拾う

@pika517hk

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拾う


 木曜日は燃えるゴミの日だった。


 午前中の講義は教授の私用で休講になった。昨今の大学生の中では、講義が授業になったり、教授が先生になったりする。それでも休講は唯一無二の休講たりえる。

それはそうだろう代替品がないのだから。なんて、また馬鹿なことを考えている。

 俺はコンビニに向かっていた。朝ご飯と昼ご飯を同時にとるつもりだった。

徒歩の俺を抜かしていった自転車には都会の女子大生風の綺麗な女が乗っていた。ヒールを履いた足で起用にペダルを踏んでいる。

 その女は突然止まった。そして小さく舌打ちをすると小さく迂回して走り去って行った。

彼女が避けたのは小さな金魚鉢だった。

物珍しさに近寄って見た。遠目にも分かってはいたが汚い。壁には海藻が這っていたし、底に敷かれた石は苔や汚れで緑に染まって少々臭う。

 今日は燃えるゴミの日だぜ。そう思いながら軽く蹴り飛ばしてみたが、コロコロと転がったのち、金魚鉢はきちんと上下を間違えずに止まった。

 「コロコロと可愛い奴め。」そう言いながら今度はしゃがんで小突いてみたのだが、虚しくなってきたので立ち上がった。何を食べようか。

 夕方授業のために大学に向かった。大学では文学をやっていた。古典の講義だったが、特に興味もないので小さなメモ帳に駄文を連ねた。金魚鉢を拾ってわらしべ長者式に大成していく男の一代記である。

 それが案外とうまくいったので、私には、この埋もれた才能を誰かに見せびらかす義務がある、これは読ませないと世界的損失になる、そう確信して、久しく行っていないサークルに顔を出すことにした。

 しかしこれが不思議なもので、一度はあんなに天才だと思った文章もサークルに近づくに連れて怪しくなっていく。ありふれた文章に見えてくる。挙げ句の果てにはどうしようもない文章にも思えてくる。

 いよいよ、緊急来サークルを取りやめて帰ろうとそう決めた時、これもまた不思議な事で、既に活動場所のドアの目の前に来ていた。これは神の思し召しか。そう思って覚悟を決める。俺の柔らかな決心は羽毛のごとくふはりふはりと揺れ動くのだ。


 「やあやあ、ご無沙汰だ。」

そう言って元気良く扉を開けると、中には二人の後輩が怪しいものでも見るような顔でこちらを見ていた。

「どうも。」「ご無沙汰してます」

それぞれボソリと呟くと視線を目の前に置かれた水槽に戻してしまった。

 そういえばこんな感じだったなあ、と久々のサークルの雰囲気と感慨に浸っていたのはもちろん俺だけであった。


 水槽サークル「マイリウム」は我が大学の実験棟の隅の隅に部屋をもらって活動している水生生物飼育サークルであった。主な活動は部室内の水槽の手入れと飼育、それから学内にある小さな池の魚たちへの餌やりと池の管理。池といっても直径5mほどの水たまりの化け物レベル。そこに住む巨大金魚だか極小鯉だか良く分からない生物への餌やりをしながら、それぞれ好き勝手に水槽を作る。そんな趣旨だったようだが、そんなに熱心に魚を飼いたい部員が大勢集まるわけもなく、今では極少数の魚好きの変態たちを残してほとんどの部員は幽霊と化すというダメサークルの典型になっていた。

 ちなみにマイリウムという名は「My aquarium」の略ではなく初代部長がマイメロディ好きだったため、ということである。


 そんな部室になぜ俺が駄文を持ち寄ったか。そこには、とある男の存在があった。

「君ら今日はアイツを見ていないか?」

「アイツって誰ですか?」

「察しが悪いな、明石だよ」


明石というのは私と同期の”極少数の魚好きの変態“枠だった男である。

「ああ明石先輩なら実習中ですよ。」

「実習?」

「教育実習です。明石先輩教員志望ですから」

「そうか、じゃあ今日はいないのか。」

俺は少々動揺した。と言うのも、明石が教員志望という事を知らなかったのだ。しかし、友人の情報を一つや二つ他人から知らされた程度で動揺する男と思われるのも癪だったので黙っておいた。


 「ここって禁煙だっけ?」

「最近は明石先輩がコソコソ吸ってるんでご自由にどうぞ」

後輩A(仮)はそういうと灰皿を滑らせてよこした。その際多少の灰が机に溢れたが気にしている様子はなかった。

 一本吸ったら帰る予定で火をつけ始めた煙草を2本灰にしてから立ち上がった。立ち上がって伸びをして帰る素ぶりを見せてみたが、後輩たちの方は気に留める素ぶりもないので、こちらから切り出すほかなかった。

「それでは諸君、素晴らしい水槽ライフを送りたまえ。」

 果たしてどんな設定の先輩だか自分でもよく分からなくなってしまったわけだが、そんなに言って去ろうとした時だった。


「先輩も魚飼いませんか?」

まさかあの無愛想で魚にしか興味のない後輩たちに引き止められるとは思っていなかったもので、俺はたじろいだ。声をかける気があったならもっと早くかけてくれ。

たじろいだ上で見てみると、引き止めてくれた後輩(B)はなかなかどうして案外美人である。その上、手渡そうとしている魚はお祭りのように小さなビニール袋に入った金魚である。可愛いは力である。

「この子、病気でもう少しで死んでしまうと思うんですけど隔離して飼ってやれる水槽がなくて。看取ってあげてくれません?」

要するに体のいい押し付けである。しかし、私の頭には朝方見かけた金魚鉢が浮かんでいた。

「これも何かの縁かな。」

「実はその子、本当は明石さんの水槽の子なんですけど、世話任されてる間に病気になっちゃって」

そう言って後輩は、笑顔のまま半ば強引に俺に金魚を渡した。

 ここはひとつ運命的符合に流されるも良いだろう。

 果たして、その金魚鉢は捨てられたままだった。

 俺はビニール袋に入れて持って帰った。

家に着いてから少々考えてブラシとタオルを持って近くの公園に出かけた。その金魚鉢は家の中で洗うにはあまりに汚れすぎていたのである。

 ゴシゴシとこすってみると面白いように水槽は綺麗になった。10分とかからずに緑がかった汚れは全て落ちた。しかし磨けば磨くほど綺麗になる金魚鉢は俺の心を捉えて離さず、気づけば辺りが真っ暗になるまで金魚鉢を洗っていたらしかった。

 つるつるでピカピカになった金魚鉢を一人公園で掲げていると、 目の前から見覚えのあるセーラー服が近づいてくるのだった。

 「おじさんまともに風呂入ったのいつ?」

「失礼だな。今朝入ったし、俺はまだおじさんって言うような年齢じゃないといつもいつも」


彼女と寝るのはこれで27回目だった。数えているのは気持ち悪いかと思って彼女には言っていない。

「ねえ、今日は朝までいるから。」

「毎度思うけど、親は何も言わないのかよ」

「友達の家にいるって言ってあるし」

「そんなんで納得するもんかね」

 俺はベッドから起き上がってキッチンに向かった。シンクには薬剤でカルキを抜いた水を用意してあった。

 トポトポと小気味のいい音を立てて金魚鉢は水で満たされていく。そして金魚をその鉢に移してやって、少しばかりエサを振ってやる。

金魚鉢は丁寧に本棚の一角に埋め込むように置く。なかなか素敵な絵面だ。ふと後ろを振り向くと彼女は背中を向けておそらくスマホをいじっていた。

 感想を聞こうと思って彼女がこちらを向くのを少し待ってみたが一向に向く気配がなかった。

「ねえ、これ見てよ」

「何?金魚?…なんでもっと可愛いのにしなかったの?」

「わざわざ選んだわけじゃあないんだけどさ。でもほらこの目が飛び出てるところなんて可愛いじゃないか」

「あーおじさん好きそうね。よく分からないけど」

 もっと楽しい反応を期待していたのだが、そもそもそんな反応をしてくれるはずがない事にもっと早く気付くべきだったとも思う。


 金魚はエサに向かってパクパクと口を動かした。ちゃんとエサを捕まえることも、水面をかすめるだけのこともあった。

「この金魚、近く死ぬらしいぜ」

「そんなのの為に鉢まで用意したわけ?」

「死ぬときくらい幸せにしてやりたいじゃないか。」

「どうせ死ぬんでしょ」

「話の分からない奴め」

金魚鉢に視線を戻すと、金魚と目があった。「君はどんな風に死ぬんだい?」俺は頭の中で金魚に話しかけてみた。

勿論金魚は黙々とエサを食んでいた。まるで死ぬ気なんてないように見えた。

 大学の喫煙所で昼食後に一服を楽しむのは俺の日課だった。


 「やあ久しぶりだね」

そう言ってとなりに座ったのは例の明石である。

「どうだった?実習は、」

「社会ってのはろくなものじゃないよ。」

「なんだ珍しいじゃないか。君はそんなに反社会的な人物だとは思っていなかった。」

「本当に社会に順応できるやつは学校の隅で魚なんか育てていないでもっと社会的な活動をするさ。」

「それもそうだ。」


「俺は教師になりたかったはずなんだけどなあ」

明石は柄になく落ち込んでいた。冗談めかして話してはいるが、肩が落ちているその様子が全てを語っている。

「そういえば、君が教師志望だなんて最近知ったよ。」

「言ってなかったからね。僕の将来の夢なんて情報には、伝えるほどの価値があるとは思えない。」

「それは、健全な思考だと思うぜ」

彼の思考に比べて、やはりまだ自分の思考は俗物だなと思った。


 「ところで、君の金魚をいただいたよ。いや、これは黙っていた方が良かったのかな?」

「なんの話だい?」

「君が飼っていた金魚さ。実習の時に預けたんだろ?病気になった個体がいたそうでね。引き取らせてもらった。しかしくれぐれも世話役の後輩に怒ったりしないでくれ」

「なんの話だよ。まあいい。ありがとう、分かった。怒ったりはしないさ。」

短くなった煙草をもみ消して俺は立ち上がった。背後では明石が2本目に火をつける気配がした。

「幹君は無事卒業分の単位が取れそうかい?」

「またそんな性格の悪いことを仰って、もう一年お世話になります。センセイに、ではありませんが」

「だろうなあ。明石君はあんなに優秀なのに友達の君はそんなで良いのかい?」

「良いんですよ。我々の関係に於いて、お互いがどう生きて居るかなんてものは意味を成さないのです。」

「詩人だねえ」

「先生のせいです。私だってこんな空気は苦手なのです。」

「そうかい。勝手に乗り気なものだと思ってたよ。よく喋るから。」

「センセイと話すことは好きなんですよ」

「今のは告白か何かかい?それから、センセイはやめなさい。高校生じゃあるまいし。」

センセイは立ち上がってコーヒーメーカーをセットし始めた。俺はこの人が好きで有り、そして苦手でもあった。それから、ついでに述べると私は名前を幹と言った。


 センセイは、大学の助教授である。生物を専門に扱う。特に植物を専門にやっているらしい。細かいことは知らない。学問的に繋がりのある教授ではなかった。

あれは3回生の冬である。俺は明石と二人で、大学内の理科棟と呼ばれる実験室だらけの棟にある某T教授の下へ挨拶に馳せ参じていた。T教授は我らが水槽サークル「マイリウム」の顧問であった。そこに新部長と新副部長で挨拶と言う訳である。補足すると私は幽霊副部長であり、言うまでもなく部長は明石である。

T教授はにこやかなお爺さんであった。どうやら明石は教授と面識があったらしい。今になって考えてみれば、T教授は教育理科の系統の授業を持っていたのだろう。

事務的な挨拶はすんなりすんだ。

そうして部屋から出たところだった。

「明石君じゃないか。」

そう言って現れたのが、センセイである。そして俺は明石からセンセイに紹介を受け、晴れてこのセンセイの知り合いとなったわけでる。

 何故、センセイなのか。それは、教授と呼ぶにはすこしばかり風貌が若すぎるせいだと思う。「教授」がしっくりこないのだ。肌は白く、長く伸びた髪は後ろで一本に束ねている。顔立ちは東洋系で、目は細く、頭部は少し縦に長い。

 多くの場合は白衣を着ている。そうでなくても小綺麗な服を着て文字通り襟を正している。

「それで、君の例の話の展開は?」

センセイの詩的な語り口調が俺は苦手だった。自分まで呑まれてそんな喋り方になってしまう。そして部屋を出てから恥ずかしさに身悶えるのだ。

「進展はありませんよ。普通に来て普通に寝ています。」

「普通にねえ。君は何を怖がっているんだい?」

「勝手に怖がってるって決めるのは良くないですよ。」

「ああ、君は心理だったね。僕は生物だからねえ、種の繁栄は基本だよ。」

「センセイの専門はセックスじゃなくて受粉でしょ?」

「受粉だって立派なセックスだよ。君に比べればね。」

センセイは俺にマグカップを手渡した。この人の淹れるコーヒーはうまかった。


「また何かあったら君は現れるんだろ。」

「センセイにお話しするほどの事件が起きたら顔を出すとしましょう。」

「訂正しよう。きっと何も起こらなくても君は来るよ。と言うか、君の人生に何か大きな変化を期待するのは思い上がりさ。」

俺は多分はにかんだのだと思う。

センセイの部屋から席を辞する時に笑うのはクセだった。

笑うと詩的な世界は崩壊するのだ。


存外、俺も詩人だなと思った。

金魚や、金魚や。と歌いながら俺は家に帰った。金魚は今日も生きていた。お前はいつ死ぬのだろうな。

エサを落としてやると水面でパクパクした。おお、金魚や、金魚や。

今食べているのは、お前が明日を生きるための糧だぞ。

今日は土曜である。

ペットボトルを捨てねばならない。


しかし、その前に下着の中を弄る。無事硬直しているモノを確かめてホッとする。生物として許されている気がした。そのままなんとなくAVを検索して見始める。しばらく手でしごいていると何かが込み上がってくるのを感じて周りを見る。しかし目当てのものは見つからず応急処置的にとなりに脱ぎ捨てられたパンツで覆った。

少しばかり肩で息をする。襲ってくる虚しさを拭い去るように起き上がった。

白く汚れたパンツを持って風呂場に行き、シャワーを浴びながら水洗いして洗濯機に投げ込んだ。


まるで作業だ。

熱いシャワーを浴びながら、持て余した虚しさと怒りを感じて壁を殴った。隣の部屋の住人の存在を考慮して十分に力をセーブしたつもりだったが、殴り慣れていない拳には鈍い痛みが残った。

「まだ生きてたんだ、それ」

彼女は、それ、の部分で顎で金魚を示してみせた。

「なかなか元気だよ。俺の愛が伝わったかね」

「私を愛してから言えよ」

「お前はもっと真面目に生きろよ。」

「真面目に彼女を愛してから言って欲しいね」

爪が手に食い込むのを感じた。いや、違う。爪を手に食い込ませたのだ。怒りのあまり自然と力が入った訳ではない。怒っていたのかすら定かではない。ただ愛情を馬鹿にされたら怒るというのが、彼女に対して最も誠実な向かい方だと俺は信じていたのだ。「そうあるべき」は俺の中で何よりも優先した。


「君はよくこんな男の隣でずっと耐えているね。」

出来るだけ優しい口調に努めた。

「愛してるからね。」

そう軽々と言ってのけると、彼女は俺の方に向かってきた。俺は反射のようにほんの少し膝を落とす。

短く、可愛らしいキスだった。


その夜も一緒に眠った。28回目だった。

文字通り眠ったのである。隣で、肌が触れながら。


日曜の朝は二人に安息をもたらした。

月曜日は授業があった。イタリア語だった。

本来であれば自分たちのカリキュラムでは、2年から3年のうちに外国語を取るはずだった。

しかし、当然のように真っ当に単位を落とした自分は4年になっても一つ下に学生に混じって教室の一番後ろに座っていた。そして当然のように日本語を読んだ。4年の再履修など、出席さえすれば、あとはどうであれ最低評価で単位が出た。

「この人を見よ」と言うタイトルに惹かれて買ったは良いものの、俺には理解が追いつかないその書物を半ページに3分もかけながら読み進める。あまりに時間がかかるので、ページを2ページも進んだ頃には前の内容を毛ほども覚えていない。 「これが理解が追いつかないと言うことか。」人生において始めてそんな事を感じて少々ショックを受ける。

嫌になってペンを取った。イタリア語の授業は、面倒でこそあれ、理解の範疇で俺は安心した。

授業が終わると散歩に出た。

平日の午後を歩くのは大層結構な事である。学生の特権だと俺は思っている。可能か不可能かで言うなら多くの人に可能だろうが、心の余裕を持って歩けるのは学生が一番だと思う。心の余裕は重要である。余裕と良い音楽は景色の彩度を研ぎ澄ます。夏に向けて濃さを増す緑が目に痛いようである。

音楽は決まっていた。「ジュトゥヴ」である。俺の中の午後の曲は「ジュトゥヴ」なのだ。


公園のベンチで一服すると言うのは今の世間ではあまり奨励されない行為だろう。公園内に子供がいない事と吸い殻を持ち帰る事が自分の決まりだった。


「お兄さん、ちょっと火を」

そう言いながら隣に座ったのは名も知らぬじじいである。夏も近いというのに、くたびれたシャツにグレーのニットを着ている。しかしやはり暑いには暑いのだろう、袖はギリギリまで捲っている。それから、やたらポケットの多いズボンを履いている。俺はポケットの多い衣類を身につけている者はジジイと決めている。

そのポケットのうちの一つからわかばの箱を取り出して、慣れた動作でトントンと一本抜き取る。

俺は無言のまま火を差し出した。じじいはタバコを加えた顔ごと近ずけて火を点けた。

しばしの間、公園には念入りに肺を汚す音だけが響いた。


「お兄さん、学生さん?」

学生さん?の聞き方がいやに若々しく聞こえた。オジいサンと呼ばれたなんて小説がどこかにあったなと思いつつ「そうです。」と答えた。

「良い午後だねえ。」

「そうですねえ。」

「大学生ってことは、あと何年かすればこんな自由もなくなるんだもんねえ。満喫するに限るよね。」

存外と、話の合うジジイである。

「そうですねえ。」

「大学出たら何になるわけ?」

「何になりましょうねえ。」

「まあ悩むのは大いに結構だけどさ。決めちゃった方がいいことってのもあるぜ。」

前言は撤回する。嫌なジジイだ。学生を馬鹿だと思っているクチだ。

「そうですねえ。」

曖昧に笑って煙草を深く吸う。


述べるに値しない情報であるから、極力簡単に説明を入れると、俺には夢がなかった。いや、夢はある。研究者になりたかった。大学で本を読んで暮らしたかった。だがどうやら自分にそこまでの才はないと気付いてしまったのが1回生の冬だった。それからは、どうでもいい資格だけ取って人生に保険をかけ続ける日々である。そうしているうちに、気づけば4回生の夏である。まあ俺はおそらくもう一年大学にいなくてはいけないから、焦って職を探す時期でもないのだが。


しばらくの無言の間に俺のタバコもジジイのワカバも燃え尽きた。ジジイが踏み消そうとしたので、俺の携帯灰皿を差し出してやった。善行には励むに限る。

俺は2本目を吸うためポケットからタバコを取り出した。ジジイもポケットからワカバを再び取り出してトントンした。しかし次の一本が出てこない。ジジイは中をのぞくと、握りつぶしてポケットに入れた。先ほどの一本が最後だったわけだ。

2本目に火を点けたのは失策だったな。居づらさを感じて、ジジイにタバコを一本分けてやった。

「やあ悪いね。ありがとう。」

「肩身の狭い喫煙者同士仲良く生きていきましょ」

当然またライターを貸してやった。


「お爺さんは何をされていた方なんですか」

「あそこに時計台が見えるじゃないか。」

ジジイが指指した先には私立大学の校舎があった。

「と言うと…」

「昔は先生なんて呼ばれていたのさ。あんまり偉くなれなくてクビにされちまったけどな。」

ジジイはまるで恥を語るように下を向いた。

ショックだった。自分が数秒前まで見下していた馬鹿なジジイは自分より遥かに先を生きていたわけである。

先行きに対する漠然とした不安というものは学生にはつきものである。

残念ながら、それを持たざるものは、どれほど優秀な者でも阿呆と言わざるを得ない。

そして、それは一度頭をもたげるとなかなか消えてくれない。鍵が必要なのだ。それはあの黄色をした紡錘形の爆弾のような。

だが残念ながら、俺には丸善のような美しい思い出の詰まった場所はなかった。躁と鬱の差に愕然とすることがないという点では良かったのかもしれない。

気だるさを感じながら延々と歩き続けた。コツは何も考えないこと。眠くなるまで歩いて眠くなったら帰って寝る、そう予定していた。


だが、眠くはならなかった。目的もなく歩いているだけなのにどんどん目が冴えて来る。不思議なものだ。昼間授業に出ていたって眠くなるのに。夜歩くのは生物としてどうなのだ?いや、夜行性の生物は多い。無駄に暑い昼の方が眠くなるのは道理か。

今のはいいぞ。どうでも良いことに思考を割けた。そんな風に自分を褒める。どうしたってつきまとう悩みから少しでも目を背けるのだ。


夜の時間というのは人が思っているよりずっと短いと俺は思う。

何の変化にも出会うことの出来ぬまま、明けていく夜を背負って帰途に着いた。

金魚や、金魚や、

フローリングの床にぺたりと座りこんでそう呟いた。喉は乾いていたが、冷蔵庫まで歩く気力はなかった。


金魚や、金魚や。

タバコを吸いたくなって立ち上がった。なんだ。立ち上がれるじゃないか。

ついでに冷蔵庫まで歩いた。冷蔵庫の中身は350mlの缶ビール一本。きのこ帝国が聞きたくなった。


金魚や、金魚や。煙越しにベランダから見る金魚は、昨日より動きが鈍いようだった。

『今日何してる?』

そんな風にメッセージを送るのは初めてだったかもしれない。そういえばいつもあの子が勝手にやってきて勝手に眠って帰るのだ。

果たして本当に好きなのだろうか。まあ、好きなんだろうな。失うには大き過ぎる存在だ。そうやって認識すること事で愛情を感じるしか出来ないのはひとえに俺が悪いのだろう。

『いいよ』

そんな返信を見てニヤリとした。今日の夜はなにかが違う気がした。淡い期待だった。

「やあ、早かったじゃないか。僕にあいたくなったかい?」

センセイは俺が伺うと書き物の手を止めてくれた。

「センセイに少し報告があって」

センセイの冗談を聞きながせるほどには俺の心は穏やかだった。

「俺は多分今日か明日にでも童貞を捨てます。」

「突然じゃないか。捨てられるなら捨てるがいいさと言いたいところだが、君が普通の男になってしまうのは少しばかり惜しいよ。」

「ここに来るのも最後かもしれません。」

センセイはコーヒーを出してくれた。いつもと違う香りがして大層美味しかった。

「きっと君はまた来るよ。」

今日は、はにかんだ訳じゃなかった。微笑みをたたえて俺は部屋を出た。


本当は明石にも会いたかった。

今会っておかないと彼には会えなくなる気がした。


しかし俺は大学を後にした。彼女が帰ってくるまでに部屋を片付けなければならない。

それに、俺と明石は必要もなく連絡取り合って会うようなやわな関係ではなかった。

カーテン越しに日が昇るのが見える。

右腕が限界を迎えている。彼女の頭が載っているのだ。

一緒に夕飯を食べた。パスタを茹でてレトルトのソースをかけただけだが、彼女は割に美味しそうに食べた。

お風呂にはそれぞれ入った。一緒に入ろうかと思っていたのだが、結局そう言い出せずにいつも通り別々で入った。

そして眠った。


そうすれば朝が来るのは道理だ。


そっと、彼女の頭を腕から下ろした。静かに床に置く。横たえるとか寝かせるとはまた違う。生物ではなく、静物を扱うように静かに丁寧に振動が伝わらないように置く。

起こしたって問題はないが、眠っている人を粗野に扱うのは俺の美学に反する。


水槽を除くと、

金魚はゆらゆらと水底を漂っていた。その力ない仕草に俺はついに、と思った。

しかし試しに水槽に指を入れてかき混ぜてみるとピクンと大きく動いて普段の泳ぎを再開した。

眠っていたのだろうか。

奇妙な事だが、力なく揺れる金魚を見て、私は初めて金魚の生を実感したのである。その時から彼の魚は鑑賞物ではなく、一個の生命となった。

私は小さな発見に心踊った。

水曜日は何のゴミの日だったかな。

そうして俺は童貞のまま再び大学を訪れることになった。

それほど嫌とは感じなかったが、センセイの部屋へは行く気にもなりはしなかった。


どんなに人生の困難と立ち向かっている時でも現実は俺に授業を与える。単位という最も身近な困難を乗り越えて行くことが重要なのだ。

そう思い込んで授業に出た

喋りが異常に詰まらない教授と教室の後ろに固まって喋っているだけの後輩たちの板挟みでストレス値は最高潮に達していた。しかし純粋な怒りの感情は一時的に不安を消してくれた。

食堂はやたらと混んでいた。2限と3限の間の昼休みはいつもこうなのだ。学生数に対して場所が狭すぎる。

どうせ時間は腐るほどある。授業が始まるころには人が減るだろう。

散歩には行く気になれなかった。

そうして結局、なんとはなしに赴いた喫煙室に落ち着いてしまった訳である。


そこに先だって座っていたのが明石であった。

指のあいだに挟んだタバコにはまだ火がついていない。

彼にしては珍しく惚けている。

だがきっと、そのやや小さめの頭には俺の想像も及ばない哲学が嵐のように渦巻いているのだ。その雲の晴れる時、彼はまた一歩先へ進むのだろう。

若者よ大いに悩みたまえ。


「なあ、君は今きっと僕を見て何か馬鹿な想像をしただろう。」

目の焦点もこちらにあっていないまま、明石はそう言った。

「君のそういうところは嫌いじゃないさ。人に理想を見ることで自分の外に常に理想を抱き続ける。上昇志向甚だしい。だが残念だったな。俺は今、今晩どうやって女の子を落とすか考えていたのさ。」

惚けた顔のままそう言い切ると明石はタバコに火をつけた。

俺も無言のまま隣に座って一本吸った。


一本が灰になるまでの時間がやたらと長く感じられた。いつもは何も感じないのに妙に喉に煙が絡んだ。


「なあ、俺たちは多分、もっと、生きなきゃならんよ。」

言葉を選びながら慎重にそう言って、明石は席を立った。

制服姿の彼女と二人で夕飯の買い出しをした。そういえば2日連続でいるのは初めてかもしれない。スーパーを散々歩いた末に駅前でラーメンを食べて帰ることにした。「今度は何か作るから」と不機嫌そうに言うのが可愛かった。


二人で手を繋いで歩いて帰った。周囲の目が気になったが離したくなくて黙っていた。手汗でベトつく手をきつく握った。

シャワーを浴びた二人は、裸のままベッドに並んだ。二人で寝るには、そろそろエアコンが欲しい季節かな。ひんやりとしたタオルケットが心地よかった。

「ねえ、今日さ。」

そう言いかけて彼女は恥ずかしそうに口をつぐんだ。

「どうした?」

「気持ち悪いって思わないでね?」

「鏡に写った自分以上に気持ち悪いものなんてそうないと思ってるよ。」

「そう言う長ったらしい文句も、必要以上に自己卑下するとこも気持ち悪いと思う。でもそうじゃなくて、今日でアンタの家で一緒に眠る30日目なの。一か月くらい一緒に暮らしたことになるね」

返事に詰まった。俺は、嬉しかった。ただただ嬉しかった。何日と言う単位で一緒の夜を数えていたその感覚の一致が嬉しかった。それだけじゃないがうまく言葉にできない。ただ愛おいと思えた。

「知ってたよ。」

涙目になりながらやっとそれだけ言った。

「それでね。そろそろ」

言い終える前に俺は彼女を抱きすくめた。下腹部に熱を感じた。

優しくキスをするところから始める。唇に、顎に、首筋に、鎖骨に、胸に。恥ずかしそうに見つめる彼女と目があって笑ってしまったら、今度は仕切り直して耳を噛んでみる。


それから1時間も経ったろうか、10分かもしれないし、2時間かもしれない。何しろ息つく暇もなくお互いの体に触れ合ったのだ。時計を見る余裕などあるはずがなかった。


そしてその時は訪れるのである。少女と童貞大学生は晴れて一つになるはずだった。

その時である。

愕然とした。

童貞大学生の下腹部のソレはダラリと力なく垂れ下がっていた。

朝が来た。

結局、俺と彼女は未だに清らかな肉体を保持したままだった。別にそれが悲しいわけじゃない。肉体を求めているだけだったらとうの昔にコトは済んでいる筈だった。

しかし、昨夜は確かに愛を感じてその末に結ばれる筈だった。しかしそれは叶わなかった。


カーテン越しに朝日を見た俺は、昨日と同じように彼女の頭を静かに置いた。気付けば二晩もまともに眠れていないことになる。寝たいとは思わなかった。眠ることで逃避したいとは思った。

そんなことを言っていても、眠気は確実に体を蝕む。重い体を起こしてコップに一杯水を飲んだ。酒が飲みたかったが、先日のビールで冷蔵庫の中の貯蔵は尽きていた。


金魚や、金魚や。

エサやりはもう日課になっていた。

しかしそれも今日で終わった。

水槽には白い腹を見せて浮かんでいる何かがあるのみだった。とても生物とは思えない何かが。

そのぶよぶよとした姿が昨夜の自分の垂れ下がったソレと重なって見えた。

喘ぎ声が聞こえる。

目の前で女が揺れている。

シングルのベッドが揺れている。


鼻はあまりタイプじゃないが、目もとは割に可愛らしい。

化粧が濃いのは確かだが化粧映えする顔なのだろう、それなりに綺麗だ。

きちんと見るべきだと思った。でないと俺は忘れてしまうだろう。女の顔も体も、この声も。

朝の街。

朝と言っても既に11時である。


明け方に家を飛び出した俺は人生で初めて風俗に行った。出来るだけ緩そうな所に行った。

色んな事がどうでも良くなって飛び出したハズだったが、やはり金を払う時には一瞬の迷いがあったし、女に触れるときには緊張した。

しかし、嬢の華麗な指さばきと舌使いで見る間に俺のモノは硬化した。


そして童貞を捨てた俺は道端で惚けていたわけである。

そんな、ものか。


「もっと、生きなきゃならんよ。か」

妙に詩人じみた自分に思わず笑ってしまった。笑ったらどうでもよくなった。これが生きるという事か。

次に彼女に会ったら謝らないといけない。許してくれるだろうか。


コンビニに入ってウィスキーのポケット瓶を購入した。瓶の口を舐めるように酒を含んだ。普段飲む酒より遥かに高いアルコールに少し噎せる。

ポケットに瓶の重みを感じて少し安心する。電車代は酒になった。歩いて帰るか。

そうだ。帰ったら金魚鉢を捨てよう。


木曜日は燃えるゴミの日だ。

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