第15話 細氷
翌朝早くに、二人はアパートを出た。
氷点下にはなっていたが、快晴だった。
会社の敷地内にある庭に着いた時、樹が歓声を上げた。
「何これ…すごくきれい…!」
ダイヤモンドダストの現象である。
空気中の水蒸気が、太陽の光でキラキラと降っている。
めったに起こらないことなので、菜穂でさえこれまで2、3回ほどしか見たことがない。
樹は言葉を忘れたように、無邪気に両手を広げて天を仰いでいる。
二人は子供のような表情で、しばらく時を忘れ、空を見上げていた。
「なんだか神様が、応援してくれているみたいね」
普段理性的な樹が珍しく感激したように言い、菜穂も笑顔で頷いた。
菜穂は樹をある花壇に案内した。
エゾエンゴサクという淡い青色の花が咲いている。
「わぁ…かわいい」
「もともとは北海道の森に咲いてる花なの」
春の訪れを告げる花で、その可憐な姿からスプリング・エフェメラル、春の妖精とも呼ばれている。
しかし菜穂にとってその花は、
「もうひとつ呼び名があってね…”春のはかないもの”とも言うんだ」
そちらのほうが、自分にはしっくりくるのだと言った。
「毎年春先にこの花を見ると…樹のことを思い出すの」
「あたし…?」
「結婚式で見た、薄い青色のドレス…樹にとても似合っていた…」
「ああ…そうだったわね」
樹がほろ苦く笑う。
二人は花壇の前にしゃがみこんでいた。
菜穂は地面に膝をついて、愛おしそうに花に手を添えた。
「わたしにとって、樹は、はかない存在だったの…いつだって」
樹が不思議そうに菜穂の顔を見た。
「どういうこと…?ずっと側に、一緒にいたじゃない」
「…そういう意味じゃないわ」
不思議そうな顔をしている樹の冷えた頬に、ゆっくりと手を伸ばした。
そうだった。
いつだって、樹に触れたいと思っていた。
だけどそんなことしたらきっと樹は自分の前から去ってしまう。
すぐ側にいても、触れられない、この手でしっかりとつかむことができない、そんな存在だった。
菜穂はそっと体を寄せて、かすかに触れるか触れないかの、キスをした。
樹の唇はひんやりとしていた。
ぎこちなく顔を離し、そっと彼女の表情を見る。
樹は無言で、ただ目を大きく見開いている。
「こういう、意味…」
かすかな声で、菜穂は呟いた。
空港までのバスの車内は、お互い無言だった。
樹はあの後一言も話さず、ただ車窓の外を眺めている。
時々彼女の表情を盗み見するが、何を考えているのか読み取れずにいた。
自分のしでかした行為について、菜穂は不思議と後悔はなかった。
ただ、東京へ戻る彼女の姿を見るのが、これで最後になるのだろうという予感だけがあった。
今度こそ本当に、永遠に。
明日からの、屍のような自分の日常を思った。
北海道に来て、違う人生を選べたと思った。
過去を捨て去り、新しい自分の人生を。
それがごまかしに過ぎなかったことを、菜穂は昨日樹と再会した時から嫌というほど感じていた。
自分はただ逃げていただけだ。
彼女への、本当の気持ちから。
バスが空港ターミナルへとゆっくり入って行った。
飛行機の出発までにはまだ1時間ほどの余裕があった。
樹は2階の出発ロビーにあがるエスカレーターの前に立った。
菜穂は付いていきかねた。もうここで、早く消えた方がいいのでないかと思った。
「…来ないの?」
樹が、菜穂を振り返る。
菜穂は一瞬ためらったが、後ろから他の客が来ているのに気づいてあわててエスカレーターに乗った。
季節が季節なだけに、空港の利用客は少なく、ロビーは閑散としていた。
二人は並んで座り、搭乗案内を待った。
菜穂は樹に対する気まずさもあったが、それよりも何か言わなければいけない気がした。
何か——ごめんね、さっきのことは忘れて、とか。全部ただの冗談だよ、とか。
だが、結局何ひとつ言えなかった。
搭乗のアナウンスが入り、樹は、ゆっくりと立ち上がった。
菜穂もつられて立ち上がる。
「それじゃ…」
菜穂はやっとの思いで先に声をかけた。
樹はじっと、菜穂を見返している。
軽蔑されているんじゃないか、と菜穂は震えた。
それとも…自分に対する嫌悪か。
「元気でね」
それでも、何事もなかったかのように笑顔を作った。
「…うん、菜穂もね」
いろいろありがとう、と樹が視線をそらして小さな声で言った。
頷いて、菜穂は静かにその場を去った。
鉛色の雲が立ち込める空の下、展望台には誰一人いなかった。
雪が積もっていて柵のところまで行けないが、菜穂はガラス戸の外に出て、飛行機を見送った。
今にも雪が降りだしそうな気配だったが、無事に離陸できて、よかったと安堵した。
吐く息が白く、すぐに凍える。
また…一人になっちゃった。
ただ日常に戻っただけだ。
たった二日間昔の友達と一緒にいただけで、こんなにも孤独を感じるのか。
だがこの先も東京に戻るつもりはない。
自分の初恋が終わったのだ、と実感した。
遠く小さくなっていく機体を見つめながら、心の中で何度もその人の名を呼ぶ。
最後にさよならと告げた時、ずっとこらえていたものが堰を切ったように溢れ出した。
雪で覆われたコンクリートの地面に、膝をついた。
声を出さないように、両手で口を押える。
再び雪が降り始めた。
小刻みに震えている菜穂の肩にひとつ、ふたつと雪が舞い降りた。
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