第14話 待春

 近いうちに、といいながら、樹が旭川にやって来たのはその週末だった。

 金曜日の夜、再び電話が鳴り、明日旭川に着くと連絡があった。

 樹の行動力に驚きながらも、菜穂は大慌てで空港行きのバスの時刻を調べた。

 車もあるが、雪深いので安全のため、公共の交通機関を使うことにした。


 翌日、ターミナルで樹と再会した。

 前の晩、菜穂はほとんど眠れなかった。

 樹はダウンのコートを着込み、少し大きめのトート鞄を肩にかけて立っていた。

「やっぱり北海道、寒いね!」

 3年ぶりだというのに、まるでしょっちゅう会っていたかのような屈託のなさ。

 樹は最後に会った時よりいくぶん痩せていて、結婚していたせいか色気のようなものが滲み出ている。

 髪は短く肩くらいまでの長さになっていて、その分大人っぽく見える。

「ひ…ひさしぶり」

 ぎこちなく言う菜穂に、

「ごめんね、急に押しかけて。びっくりしたでしょ」

 若干済まなそうに、菜穂を上目遣いで見る。

 そういうしぐさが以前よりも女らしい。

 3年も会わなかったのだという事実が、今更のように菜穂の胸を締め付けた。

 その歳月の彼女の人生を、自分は知らないのだ。

 菜穂はこみあげてくるものを抑えて、顔を背けた。

「今の季節に来ても、あまり見るものがないけど…」

 二人は、市内行きのバス乗り場へ向かって歩き出した。

「いいの。今回は菜穂に会いに来たんだから」

 それでね、と樹が続ける。

「明日帰るから、一日だけ菜穂の部屋に泊めてくれない?」

「えっ」

 驚いたように振り向いた菜穂へ、樹はあわてて

「ごめん…だめ?」

「違うの。泊まってもらうのは構わないんだけど、明日もう帰っちゃうの?」

 浮足立った気分が急激に沈んでいくようだった。

「月曜日も仕事だからねぇ」

「あ…そうか」

 菜穂は自分も今激務の真っ最中であることを思い出した。

「菜穂の仕事場ってどこ?」

「うちのアパートからすぐのところ」

「見てみたいな」

「そうね…屋外なら見に行けると思う。明日行ってみる?」

 樹が嬉しそうにうなずいた。


「狭いけど…どうぞ」

 日中は旭橋や就実の丘など市内観光をして過ごしたが、夜になり、このまま外にいれば凍死しそうなくらいの気温だった。

 樹は慣れない寒さにすっかり震え上がっている。

 菜穂はあわてて暖房を点け、樹をその前に座らせた。

 コーヒーを淹れ、側に置く。

「大丈夫?」

「平気…ありがとう」

 二人ともそのまま何となく黙ったまま、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気を眺めていた。

「…3年って、あっという間だったな」

 樹がぽつんと呟くように言った。

 冷えすぎて青白かった頬が、若干赤みをさしてきた。

 夫と暮らしていた日々を思い出しているのだろうか。

 その横顔からは何の感情も読み取れない。

「立花さんのこと…もう愛してないの…?」

 立ち入ってはいけない、と思いながら、思わず聞いてしまった。

 樹は澄んだ瞳で前方だけを見つめている。

 やはり聞くべきじゃなかったか、と後悔しかけた時、

「誰かを愛するって…どれくらいのことを言うんだろうね」

 言葉の真意を測りかねて、菜穂は黙って樹の顔を見ていた。

「誰かを愛するのに、条件とかあるのかな。それともそんなものなくても、それでもただ相手のことを愛していられるのかな」

「何か言われたの…?立花さんに」

「健司は、すぐに子供を欲しがってた。あたしは…まだその決心がつかなかったんだ」

「で、でも樹だって赤ちゃん産もうと、思ってたんでしょ?」

「そうね…結婚するんだから、いずれは産むんだろうなって思ってた」

 まるで人ごとのように呟いた。

 つまりは、家族計画の意見の違いというわけだろうか。

 だけどそれで離婚までいくのだろうか…?

 未経験のことだけに、菜穂は上手に受け答えできずにいた。

「いつにするんだってよく聞かれてたの。早く仕事辞めて、子供を産んだほうがいいって。もう30歳なんだから」

 それはそうだろうと思う。

 出産年齢というものがある。

 初産なら、なおさら急いだほうがよかった。

「あたし、決心がつかなかった」

「結婚前に、子供について話したりしてたの…?」

「健司は家族っていうものにこだわりが強い人だった。お義母さんからのけしかけもあったんだと思うけど…」

 結婚したら自然に子供ができるものと思っていたし、子供を持つことに反対するつもりもなかった。

 何というか、それが当然だと思っていた、と樹は言った。

 だが、なかなか妊娠しなかったし、不妊治療をするなら、急がねばならなかった。

「あたし、そこまでして子供が欲しいって、思えなかったの」

 治療のつらさも、聞き知っていた。

 だが自分が子供を望むなら、それは耐えようと思った。

 子供に対する考えについて、二人の意見が違い、そこから少しずつ関係に溝ができた。

 もともと社内で女子社員に人気のあった健司が他の相手を見つけるのも、時間の問題だった。

「結局、あたしがみんな悪いの」

 吹っ切れたように、樹が顔を上げた。

 ふと、壁際に並んで置かれた植物に目をやる。

「こんな寒いところでも枯れないなんて…すごいね。あれ、アイビーでしょ?よく見かける…」

「そう。意外と寒さに強いのよ」

 菜穂の部屋にあるのは、アイビーが数鉢と、南国を思わせる大きな葉のオーガスタという観葉植物だった。

 それぞれにビニールをかぶせて、越冬できるようにしてある。

 樹はソファから立ち上がり、その植物の前に膝を抱えるように座り込んだ。

「覚えてる…?結婚式の前の週に、菜穂の部屋で桜の木を見たこと…」

 そんなことを樹が覚えていたなんて、意外だった。

 あの日は暖かくて、風がそよいでいた。

 樹の幸福そうな横顔と、風に揺れる長い髪を、今でも覚えている。

「あたしね、新婚旅行から帰ってきた後、健司が何かの用事でちょっと外に出て行って、ひとりになった時、菜穂に電話しようと思ったの。話したいことがたくさんあって」

 その頃はもう、菜穂は札幌にいた。

 もちろん、普通に電話をしてもよかったのだが。

 その時実感したのだ。

 もう菜穂が側にいないことを。

 ずっとずっとすぐ近くにいた彼女が、自分から遠く離れて生きていることを。

「…喪失感」

 ぽつりと樹が呟いた。

「その時にね、感じたの。自分の中の何かがぽっかりと空いてしまったって」

 床に広げているスーツケースの荷物の前で、ぼんやりと座り込んでいる樹を、用事を終えて帰宅した健司が心配した。

 菜穂は両手にマグカップを抱えたまま、じっと樹の背中を見つめていた。

 自分もそうだったのだ、と今さらのように菜穂は思った。

「それがね」

 少しだけ明るい声で樹が続ける。

「今回、なーんにも感じなかったの」

「え……」

 健司との別れのことだ。

 自分でも拍子抜けするくらい、傷つかなかった。

 そのことにむしろショックだった、と樹は苦笑いした。

 健司が浮気したので愛想がつきたせいかとも思ったが。

 社内に愛人がいると分かった時、樹が考えたのは、迷わず離婚のことだった。

 健司の愛を取り戻そうとか、やり直そうなどとはほとんど考えなかった。

「多分…そうなる前からあたし達…終わってたんだと思うわ」

 菜穂は何も言えず、ただ黙って話を聞いていた。

 時々ドサドサッと屋根から雪が落ちる音が聞こえる。

 それ以外は、旭川の冬の夜は静かなものである。

 車もめったに通らない。


「…そろそろ寝ようか。明日は空港行く前に、うちの会社行くから…」

 菜穂は寝支度をしようとあわてて立ち上がった。

 これ以上話をしていると、自分がよからぬ事を口走ってしまいそうだった。

 せっかく再会できて、ふたたび友達としてやっていける気配が生まれたのに、この穏やかな関係を壊したくはなかった。

  

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