慶長15年5月舟島(その1)

今は細川藩の所領となったひと目の多い小倉を避け、遠回りして福岡から下関に入ると無三四が言うと、無二斎は新免衆を三人ほど警護につけた。

いずれも作州竹山城の新免伊賀守に従って関ケ原で戦かって敗れると、城主ともどもすでに小倉の黒田藩にいた無二斎を頼ってきたという。

舟の手配がつくと、三人は別れを惜しみ、浜の漁師の元締めの家で一席設けてくれた。

「関ケ原では、敵味方で戦ったので、黒田になかなか受け入れられず、しばらくは落人扱いで、藁細工などをして糊口をしのいだものだぎゃ」

などと昔の苦労話に花が咲いた。

「しかし、勝者の黒田について戦ったのに、無三四どのはどうしてまた武者修行者などに?その腕なら侍大将にでも立身出世できたがに」

とたずねられたが、笑ってごまかすしかなかった。

・・・日暮れ前に赤間ケ関の廻船問屋の主の小林太郎左衛門の屋敷をたずねた。

秋月の無二斎をたずねる前にすでに立ち寄って明日の舟の手配をしておいたので、何の心配もなかった。

「明朝辰の刻に舟島に着ければよろしかったですな」

娘のお鶴にお茶と干菓子を出させてから、主は真っ先にそれを確かめた。

「できれば早からず遅からずに舟を着けたい」

おそらく小次郎は、中立の立場ということで立ち会うことになった長府藩の検使とともに、半刻より早く舟島に着いて待機しているにちがいない。

着いてすぐに闘いをはじめるのは避けたかった。

「潮の流れはどうだろう」

「辰の刻は引き潮です」

「漕ぎ手は?」

「力のある若い権蔵です」

「では、万万が一拙者が勝てばすぐに舟を出してもらう」

彦島あたりに小次郎の門弟たちが待機していて、師の敵討ちにと舟で襲ってきては海の藻屑となるしかなかった。

「負けたら・・・」

と言いかけた無三四だが、負けた者には何の手配もいらないことに気がついて口を閉じた。

明日は無銘金重の長刀はここに置いて出て、脇差のみを手挟み、今朝自製した櫂のような五尺の樫の木刀を舟底に隠して舟島に向かうことにした。

夕餉を摂って部屋にもどり、気の利いた辞世の句でも作ろうと筆を執ったが、何も思い浮かばないので、本阿弥光悦の工房でさんざん書き散らした達磨の絵を丹念に描いた。

無銘金重の長刀と達磨の絵が、光悦の母が育てている当年三歳の五郎の手元に届くよう遺書を認めた。

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