長あてに託した。
延元の家来が二通の書状と木剣の包みを抱えて立ち去ると、無三四は返り血を浴びた着物を脱ぎ、長風呂に浸かってからだを洗い清め、お鶴が用意しておいたこざっぱりとした着物に着替え、湯漬けを摂った。
辞世に描いた達磨の絵はお鶴に渡し、無銘金重の長刀を手挟み、深編笠を被った無三四は馬上のひととなった。
・・・はずみとはいえ、非道にも頭蓋を砕かれた佐々木小次郎の門弟たちの怒りは収まることはないだろう。
その怒りは、兵法指南役を討ち果たされた当主の細川忠興のみならず細川家全体に及ぶであろうと恐れた無三四は、一刻も早く血塗られた関門の地を逃れようと、馬を駆って山陽道をひた走った。
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