慶長11年2月江戸(その13)
「あとは地の利です。日の出前に果し合いの駿河台に赴き、草地の足元の柔らかさ、風向き、日の向きを丹念に調べました。杉の木に登って日の出を待ち、十人ほどの小野道場の門人たちが小藪に隠れるのを見届けました。弓鉄砲などは持ち込んでいないので正直安心しました」
松井親子は黙って無三四の話を聞いていた。
「正眼の構えからの必殺の一撃の突きに利があると、伊藤一刀斎の教えにあるのを知り、
小野どのが使うであろう三尺を超える長刀よりも長い五尺の槍で戦うことを考えました」
「宮本どの、槍のほうは?」
家老がたずねた。
「はっ、短槍と刀を組わせた武器を使う当理流を父無二斎に学びました」
「なるほど勝つべくして勝ったということか」
家老がしきりにうなずくのに、
「もうひとつあります」
というと、若い興長が膝を乗り出した。
「登る天道のまばゆい光を背にして戦うための位置取りです。それをあれこれ考えましたが、練兵場に現れた小野どのは頓着せずに朝日に正対して床几に座られた。これは僥倖でした。」
「忠明がそれを考えぬとは・・・」
家老がうなった。
「おのれの腕を過信したのでしょう」
興長があとを引き取った。
「しかし、あれはまさしく相打ちでござった」
無三四が言うと、
「木剣でという取り決めだったが、忠明が劣勢になったので脇差で斬りつけたという噂を聞いた。逆に、宮本どのは忠明に止めを刺さなかった。あまつさえ、いっとき身を隠しておられたそうではないか」
家老がたずねた。
「恨みがあっての私的果し合いではありません。まして小野どのは、恐れ多くも将軍家兵法指南役。立ち会うことさえかなわないのに、まして勝利をおさめることなど許されることではありません。いかなる処罰でも受けようと謹慎したのです」
松井親子との対話は、秀忠公が上田の真田勢を攻めあぐねて、関ケ原の決戦に遅参した責めを小野忠明などの家来衆が負わされた話から、関ケ原の戦いにまで及んだ。
世子の興長は、主君細川忠興に従って会津の上杉討伐へ向かったのが途中で折り返して岐阜城攻めに父とともに参戦したが、負傷して関ケ原では戦えなかったと残念がった。
十七の無三四が黒田長政軍に陣借りして戦った話をすると、
「拙者もあの年は十七でしたな」
興長は遠い昔を見るような目をした。
家老の松井康之が、細川藩の江戸屋敷の若い侍たちに剣術指南をしてくれまいかと頼んだが、
「謹慎中の身ですので」
無三四はこれを固辞した。
夕刻、無三四が細川忠興公の家老職・松井康之に拝領した白馬に跨って道三河岸の西田屋に戻ったので、甚右衛門は目を丸くして驚いた。
「たいへんな方に知己を得ましたな。うまくすると細川家の、いや将軍家の兵法指南役に立身出世できるかもしれません」
甚右衛門はわがことのように喜んだ。
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