慶長5年6月美作(その9)
ようやく、評定は決した。
伊賀守嫡男の長春が、新免衆の半数と足軽隊を引き連れて先発し、伏見で浮田左京亮に合流することにし、長春はすぐさま出発した。
これは、左京亮と秀家に二股膏薬をかけた、伊賀守の猿知恵だった。
伊賀守は、捨丸も入った残りの新免衆と足軽隊とで待機し、宇喜多秀家と家老の明石掃部守が大軍を率いて備前岡山城を発するのに合わせて、出陣することとした。
伊賀守は、正室のお俊の方と長春の正室の百合姫を人質として掃部守の居城の保木城に送った。
秀家の従兄弟で重臣の左京亮は、熱烈なキリシタン信徒で、京と大坂の屋敷には礼拝堂もあった。
洗礼を受けた年、秀家・正室の豪姫が病に倒れた時に、秀家が、加持祈祷のため家中の者すべてを浄土宗に改宗させようとしたが、左京亮だけは、『改宗するなら死ぬ』と公言し、あくまでキリシタン信仰を貫いた。
掃部守の母方の従兄弟で、同輩でもあった左京亮は、大坂の修道士に頼み込み、折から大坂城の補修普請奉行として大坂にいた掃部守を、キリシタンに導こうとした。
修道士の話を数度にわたって聞き、熟慮を重ねた掃部守だが、いったんジョアンという洗礼名を受けてからは、左京亮に負けるとも劣らぬ熱心なキリシタン信徒となった。
掃部守は、岡山城内の明石屋敷の一画に聖堂を建て、藩主の義兄という立場もあり、居城の保木のみならず、備前全土にキリシタンを広めた。
宇喜多家領の東端の播州赤穂で、宇喜多の大軍に合流した新免軍は、そのまま京大坂のはるか先の会津若松を目指すことになった。
しかし、大坂まで進軍した宇喜多軍は、そこで足止めを食うことになった。
何故なのか、新免軍には何の知らせもない。
そこへ、京まで進軍していた長春が、もどって来た。
「左京亮さまに、徳川につけと脅され、恐ろしくなって逃げてまいりました」
首をすくめる長春を、
『せっかくの策略が台無しじゃ』
伊賀守は、肚の中で罵った。
すぐさま、長春を連れて掃部守に報告に上がった。
掃部守は、左京亮が宇喜多を裏切って徳川についたのは、先刻承知だった。
それだけではない。
「会津攻めには行かんぞ」
掃部守は、作戦が変わったと言い、
「徳川家康を討つ」
と驚くべきことを口にした。
石田三成が、家康のこれまでの罪状を並べ立て、豊臣の天下を簒奪する奸賊としてこれを討つべしとの主張に、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝の三人の大老が賛同し、五奉行のうちの前田、益田、長束、益田、石田の四将が、素早く動いていた。
すでに毛利輝元は大坂城に入り、秀頼公のそばに仕えている。
天下の形勢は、一夜にして変わった。
「家康の居城の伏見城を真っ先に攻めよ」
それが、秀家の命令だった。
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