慶長5年9月関ケ原(その5)
東軍の福島、加藤、筒井の諸隊の猛攻に、守勢一方となっていた宇喜多軍の総指揮官明石掃部守は、馬上で地鳴りのような音を聞いた。
「おお」
小早川秀秋の大軍が、砂埃を巻き上げ、地響きをたて、松尾山を駆け下りて来る。
「やっと・・・」
しかし、掃部守の安堵の声は、
「やや」
と驚きの声に変わった。
信じられない光景が目に飛び込んできた。
小早川軍は西軍右翼の大谷吉継軍に雪崩を打って襲いかかった。
「同士討ちをしてどうする!」
と叫んだ掃部守だが・・・。
やはり松尾山中腹に陣取っていた脇坂、小川、赤座、朽木の諸隊も、同じように大谷軍に攻め込むのを見て、これは同士討ちではなく金吾中納言が東軍に寝返ったとようやく悟った。
やがて大谷軍は殲滅し、脇坂などの諸隊を吸収してふくれあがった小早川軍は、天満山を乗り越え、西軍主力の小西軍と宇喜多軍に襲いかかった。
「小早川が寝返った!」
の報は、瞬く間に西軍の将兵の間に広がり、前戦は崩壊した。
・・・関ヶ原に展開する西軍は東軍の草刈り場となった。
恐怖に駆られた敗残の西軍は、武器を投げ捨ててわれ先にと逃げ出した。
・・・永遠とも思える長い時間捨丸は暗闇の中に横たわっていた。
突如、捨丸を閉じこめていた闇が裂け、天上から射す微かな光が、目の前に広がる大河を指し示した。
この大河を渡れというのか?
足を踏み入れると、流れは恐ろしく速い。
足が千切れるほど冷たい。
突き進むと意外と膝の深さで浅い。
・・・仰ぎ見ると、果てしなく続く空はどこまでも仄暗い。
その暗青色の空を切り裂くような稲妻が縦横に走り、雷鳴が地響きをたてていた。
大河の中ほどまで来ると、やがて濁流が胸まで上がり、それより先はどうにも進めない。
もとの岸に引き返した捨丸は、再び暗闇の中に横たわった。
・・・顔といわずからだといわず、棘が刺さったような痛みで、捨丸は目が覚めた。
白い雨が、情け容赦なく、捨丸のからだのみならず、大地に叩きつけていた。
手をかざしてあたりを見回した捨丸は、窪地の底で死んだ馬の下敷きになって転がるじぶんに気がついた
やがて雨が上がり、雲間から柔らかな陽が射してきた。
雷鳴も遠くなっていった。
・・・鉄砲の銃声も、大砲の爆音も、法螺貝も、鬨の声も、刀を合わせる音も、何も聞こえない。
唯一聞こえるのは、次第に近づいてくる騎馬団の、大地を蹴る音だけだった。
・・・天下分け目の戦いは、終わったにちがいない。
起き上がろうとするが、死んだ馬が重しになって抜け出せない。
懸命に馬を押しのけて捨丸を引き出そうとする大柄な黒い胴丸と具足の若い武士と目があった
「兄者!」
馬の腹の下から、捨丸が叫んだ。
「おお、捨丸!」
無三四も叫んだ。
「どうしてここへ?」
ふたりは、同時に同じことを口にした。
「いや。今はそれを語り合うときではない。この戦いは西軍の負けじゃけ。・・・間もなく、落武者狩りがはじまろうに」
ようやく、馬の下から這い出た捨丸は、半身を起こして辺りを見回した。
たしかに、そこいらに転がる手足の千切れた死者のほとんどが、西軍の将兵のものだった。
無三四は、乗り主がいなくなった一頭の栗毛を引いてきた。
素早く甲冑を脱がせ、捨丸を素肌武者にして、栗毛に押し上げ、
「西軍は、笹尾山の向こうへ落ちたはずじゃ。その先の伊吹山を目指せ!逃げおおせたら、必ず美作のお吟姉のもとへもどれ!」
と、叫ぶなり、無三四は栗毛の尻にひと鞭をくれた。
・・・笹尾山を駆け登る馬に乗った捨丸の背が小さくなるのを見届けてから、無三四はおもむろに戦勝に沸き立つ黒田軍の陣地にもどった。
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