慶長11年1月江戸(その1)

日本橋のたもとに高札を立ててしばらく経つが、無三四に果し合いを挑む者はなかった。

冬は日本のどこでも寒いのだろうが、江戸の寒さは格別だ。

朝は晴れていたのに、昼を過ぎるとお城の天守閣の上に灰色の雲が急に広がり、やがて粉のような雪が降ってくる。

関ヶ原の東西の戦いでは東軍が勝ち、敗者の石田三成が六条河原で打ち首となり、家康が大坂城に入って世は定まった。

家康はこの年征夷大将軍に就き、江戸の大普請がはじまった。

侍も庶民も忙しすぎて、諸国廻行の武者修行の牢人など目にも入らなかったろう。

まして、戦国が終わったので、武術など無用の長物になり果てていた。

・・・そんなある日、博労町にとった安宿の主があわただしく二階へ駆け上がってきた。

「宮本さま、お仕事です!」

と言う主の顔はほころんでいた。

何もせずに牢人者が長く居続けるので、主は払いを心配したのだろう。

玄関に立つと、

「お侍さまが暴れて困っています」

道三河岸の妓楼の若い衆だという若者が、荒い息をつきながら言った。

『しょせん、牢人者にはこんな仕事しかないのか』

みずからをあざけった無三四だが、長刀を腰に差すと妓楼の若い衆のあとを追った。

西田屋と染め抜いた暖簾を分け、番頭に続いて妓楼の二階に駆け上がった無三四は、いちばん奥の座敷でとぐろ巻くやせぎすの侍といきなり対峙した。

酔って視点の定まらない羽織袴の若い侍は、左手で金紗の羽織の太夫を後ろから抱え、右手で抜き放った脇差を振り回していた。

「侍が女郎相手にぶざまなことを」

無三四がおだやかにいうと、

「なんだと、牢人者が」

酒に飲まれた若い侍が、切っ先を無三四に突きつけた。

「大金を払ったのに、太夫がなびかんのじゃ」

若い侍の舌先はうまく回らない。

「いえいえ、お代のほうは鐚一文いただいておりません。それどころか、払いがとどこおっておりますので、主が登楼を断っております」

大柄な無三四の背にかくれた番頭が、首だけ出して言い返した。

「まずは刀をおさめて、太夫を離してやってはどうかな」

脇差の切っ先から目を離さず、じりじりと近寄る無三四に、

「牢人者が、ごたいそうな口をききおって」

「腕に自慢がおありなようで」

「当り前じゃ、小野道場師範代の有田勝之進とは拙者のことだ」

「それは、それは。おみそれしました。師範代とあれば、ここは、やはり一手ご指南いただかなければなりませんな」

「田舎剣士など相手にせんぞ」

有田は、無三四を足元から舐めるように見上げた。

「先生、まあそうおっしゃらずに。この座敷は狭い。表で立ち会いましょう」

甘いことばでおびき出された有田は、太夫を突き放すと、無三四にうながされて階段を降りた。

溶けた雪でぬかるむ楼閣の前に立った有田某は、

「真剣でよいかな」

と無三四をひとにらみした。

外の寒さのせいか、命のやりとりの果し合いになったからか、今やこの若い侍の酔いはすっかり醒めたようだ。

「はい、真剣でどうぞ。拙者はこれで・・・」

と懐から扇子を出して構えた。

「おのれ、愚弄するのか!」

怒りで顔を朱に染めた有田は、すらりと長刀を抜き放ち、上段に構えた。

が、なかなか打ち込まない。

「斬られて死ぬ前にお店の払いをすませなよ」

「扇ひとつに勝てないのかい」

二階の廊下の格子に鈴なりになった女郎たちが、口々に侍をののしり、その都度どっと笑い声が起こった。

打ち込むスキを見つけられずヤケになったのか、有田は真っ向微塵と斬りかかった。

首をひょいと傾けてかわした無三四が、有田の伸びた背を手刀で打ちすえたので、有田某はたまらず泥濘へ顔から落ちた。

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