最終話 春近し

 ふいにガラス戸が開く音がして、菜穂ははっと我に返った。

「菜穂…」

 樹が白い息を吐いて立っていた。

「樹…?どうしたの…?」

 菜穂はあわてて目をぬぐって立ち上がった。

 樹が何か忘れ物でもしたのか、と一瞬焦った。

 だが樹は照れくさそうに、

「菜穂のこと探してて…もうバスに乗って帰っちゃったのかと思った」

 しかしバスはまだ停留所で客を待っていた。その中に菜穂の姿はなく。

「わたしを…?なんで…」

「なんでって…」

 樹が少しむっとしたように目をそらした。

「あんなことされて、無視して行けるわけないじゃないの」

 菜穂は息をのんだ。

 そのままお互い黙ったまま立っていた。

 雪が静かに、二人の間に降っている。

「…こんなに寒くて、雪がたくさん降る場所で暮らせるかな、あたし」

 コートのポケットに両手を入れて、樹がおどけたように言った。

「え…?」

「菜穂には今の環境が合ってるよ。東京で働いてた頃よりいきいきしてる」

 だから、と樹が続けた。

「あたしがこっちに来る」

「——えっ?」

「もちろんすぐってわけにはいかないけど…今は仕事が忙しくて、離れられないし…でもいずれ、ね」

 樹は勝手に話を進めて一人で頷いている。

 菜穂は口をぱくぱくさせたまま、言葉が出なかった。

「そ、それって…どういう…」

 樹が真面目な表情になり、菜穂を見た。

「さっき、飛行機に乗り込む時、また感じたの」

 喪失感、と消え入りそうな声で呟いた。

「菜穂を失うって思った、また」

 ゆっくり、菜穂のほうへ近づく。

「今度こそ、ほんとに菜穂を失ってしまうって。もう…そんな思いは嫌だって思ったの」

 熱く濡れている菜穂の頬を、両手でそっと包んだ。

「ごめんね。この気持ちが何なのか、まだ自分でもはっきりと分からない。でも…あたしは菜穂とずっと一緒にいたい…離れたくない」

 樹は菜穂のまつ毛にかかった雪を、指でそっと払った。

「それじゃ、だめかな…?」

 菜穂はぶんぶんと頭を振った。

「樹には、わたしのそばにいて欲しい。ずっと、ずっと…一番近くにいて欲しい…!」

 樹は微笑んで、菜穂の体にゆっくり腕を回した。

 ああ、と菜穂はため息をついた。

 ずっと以前にも、樹はこうして私を抱きしめてくれたっけ。


「陸上…」

 菜穂がぽつりと呟いた。

「え…?」

「もう、走らないの…?」

 樹は頭を少し傾けて、菜穂の肩にのせるようにした。

「最近、マラソン始めたんだ」

「マラソン…?」

「短距離はまた膝に負担がかかるから難しいんだけど、マラソンなら、って」

 それでね、と樹はふふっと笑った。

「いつかハワイの、ホノルルマラソン出たいなぁって」

 その時は菜穂も一緒に行ってくれる?といたずらっぽく言われ、菜穂は答えに窮した。

「ま、まぁ応援として行くだけなら…走るのはちょっと…苦手だし」

「知ってる」

 樹がくすくす笑っている。

 仕返し代わりに、菜穂は樹の体をきゅっと強く抱きしめた。

 雲の切れ間から太陽がゆっくりと顔をのぞかせた。

 互いに寄り添った二人の肩に陽光が射し、遅い春の訪れを告げていた。

                        — 完 —


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春の庭 綾波 碧 @greenfiona

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