慶長5年4月美作(その2)
「しばらく我が家で預かりましょう」
井口長兵衛が助け船を出して、その日にうちに、捨丸は城下の長兵衛の屋敷に引き取られた。
翌日から、捨丸も加わった新免衆の苛烈な軍事教練がはじまった。
選ばれた若い新免衆三十名が、甲冑をつけ、槍を肩に、城の裏山まで駆け登り、そこで槍を千回突き、真剣の素振りを千回やった。
昼からは、城内の馬場で、甲冑に槍を抱えて騎馬に跨り、縦横に駆ける訓練をした。
それは、幼少のころから、父の無二斎や兄の弁之助と鍛えた剣術とはまた違った、戦場で戦うための武士の嗜みでもあった。
もはや天下簒奪の野心を隠そうとしない五大老筆頭の徳川家康と、秀吉恩顧の大名との鍔迫り合いのさまが、時々刻々と作州にも伝わってきた。
両者の間での大戦は不可避、と誰もが信じていた。
そんなある日の昼下がり、捨丸は奥方に呼ばれて、城に上がった。
広間の正面に、奥方と伊賀守嫡男の長春の正室・由利姫が座った。
無二斎が、倒れた白拍子が産んだ子を宮本村でひそかに育て、武者修行に但馬へ出かけ、秋山小兵衛に勝ったが野武士にさらわれ、因幡の銀山の遊郭に奴隷として売られ、さらには仇と狙う玄蕃との死闘などの身の上話をすると、ふたりは身を乗り出して聞き入った。
「かねてよりの噂では、わらわの目を恐れた殿が、孕んだ妾を無二斎に斬らせたそうではないか。何と非道なことよ」
奥方は、ここでも目に涙を浮かべた。
「無二斎が、そなたをこの世に生ましめたのは神の慈悲であろう。しかも、そなたは母を殺した無二斎を責めるどころか、育ててくれたことを感謝さえしておる。これは、神の愛が、生まれながらにしてそなたの中に備わっているからではないかの」
奥方は、半ば百合姫に、半ば捨丸に向かって言った。
「備前明石家から嫁いできた姫が、キリシタンの教えをもたらしてくれた。姫の叔父御の岡山城家老職の明石掃部守さまが敬虔な信者での。しかし、殿と長春は、このすばらしい教えを信じようとはせぬ。捨丸は、キリシタンの教えをを知っておるか?」
「いえ、何も」
「そうか。ならば、姫に教えてもらうがよい」
と奥方は、百合姫を見やった。
その百合姫は、小首を傾げて微笑んだ。
驚くほどの美貌の女性ではないが、つぶらな瞳の奥に、知恵の光が輝いているのがたやすく見てとれた。
「教える、などと。わらわなどには・・・。初めから司祭さまに導いていただければよいのですが。司祭はみな捕縛して十字架に架け、キリシタン信者は、両耳と鼻を削ぎ落せ、との太閤さまのご命令です。間もなく、司祭さまも信者もこの国から消え失せましょう」
百合姫は、悲しそうな顔をした。
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