夜子

橘 春

夜子

 僕の背中には引っ掻き傷の痕があるらしい。切れかけていた電球を換えている僕の後ろで、夜子が呟いた。

 薄暗い夜は分からなかったけど、触れられる今なら分かるよ。

 箱から取り出した新しい電球を、くるくると右に回して取り付ける。僕はこの作業の単純さが好きで、電球を換えるためだけに夜子の部屋に入ったこともある。そのときはまだ、彼女と僕は友達のはずだった。


 安野夜子と僕は必ず同じベッドで眠る。入ってもいい、と聞いてきたのは彼女で、曖昧に頷いてしまったのは僕だ。自分の恋愛対象が女であることは確かだが、心のどこかに違和感を覚えた。

 七月二日土曜日。日付を正確に覚えているのは、僕の性格と夜子のせいだろう。その晩は一睡もできなかった。

 翌朝、夜子は起き上がるなり僕に「ありがとう」と言った。そのときも僕は夜子の気持ちを流すように適当な相槌を打ち、朝支度を続けた。しかし彼女は言うだけ言って、そのあとは何事も無かったかのように手櫛で髪をとかしていた。さらりと垂れている胸までの髪が黒く艶めく。陶器のような白い肌とのコントラストに目を奪われる。ずっと見つめていると、瞳孔から吸い込まれてしまいそうな感覚を覚え、慌てて目を逸らした。日常に溶け込んでいる非日常、それが夜子だと思う。元の世界に戻るために、僕はいそいそとパジャマ代わりにしているTシャツを脱ぎ、下着姿になった。

「こんなによく眠れたの、すごく久しぶりだ」

 夜子の、小雨のようなひとりごとだった。会話を望んでいるような話し方ではなかったので、僕は黙ってクローゼットを開ける。

 青、紺、黒。掛けられているのは薄暗い色の服ばかりだ。白が似合う顔になりたかったと切に思う。僕の名前は「光」なのに、明るい色は似合わない。「夜子」は昨日もクリーム色のニットワンピースを着ていた。その羨ましさを押し殺すよう瞼に力を入れ、紺のセーターが掛かっているハンガーを取った。肩のあたりに付いていた埃を手の甲で撫でるように払う。その埃の、白いとも灰色だとも言えない色が忘れられない。


 あの日を境に、僕と夜子はほとんど毎日二人で朝を迎えている。結婚をするわけでもないのに、この生活に意味はあるのだろうかと考えてしまうときもある。早朝、アラームよりも早く目が覚めたときと、夜子が甘ったるい声で囁くときは、特に、その気怠さがいっそう強い。

「はい、終わったよ」

 電球の締まり具合を確認してから、夜子の方を振り向く。体育座りでスマホを弄っていた夜子が、ぱっと顔を上げた。

「すごい! 明るい!」

 眩しさを放つ新しい電球を見て、夜子は目を細めた。そうやってはしゃいでいる彼女は可愛い。僕はそれを後ろから眺めているだけでいい。

 帰るよ、と僕は床に脱ぎ捨てていた黒のコートを手に取る。明日は必須科目のレポートの提出日なのに、それがまだ仕上がっていないのだ。時計の針は十を指している。今から帰って続きを書けば、日付が変わる頃には眠れるだろう。

「待って」

 コートの裾を夜子に引っ張られ、僕の重心が後ろへ傾く。

「泊まってよ」

 先程まで輝いていた夜子の瞳は、おばけを怖がる子どものように揺れている。何ら珍しくない光景である。僕はその場にしゃがみ、膝立ちをしている夜子と同じ目線まで下がる。

「夜子、僕はレポートが終わっていないんだ。明日提出の、檜垣先生のやつ。レポート点が高いって言ってたじゃん。だから今日は帰るよ。ごめんね」

 子どもをあやすように、言い聞かせるように説明する。そうすれば夜子は渋々といった様子で頷いた。夜の夜子は、子どもなのだ。

「明日、また明日ね」

 置き去りにされる捨て猫のような表情で、夜子は僕に手を振る。僕も小さく振り返す。それが少し気持ち悪くて、夜子にも自分にも吐き気を覚えた。

 思っていたよりもレポートをうまくまとめられず、布団に入ったのは午前一時を少し過ぎたくらいだった。部屋の電気を消し、僕の視界は黒で塗り潰される。部屋にある物は全て輪郭を失い、夜に溶ける。

 子どもの頃から、そうでなければ眠れなかった。眩しいものが怖いのだ。暗闇の中に浮かぶ光は、特に、その恐怖が強い。そういう意味では、夜子は義父の次に怖い人物なのだ。

 夜子とは友人の紹介で出会った。はじめは同じ学部で同じ学科である、というくらいしか接点が無かったのだが、話しているうちにいくつか共通点が見つかった。好きなバンド、好きな漫画、下宿先の近さ。それらは、一人暮らしの大学生にとって強力な繋がりだ。とりわけ、家が近いというのは大きい。少しタイプが違っていても、その枠を軽々と飛び越えられるのだから。

 「夜子」という人間を種類別に分けたとき、彼女は僕のタイプではない。夜子は誰かに甘えるのが好きなのだろうが、僕は人と一線を引いて生きていきたいのだ。夜子のように、誰かと混ざり合って一つになるなんて、想像もつかない。

 少し前に、夕方のテレビで分離色というものを見たことがある。パレット上で色を混ぜたのにもかかわらず、紙に置いたとき色が分かれて見えることがあり、それを分離と呼ぶらしい。すぐにチャンネルが変わり、どういう仕組みでそうなるのかまでは分からなかったが、僕みたいだ、と思った。周りに溶け込んでいるように見えて、本当はひとりぼっちの人間。部屋を暗くして、夜に溶けるように眠りたいと思うのは、そういうところからきているのかもしれない。


 驚いて顔を上げると、カレーライスが盛られた皿が僕の目の前に置かれていた。わざとらしいほど大きな音を立てていたのに、昼休みの食堂は賑わっていて、僕以外の誰も男を気に掛けない。

 食券を買いに行った夜子に、僕は席取りを頼まれていた。売店が近い席に腰を下ろし、薄茶の小さい鞄を守るように横に置く。黒のリュックサックから菓子パンとペットボトルと小説を取り出し、読み始めようとしていたちょうどそのときだった。

 どこかで見かけたことがあるような男だ。茶髪は明るく、少し日に焼けた肌と骨格が相まって、薄く色づいた花崗岩を彷彿とさせる。

 男は僕の真向かいの椅子に腰を下ろした。そのときちらりと見えた旋毛の辺りは黒く、この男も、地毛は僕と同じであるのだと、そういうことを思った。

「おい」

 声はどしりと低かった。知り合いではないはずの男が、僕を睨むように見る。海馬をかき混ぜてみるが、この男と関わった覚えが無い。そうして記憶の島を渡っていると、義父の影が頭に浮かんだ。影、というのは比喩ではなく、本当に影だ。顔の凹凸や色は何一つ分からない、黒い生き物。やけに冷たい指先と、汗ばんだ掌。手足が短い。義父は、僕の中でそういう物体なのだ。

「聞いてんのか?」

 男の声で、脳内の義父が千切れる。慌てて返事をした僕の声は、情けなく裏返っていた。

「な、何?」

 机の上で放置されているカレーライスの湯気が、徐々に消えていく。男の視界にはそれが映っていないのか、あるいは食品サンプルだと思っているのか、彼は全く気にしていないようだ。

「俺は武田雄人。夜子の彼氏だ」

 衝撃の事実、というほどの衝撃は無かった。武田雄人の声色は嘘をつくときの義父に似ていたし、そういえば、あの男も目を細め口角を上げて嘘をつく癖があったのではないだろうか。それが記憶の偽造なのか、事実であるのか、確かめる術はもう無い。

 殆どゼロに等しいほど反応の薄い僕を見て、武田雄人は満足そうに笑う。勝ち誇ったように、深く座り直した。大きな音を立てて。

「お前は?」

 そう言う武田雄人の頭上の照明が、玉ボケのようにぼやけて見える。棒状の金属を耳に突き刺し、主張の強い服に着られているこの男の輪郭は、目が痛くなるほど眩しい。それは僕にとってこれ以上無いほど良い意味だ。見せたい自分を見せられるこの男が、心底羨ましく思えた。

 会話を忘れ、個性に見入っていた。痺れを切らしたらしい武田雄人が、少し苛立った声で付け加える。

「名前。夜子の何?」

 条件反射のように、名前はするりと口から出た。

「篠崎光。夜子の」

 言おうとしていた続きが、言えなかった。言葉が喉で詰まり、僕はその言葉の定義を考える。仮にこの男が彼氏だとすると、僕は何になるのだろう。同じ布団で眠り、泣きそうになれば宥め、電球を換え、背中の傷を知られている。

 そのとき、天ぷらうどんが乗ったトレーが机に置かれた。白い煌めきが視界に入る。

「何してるの?」

 夜子だった。じろりと睨むように武田雄人を見下ろす。

「何の用?」

「あ、いや、別に」

 氷柱のような視線で突き刺された武田雄人は、カレーライスの皿を持ち、逃げるように立ち去って行った。たじろぐ姿は先程の高圧的な態度からは想像もつかず、僕はしばらくあっけにとられていた。

 ふぅ、と夜子が短い息を吐く。立ち尽くしたままの夜子に席を譲った。武田雄人が座っていた椅子には武田雄人の色や温度が染み込んでいるような気がして、夜子に座らせてはいけないと思ったのだ。その椅子に座り直すと、予想通りの温もりを臀部に感じた。

 髪を一つに束ねながら夜子が切り出す。

「その、変なこと、言われなかった?」

 変なこと、という口の動きを見て真っ先に浮かんだのは、僕が夜子の何かという問いだった。その次に、胡散臭い彼氏宣言を思い出した。

 武田雄人との数分間のやり取りのことを、夜子には曖昧に濁しておいた。どこか納得のいかないような表情をしていたが、昼の夜子は子どもではない。「気にしなくていいからね」とだけ言われ、別の話題に移った。

 そのあとも、ずっと、僕は夜子の何であるのかを考え続けていた。二限で分からないところを当てられて冷や汗をかいた話や、昨晩の夢に元彼が出てきた話に、相槌を打ちながら。

 同じ布団、真っ暗な部屋、触れた二の腕、そこから伝わった体温、電球、傷。

 特別であるかもしれない理由をいくつ数えてみても、夜子と僕は友達の枠をはみ出さない。七つ目のそれが思い浮かんだところで、夜子は急に声色を変えた。

「ね、家、今日も来てよ」

 夜の声だった。その言葉が「泊まってよ」と同義であるということは、なんとなく察しがついていた。レポートは朝に提出したばかりだし、用事が入っているわけではない。いつもなら軽く頷くはずの頭が、なかなか上下に動かなかった。

 どうん、と波動を感じた。夜子の、僕たちの背景が滲む。言葉通り二人だけの世界になるように、徐々に視界が靄によって侵されていく。

 僕を窺いながら、夜子が続ける。

「寂しくて……あんな夢見ちゃったから、一人でいるとつらいっていうか……」

 あんな夢、と言ったのは、元彼の夢だろう。元彼が大蛇に丸呑みにされてしまい、それを目の前で見ていた夜子が泣いていると、左腕だけになった元彼が夜子の頭を撫でた――という話を、夜子は淡々と説明していた。

「あと、話したいこともあるの」

 捕らえられるように合った夜子の目の奥は揺れていて、それは換えるときの電球に似ていた。もうすぐ殺されるのだと分かっている電球に。

「洗面所の電球も切れかけてるし」

 やっと、僕は頷いた。夜子の顔はぱっと晴れ、欲しいものを手に入れられた子どものように、八分音符を辺りにまき散らしている。

 夜子の笑顔は可愛い。ずっと見ていたいし、それになりたいとも思う。



「キュル、キュル、ポンッ! って音がするのかと思ってた」

「しないよ。なにそれ」

 左に回して取り外し、右に回して取り付ける。電球を換える作業は簡単で、しかしそれを知らない人は多い。手順は回すのみで音も出ない。僕の手の動きを見つめながら、夜子はそう言った。確かに、漫画ならそういう擬音語が書かれていそうではある。最後の音はよく分からないけれど。

 電球を換えてほしい、と頼まれたのは初めてだった。「みーちゃんからそういうの得意だって聞いて」と言われ、二つ返事で了承した。みーちゃんというのは共通の友人であり、僕と夜子を繋げた人物だ。

 得意じゃなくて好きなだけなのだと訂正すると、夜子は「そっちの方がいい」と言った。何気ない一言だったのだろうが、きっと、ずっと忘れることはできないだろうと思うほど、その言葉に衝撃を受けた。

 電球を換え終えたあと、僕はすぐにリュックを背負った。すると、夜子は薄い上着を羽織り小さな鞄を肩に掛けた。見送ってくれるのかと思い、僕はそれを断った。もう随分、夜が深くなっていたからだ。

 僕の家に行きたい、と夜子は言った。この部屋で眠りたくないのだ、と。

 じんわりと滲むような赤い目と、はちきれんばかりに膨らんでいる涙袋に気圧され、僕はそれに頷いた。

 七月二日、土曜日。夜道を夜子と歩いているときから、僕の電球はひとりでに左へ回っていた。キュル、キュル、と鳴りながら。

 入っていい、と訊かれ、曖昧に頷いてしまったとき、頭の中で、ポンッ、と何かが弾けてしまったような気がした。

 それから、未だ、僕の電球は換えられていない。



 五限が終わると、夜子は教室まで僕を迎えに来ていた。近くのスーパーで鶏肉と玉葱を買い、二人で夜子の家へ帰る。昨日ぶりの部屋は、昨日よりも散らかっていた。

 夕飯のチキンライスを食べ終えると、夜子は化粧もそのままにベッドへ倒れ込んだ。白いフレアスカートを履いた夜子が倒れていく様は、雪崩のように美しかった。

「よる、」

 化粧落とし持ってこようか、と言おうとして、買ってすらいない電球のことを思い出した。洗面所の光は確かに弱まっていた。新品に比べれば。

 それを一瞬で打ち消し、もう一度名前を呼ぶ。電球なんてどうだっていいのだ、夜子も僕も。それが一番の理由であるなら、最初にそう言っているはずなのだから。

「来て」

 言われるがまま、僕は夜子の隣に寝転んだ。ふわりと優しい香りが鼻をくすぐる。春の陽だまりのようなそれは、人工的なものではなく、夜子の肌から溢れ出ているものだ。変な表現だが「生きている人間の匂い」なのだ。

 毛布の中で足が当たる。何が可笑しいのか、夜子はいきなり笑い出した。

「どうしたの」

「いや、だって、なんか、色々思い出しちゃって」

 そう言って、夜子は僕の顎の線をなぞる。なぞられたところから帯びていく熱に、夜子は気付かない。気付かなくていい。

 夜子が口を閉じ、沈黙が流れる。点けっぱなしの電球が眩しい。しばらくして、夜子は口を浅く開いた。そこから漏れ出る言葉の一つ一つが、僕の皮膚に刺さる。冷たい感触がした。

「……似てるんだよね」

 僕を見つめる夜子の瞳は、夜の海を連想させた。海と空の輪郭が分からない夜。月の輝きが水面に反射して、そこでようやくここからが海だと分かるような、夜。

「横顔とか、言葉選びとか……あと、なんだろうね。爪の形? とか」

 ふと、忘れられたはずの武田雄人の言葉が頭に浮かんだ。僕は夜子の何なのだろう。もう一度考えてみたけれど、適当な言葉で余白を埋めることすらできなかった。答えはどこにも無いのかもしれない。

「元彼に似てるんだ、って気付いちゃって」

 言い終わってから、夜子はすぐに「ごめん」と言った。

「変なこと言ってごめん。忘れて」

 それ以外に返事のしようがなく、浅く頷いた。忘れて、と言われて、忘れられるはずがないだろう、と思ったが、言えなかった。顎の熱がまだ冷めていなかったからだ。

 気まずい沈黙を避けるため、例の話を振る。

「話したいことって、なに」

「守ってほしいの」

 正直に言うと、僕はその答えに面食らった。あまりにも直球で、抽象的なそれを、一口では飲み込めなかったのだ。落ち着いて、一つずつ質問を投げかける。夜子は、すっかり夜の子どもになっていた。

 夜子の話をまとめると、こうだ。最近一人で歩いていると、誰かに見られているような気がする。心当たりは無いけれど、もし本当に男の人に尾行されているとしたら、怖い。誰かと一緒にいるときはそれを感じないから、ずっと一緒にいてほしい。

 それを僕に頼むのは、間違っているような気がした。「守ってほしい」なんてただの友達にする頼み事ではないし、僕と夜子はただの友達だ。それ以上でも、それ以下でも無い。友達の枠をはみ出せないのに、どうして僕に、それを言うのだろう。

 けれど、断るつもりはなかった。男の人への恐怖は、僕も知っているからだ。とうの昔に治っているはずのあの傷がずきりと痛む。それを見透かすように、夜子は僕の背中へ手を伸ばしてきた。

「守るよ」

 それはするりと口から出た。本心だ。夜子は目を丸くさせたあと、すぐにいつもと同じ笑みを浮かべた。傷の辺りを癒すように撫でられる。

 僕は夜子の何になりたいのだろう。

「寝よっか」

 夜子が目を瞑り、僕も同じようにする。明かりは未だ点いたままで、瞼の向こう側が眩しい。はじめは眩しかっただけのそれは、すぐに息苦しさへと変わった。明るい部屋で眠ってはいけないのだ、義父の夢を見てしまうから。

 僕の短い呼吸に気付いた夜子が目を開ける。目が合うと、何故か、港の近くの観覧車に義父と二人で乗った夜を思い出してしまった。


 中学一年生のとき、義父が出来た。どうしてそうなったのかという経緯を理解していなくても、義父という人間がけして粘土から生まれたわけではなく、自分と同じ血の通った人間であることは分かっていた。食欲も性欲もあり、感情もある人間が家に増えるということの本質を、おそらくは誰も理解していなかったのだろう。僕も、母も、義父でさえ。

 理想の父親像がどのようなものなのかは知らないが、義父はよく僕を夜の海へ連れて行った。隣接した公園にある観覧車に乗って海を見下ろすと、なんだか全てがちっぽけに感じられて、安心した。その感情の移り変わりが好きだった。

 ライトアップされた観覧車の光が、海面に反射して煌めく。観覧車が回るたび、光の形が微妙に変わる。義父は水平線を見つめながら、窓を指で軽く叩き続ける。思い返せば、あれはモールス信号だったのではないかと思う。厚い指の腹と、観覧車が回るときの振動と、夜の波。夢に出てくるそれらは、記憶の中の義父よりも鮮やかな彩度で蘇る。


 夜子は、僕の背骨の有無を確かめるように指を這わせている。細くしなやかな手は、まるで子どものように温かい。それを振り払うように体を起こし、立ち上がった。電球を消すと、視界から夜子が消えた。夜に溶けたのだ。それは夜子も同じようで、僕を探すように何かをパタパタと振っている空気を感じた。手、だろうか。それを掴む前にだんだんと目が慣れてきて、僕は夜子を、夜子は僕を見つける。薄闇のなかに、僕たちの輪郭が浮かび上がる。

 くっついていた夜子の上唇と下唇が離れた。

「明るいの、嫌なの?」

「……あんまり得意じゃない」

 言葉選びに、少し迷った。嫌ではない。明るいのは、眩しいのは好きだ。僕もそうなりたいから。けれど、明るい空間は別なのだ。

 夜子は、実は超能力者なのかもしれない。腐った瓶には蓋をするように、僕はずっとそれを心の奥に閉じ込めていた。それなのに夜子は僕の瞳孔をじっと見つめ、躊躇うことなく蓋を回した。

「背中の傷痕、どうしたの」

 事故で、と言おうか、分からないふりをしようか、用意していた選択肢はいくつもあったはずなのに、僕の口は勝手に「義父に」と動いていた。

「義父に、やられた」

 真っ白な部屋の隅に追い詰められた僕は、電球が煌々と輝いている様をぼんやりと眺めている。何が起きているのか、何が起こっているのかは分からない。ただ義父に心を、電球に目をやられている。

 二十分程度の悪夢は、何度も繰り返された。義父がいなくなってからも、明るい部屋で眠ると義父の夢を見る。海に行き、観覧車に乗ったあと、やけに白い部屋で背中を引っ掻かれる。執拗に同じところを、抉るようにつけられたせいで治らない。背中に目は無いはずなのに、夢の中の僕はその傷の赤黒さに泣いている。

 一度溢れてしまえば止まらなくなって、僕はとうとう最後までそれを話してしまった。夜子は僕の感情の一つ一つに相槌を打ちながら、一定のリズムで背中を優しく叩き続けてくれていた。どこからどう見たって、この夜の子どもは僕だ。

 そのうち、夜子は僕の横の方の髪を掬いとり、撫ではじめた。頬を伝う熱い液体が口に入り、そのしょっぱさにようやく僕は泣いているのだと気付く。ぐっと夜子の顔が近づいて、頬に生温いものが当たる。僕の涙を夜子が舐め取ったのだ。分離色だったはずの僕が、夜子と混ざってしまう。今夜の僕たちは、どうかしている。



 同じ粉砂糖でも焼けば溶ける砂糖と溶けない砂糖があるように、僕の中にも人と混ざり合える僕と、混ざり合えないと思っている僕がいる。早朝に目が覚めた僕は、薄紫色の雲がたなびく朝を迎えながら、そういうことを考えていた。

 一限が始まる三十分前に、夜子はのそのそと起き上がった。そのまま眠りに落ちたせいで皺がついてしまったフレアスカートを脱ぎ、夜子の白い足があらわになった。柔らかそうに見えるが、喩えるのならマシュマロよりも雪だろう。歯を立てればぽろぽろと崩れてしまいそうだ、というところまで考えて、目を逸らした。

 僕の視線を知らないで、夜子は裸足のまま靴下を探し部屋の中を歩き回っている。隅に落ちていた黒い靴下を拾い、夜子に声を掛けると「ペンギンのやつがいい」と言い出した。

「朝子だ」

 僕が笑うと、夜子は頬を膨らませた。

「朝子?」

「朝の子ども」

 意味が通じたらしく、夜子も一緒になってけたけたと笑う。夜子はクリーム色のワンピースを取り、頭からがぼりと被った。化粧台の前に座り、下地を皮膚に乗せ広げていく。朝食を食べている時間は無い。

「二限、休みだっけ」

 夜子は左手でビューラーを温め、右手で瞼に色をつけている。器用だ。二限は前期のみ開講される講義だったから、今は空いている。頷くと、夜子が「じゃあ」と切り出した。

「食堂で朝ご飯食べよう」

 一限の教室から食堂までは夜子の方が近い。僕が向かう情報教室は大学構内の隅の方にあり、入り口の方にある食堂へは大分距離がある。その上、二限が始まるギリギリまで講義時間は延長する。向かうのが遅くなることを伝えると、「席は取っておくから早く来てね」と僕の手を握った。その甘い声に、気怠さよりも勝る感情が生まれた。

 講義が終わると、僕は食堂へ急いだ。夜子の言葉を頭で反芻しながら、一歩一歩をできる限り大きく歩いた。食堂に入り、売店の辺りをきょろきょろと見回す。いつもの席に鞄は無く、夜子らしき人影も見当たらない。

 ふとどこからか夜子の声が聞こえたような気がして、食堂のテラス席へ向かう。そこには自販機が四つ並んでいて、廃れた喫煙スペースもある。遠目に二人の男女が言い争っているのが見えて、僕は足を速めた。

 よく見ると、そのうちの一人は夜子だった。もう一人の横顔には見覚えがある。記憶の引き出しを開けていくと、とある男を思い出した。あの岩のような風貌は、武田雄人に違いなかった。

 なんとなく安堵し、歩く速度が落ちたのも束の間、武田雄人が夜子の手首を掴んでいるのが見えた。

 僕はこれまでに出したことがないほどの速さで、彼らの間へ割って入った。庇うように夜子の前に立ち、武田雄人の手首を掴み、爪を食い込ませる。

「夜子の彼氏は僕なんだけど」

 切ったばかりの爪は鋭かったのか、武田雄人は手を引っ込めた。彼の睨みこそ鋭く、僕は身体中が痛くて仕方が無い。けれど、後ろには夜子がいる。僕が守ると決めた、夜子が。

 ぎゅ、と、突然後ろから手を握られた。夜子の手と、僕の手が一つになるように溶ける。てのひらの海のことが、あっけなく知られてしまった。

「……そういうことだから」

 そう言うと、無言で立ち尽くしていた武田雄人は、ふらふらとした足取りで食堂の中へ消えて行った。僕は夜子の手を離し、向き直る。

「ごめん」

 夜子は少し驚いた表情で、なんで謝るの、と言った。

「咄嗟に変なこと言っちゃって」

 僕は夜子の彼氏にはなれないのに。何をどうしたって、僕が僕である以上、夜子の彼氏にはなれない。そのことは、悲しいというよりも虚しい。

「でも、私は嬉しかったよ」

 背の低い夜子が僕を見るとき、夜子は必然的に上目遣いになる。ただそれだけなのに、僕は、電球を換えたあの日から、夜子の特別になりたいと思ってしまっている。

 風が吹いて、クリーム色のワンピースの裾がひらりと揺れた。夜子の匂いが鼻をくすぐる。僕と目を合わせたまま、夜子が微笑んだ。

「光ちゃんが男の子だったら、よかったのにな」

 そう呟いた夜子の瞳はやはり煌めいていて、僕は夜の海の冷たさを想った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜子 橘 春 @synr_mtn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ