慶長5年9月関ケ原(その8)
修験者の白装束姿の明石掃部守主従四人と若衆姿の捨丸は、湖北を迂回し、坂本まで何事もなく着いたが、さすがに坂本は要衝で、東軍が関所を設け、落武者の詮議をはじめていた。
やむなく、比叡山に参る修験者を装い、山を越え、関所を迂回して京に入った。
幸いにも、京にはまだ徳川軍の姿はなかった。
大坂城には、五大老のひとりである毛利輝元が、太閤秀吉の遺児の秀頼公を奉じて、控えていた。
家康も、石田三成の居城の佐和山城を小早川秀秋を使って落城させたが、関ケ原で勝利した西軍を、そのまま率いて大坂まで一気に攻め上る考えはなかった。
「秀家さまは、備前屋敷にはまだもどっておりません。豪姫さまが、それこそ首を長くしてお待ちになられております」
先に大坂へ物見に放った従者が、高槻を出たところで、報告にもどった。
小早川軍に単騎でも駆けつけ、裏切り者の金吾中納言と刺しちがえて死ぬ、と勇み立つ秀家を、
『大将たる者、たとい敗軍の将の汚名を着ようとも、落ち延びて再起を図るもの』
と、掃部守が諫め、大勢の近習をお伴につけて真っ先に落ちさせた。
その秀家が、まだ大坂に入っていない!
これは、驚きだった。
『西軍副大将で君主の秀家の消息が分からないとなると、どのように西軍を立て直すべきか?』
西軍を再編し、再度家康に戦いを挑むことしか頭にない掃部守は、豪姫の招請にもかかわらず、大坂市中には入らずに大坂港へ直行して船を探した。
夜明け前に大坂を出た船は、滑るように瀬戸の海を帆走した。
宇喜多領の東端の赤穂あたりで、敗残の将兵を吸収し、宇喜多軍を再結集しようと考えた掃部守は、その手前の姫路港に上陸した。
姫路城城主は、秀吉の正室北政所の兄の木下家定で、東西の戦いでは中立の立場をとっていたので、姫路で無用の詮議を受ける心配はない、と掃部守は踏んだ。
しかし、上陸して丸一日、山陽道で待ち構えたが、待てど暮らせど、宇喜多勢どころか、西軍の将兵の影すら現れなかった。
『これは、船路を取ったので早く着きすぎたか』
掃部守は、宇喜多の敗残兵がもどるのを待たずに、備前岡山城に向かうことにしたが、赤穂の塩田を過ぎたあたりで、宇喜多家重臣の岡貞綱とばったり遭遇した。
「おお、明石さま」
わずかの従卒だけを従えた貞綱は、掃部守を見るなり、ばつの悪そうな顔をした。
「籠城などできません」
岡山城に兵を集め、あくまで東軍と戦う、という掃部守の決意を聞いた貞綱は首を振った。
関ヶ原での宇喜多軍敗北の報を受けた留守居役の重臣たちが、次々と岡山城を見捨ててて大和郡山へ落ちていた。
このまま備中へ落ち、かの地の国衆を糾合して西軍を立て直す、という掃部守と別れた捨丸は、故郷の宮本村へもどった。
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