第13話 桜月

 会社から歩いて5分ほどのところにあるアパートの、自室の窓を勢いよく開けた。

 あまりの寒さに身震いがする。

 それでも寝ぼけまなこの体を一瞬で目覚めさせるには格好の手段だった。


 札幌の学校を卒業して1年が過ぎ、菜穂は旭川の造園会社に就職していた。

 北海道での生活も、3年目になっていた。


 早朝5時。

 菜穂は身支度を整え、出勤する。

 植物が相手の仕事なので早朝出勤もしょっちゅうだ。

 出勤といっても近距離、どんなに雪が降ってもなんとか歩いて行ける。


 菜穂の会社が所有する造園の広さは広大なもので、約3000坪ほど。

 多種多様な花や苗、盆栽なども扱っている。

 販売のほか、外構エクステリアの設計やデザインなども手掛けている。


 北海道は、夏が短い。

 だが春と秋が長いのでガーデニングを長期間楽しむことができる。

 今はまだ3月で周囲も雪深いが、来月になると植物の販売がスタートするので、その準備に大わらわだ。

 届いた苗をチェックしたり、オープニング時に売り出し用の寄せ植えを作ったり、やるべき仕事はたくさんある。

 会社の近くに住んでいて独身の菜穂は、頼りがいのある戦力として連日遅くまで仕事をこなす日々が続いていた。

 菜穂も忙しいのが苦ではなかった。

 身体はきついが、植物や土に触れたり、香りに癒される。

 都会で暮らすよりこういう生活のほうが自分に合っていると、無邪気に言っていた樹の見方は当たっていたというわけだ。


 それでも、長い冬を北国で一人暮らす夜の寂しさだけは、未だ慣れそうにない。

 北海道でも友人はできたし、園芸学校のかつてのクラスメイト達とも定期的に連絡を取り合っている。

 知り合いがいない故の孤独ではなかった。

 毎夜ひとりのアパートで感じる寂しさの正体を、菜穂は直視しないようにしていた。


 樹からの連絡も、いつしか途絶えがちになっていた。

 最後に彼女の声を聞いたのは去年の秋頃だった。

 その時ですら半年ほどの期間が空いた後の電話だった。

 彼女の声は沈んでいた。

 わけを聞いても、はっきりと答えはない。

 仕事?夫との関係がうまくいってない?…

 結婚後3年たっていたが、二人の間に子供はなかった。

 しかし繊細な話題のため、そこのところは菜穂もあえて聞かないでいた。

 結局はっきりと要領を得ないまま、樹との短い電話は切れた。


 この3年の間に、彼女とは一度も会っていない。

 観光がてらいつか北海道行きたい、と樹は電話のたびに言っていたが、菜穂もそれはあいさつ代わりに過ぎないと分かっていた。

 菜穂の実家は東京だが、そちらにも帰っていなかった。

 家族から何度も、一度くらい顔見せに帰ってきて、と言われていたが、仕事を口実に断り続けていた。

 帰ると、どうしても同じ町にいるであろう彼女に会いたくなる。

 絶対にダメだ、と自分に言い聞かせていた。

 わたしだっていずれ誰かと出会って、きっとここで結婚する。

 そしたらその時、式に樹を招待して、やっと彼女と顔を合わせることができる。

 そうしたら…そうしたらきっと二人はきっとまた親友に戻れる気がするのだ。

 …と言いながら、自分ももう30歳だ。

 そろそろほんとに、本腰入れて婚活しないと、一生独身でいることがシャレにならなくなってくる。

 結婚、かぁ…

 自分にははるかに縁遠い言葉に思えた。


 菜穂の携帯が鳴ったのは、いよいよ来週から屋外での販売がスタートする3月も末のことだった。

 菜穂は帰宅途中で、もう少しでアパートに着くというところだった。

 スマホのディスプレイに表示された相手の名を見て、思わず声が弾みそうになるのを、なんとか抑える。

「もしもし?樹?」

「……た」

「え?」

「アイツと別れた」

 部屋の鍵を取り出そうと、鞄に突っ込んでいた手を止めた。

「え?……は?」

 部屋のドアの前で、菜穂は立ち止まった。

 野外で動きを止めるとたちまち足元から駆け上がってくる冷えを、この時は感じなかった。

「あたし離婚したの」

 なぜだが拗ねているような、どこかやけになっているかのような言い方だった。

 理由をたずねていいものかどうか決めかねた。

「そ…うなんだ」

 結局菜穂は返答に困り、何も言えなかった。

 何て言うべき?ご愁傷様?

「ざ、残念だったね」

 やっとのことで言葉を発した菜穂に、樹はふっと笑うかのように息を吐いた。

「理由聞かないの?」

「え、えっと……」

 そうしてもいいものか、どうなのか。

 少し落ち着きを取り戻すと、急に寒さが全身を襲ってきた。

 菜穂は慌てて鍵を回し、部屋に入った。

「ごめん、今仕事から帰ってきたばかりで…」

「ね、近いうちにそっち遊びに行っていい?」

 突然、樹が畳みかけるように言った。

「えっ?」

「今まで、なんだかんだ言って北海道行ってなかったから」

「そ、そりゃ構わないけど」

 頭がパニックになった。

 樹が北海道に来る?

 樹に会う?

 ……3年ぶりに!?

 樹はこちらの動揺も知らず、じゃあまたその時にね、と一転して明るい声で電話を切った。

 何て言うか、相変わらず、言葉が短い!


 樹はくどくどと話さない。本当に言いたいことだけを、端的に言う。

 彼女はそういう話し方をする人だった、と今更ながら菜穂は思い出していた。

 自分だっておしゃべりなほうではないけれど、樹といるとなぜだか自分のほうが饒舌になる。

 樹の機嫌を忖度してしまうのか、いつでもどこか彼女の機嫌をうかがっているようなところがあった。

 彼女が今機嫌がいいのか、何か不満があるのか。

 樹は愛想笑いをしないし、普段からにこにこしているわけでもない。

 まっすぐ前だけを向いて、目的を達成することだけに集中するタイプだ。

 菜穂だって家族から無口で何を考えているか分からない、とぼやかれる立場だったが、その菜穂が樹といると彼女の様子をうかがう側に回ってしまうのだ。

 高校生の時、彼女の周りを取り囲む友人たちが、何とか彼女の気をひこうとやっきになっている姿を見ていたせいか。

 自分も同じようにしないと、彼女が離れていくんじゃないかと、いつも心のどこかで恐れていた気がする。

 こんな関係性はいびつだと思いながらも、菜穂には態度を変えることができなかった。

 彼女と離れることを恐れていたのは、いつだって自分のほうだったから。

 今更ながら、彼女を自分の親友などと呼べたことは、実は奇跡なんじゃないかと思ったりする。

  

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