慶長3年10月美作(その2)
若者だけが無限の夢を持つ特権があることを、老いた無二斎はすっかり忘れていた。
「儂は今日から、姓は宮本と名乗る。どこへ行こうとも故郷の宮本村のことは忘れないように。天下にふたりとない、すなわち天下無双が親爺どの無二斎じゃけ。儂はへりくだって、親爺どのの下の三と四はない、すなわち無三四と名乗ろうぞ」
「おお、宮本無三四か!」
無二斎は、野心に燃える弁之助を、まぶしそうに見やった。
「じぶんはどうする?」
捨丸も、話にやっと加わる気になった。
「捨丸は、伊賀守さまの子じゃけ。まず姓は新免じゃろ、名は・・・捨丸は、まずい。いかにも捨子のようで」
そこへ、お吟も話の輪に入って来た。
「新免家の縁戚には、貞の字のつく武将が多いじゃけ。・・・何か貞の字のつく良い名を考えてくだされ、親爺どの」
お吟の願いを聞いた無二斎が、いろいろ名前を口にしたが、
「いや。父上がいったん捨てられたわが命をすくい上げ、お吟姉が母として育て、弁兄が鍛えてくれた。それで捨丸は十三まで生きることができた。出自を忘れぬためにも、吟姉がつけた捨丸でよい。・・・新免捨丸で!」
もはや、子供には見えない捨丸が、決然と言ったので、
「お前の母を殺した儂を父と言うのか、捨丸・・・」
今や涙もろくなった無二斎は、はらはらと涙を流した。
「捨丸。よくぞ申してくれたのう。うれしい限りじゃ・・・」
お吟も、頬を伝い落ちる涙をしきりにぬぐった。
「お吟姉はどうなるのです?」
お吟の行く末を思う捨丸は、声を挙げた。
「おお、そのことじゃ。これは遠縁の田原さまのご次男の吉次郎どのに婿に入っていただこう。さすれば宮本の構えも残る。お吟に、ほの字のようだし、お吟もまんざらではないようでの」
それを聞いたお吟の頬は、火のように真っ赤になった。
夜を徹して書いた伊賀守あての血書をお吟にあずけ、夜明けとともに無二斎は右へ、弁之助改め宮本無三四と新免捨丸の兄弟は左へと旅立った。
無二斎は、以前に剣術指南に誘われた黒田如水のいる豊前国中津へ、無三四と捨丸は、春海のいる京を目指すという。
お吟は、ずっしりと重い綾織りの巾着袋を、
「そなたの母の命の値ぞ。そなたのものじゃ」
と言って捨丸の懐にねじ込むと、長いこと抱きしめてさめざめと泣いた。
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