慶長5年2月京(その5)

無三四は物陰に隠れて道場の門を見張った。

日が落ちかかるころ、一番弟子とみずからを称した矢頭某が姿を見せ、辺りを見ることもなく、背を丸めて無三四の前を歩いて行く。

やがて、柳の並木が美しい萬里小路まで来た矢頭は、初めて辺りを見回し、遊郭の大きな暖簾を分け入った。

ここから先はどうしたものか、と思案した無三四だが、遊郭の黒塀と黒塀の間に狭い横丁を見つけて入り込んだ。

高い黒塀をよじ登り、目指す遊郭の坪庭に降り立った。

矢頭が二階へ上るのを見届けた無三四は、松の大木を伝って廊下へ忍び入った。

障子戸の中で矢頭の声がした。

「奥方さまは、これ以上は、もうないとおっしゃっています」

「なに、三代続いた将軍家指南役の名門の家だ。そうは言いながらも、けっこうしぶとい。家屋敷もまだある」

話の中身から、渋い声の男は、吉岡直綱そのひとと想像がついた。

「拙者もこのような金策で、女郎屋に出入りするのは耐えられません」

「これ、女郎屋というのはちと言い過ぎだろう。それに、仇討ちと言うが、父はその作州の山猿に討たれたわけではない。山猿は負けを認めたのだろう。弱いお前たちが勝手に挑んでやっつけられたのが悪いのだ」

「勝手に、ですと?おことばが過ぎます。弟子の恥辱は、師の恥辱ではありませぬか」

矢頭は喰い下がる。

「先生、もうよいではありませんか。せっかくのお酒が不味くなりますえ。お弟子の方も、おひとついかがどすえ」

柔らかな女の声がした。

「いや、拙者、女郎などから盃など受けぬ」

女が、けたたましく笑った。

矢頭は、いきなり障子戸を開けて廊下へ飛び出した。

「やっ」

廊下の突き当りに潜む無三四を見つけた矢頭は、驚いて座敷へ後退りした。

「いかがした?」

座敷にのっそりと押し入った無三四を、盃を手にして脇息にもたれる吉岡直綱が見上げた。

錦紗の華やかな衣装の太夫が、直綱のかたわらで徳利の首をつまんだまま動かなくなった。

「作州の山猿じゃ」

無三四が、三白眼の目を剥いて睨みつけると、

「おお」

と声をもらした直綱だが、大して驚きもせず、古い友人にでも会ったかのように鷹揚に笑った。


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