第5話 もう遅いです!

「あの、優里ちゃん?」

「…………」


 正也さんが、再び、わたしの目の前に現れました。わたしは、正也さんに目を合わせられ、何も反応することができませんでした。どうすればいいのか、何を言えばいいのか、わかりませんでした。


「俺、やっぱり――」

「あたしたち今から次の授業の教室行くから! 行こ、優里!」

「え? あの……」

「いいからほらほら!」

「は、はい……」


 脇目も振らずにわたしに迫ってくる正也さんを、唯子ちゃんが間に入って止めてくれました。そしてわたしの左手を掴むと、そのまま食堂から一目散に抜け出しました。


「大丈夫、優里?」

「だ、大丈夫、です」


 口ではそう言いましたが、わたしの心の中は、ぐちゃぐちゃに色を混ぜた絵の具のように、乱れてしまっていました。




 授業はいつものように唯子ちゃんの隣で受けていましたが、内容は全く頭に入りませんでした。いつのまにか授業が終わって、出入り口から他の学生さんが講義室を後にしていく中で――


「あの。優里ちゃん、大事な話があるんだ」


 あのときと同じように、正也さんが、講義室に現れました。


 正也さんは、他の学生さんの流れに逆らい、座席から立ち上がっていたわたしの前へとやってきました。正也さんを不審な目で見る学生さんもいましたが、まもなく講義室は正也さんと、わたしと唯子ちゃんだけになりました。


「半田さんも出て行ってくれないかな」

「あたしも残る。優里にとって大事な話なら、無関係じゃないから」


 迷いなく真っすぐに放たれた言葉を、唯子ちゃんは間髪入れずに斬りました。すごい気迫です。


「わかった。好きにすればいい」


 このまま言い合いになっても仕方ないからという感じで、正也さんは唯子ちゃんを見て言いました。そして正也さんは、わたしにきりっとした目を向けて、開口しました。


「優里ちゃん、また俺と付き合ってくれないかな」

「え……?」


 正也さんの言葉に、思わず耳を疑ってしまいました。三週間前、別れようと言ってきたのに、どうして今になってまたそんなことを言うのでしょうか。正也さんは、少し呼吸を整えてから、話を始めました。


「俺、実は他に好きな女の子ができてさ。その子にちゃんと告白したくて。だから優里ちゃんと別れたんだけど、フラれちゃってさ……。ほら、ここ。キモがられて思いっきり噛まれた」


 正也さんは、着ていたシャツの襟を捲って、右の肩口にはっきりと残った歯型の傷跡を見せてきました。痛々しいです。


 そのときでした。

 

「だからさ優里ちゃん。俺のことがまだ好きなら俺ともう一度やりな――」

「ふざけるなっ!」


 正也さんの話が終わる前に、唯子ちゃんが叫びながら握り拳で正也さんの頬を、力いっぱい殴ったのです。正也さんは衝撃で後ろの机に体を強くぶつけて倒れてしまいました。そして唯子ちゃんは正也さんを踏みつけようとするかのように正也さんの身体を足で挟みました。唯子ちゃんは今スカートを履いていますが、全く気にしていないようでした。


「最低な男には今まで散々会ったけど、あんたはその中でも史上最悪。今それがわかった」

「ぐっ……」


 唯子ちゃんは、闇の底から湧き出たような激しい怒りを滲ませた声を発しつつ、正也さんの胸を強く、何度も、何度も踏みつけました。さすがにこれは止めた方がいいのでは、そう思いました。


「あの、唯子ちゃん……」


 わたしは言いましたが、唯子ちゃんは正也さんの胸に足を置いたまま離そうとしませんでした。

 

「優里は優しいからどんだけあんたが身勝手な行動をしても何か悪いことをしたんじゃないかって思ってあんたを許すと思う。でもあたしはあんたを許さない。岡本優里おかもとゆうりはあんたを噛んだ奴の代替品でもないしあんたの性欲を満たすための存在でもない。もう二度と関わらないで」

「何を……言ってるんだ……俺は……」

「そもそもあんたそんなに映画好きじゃなかったんでしょ。おおかた優里と付き合いたいっていう目的から逆算して、女子が好きそうな人気の恋愛映画をちらっと観たくらいでしょ」

「そう、だったんですか……?」


 わたしは、唯子ちゃんに踏まれて苦しんでいる正也さんに尋ねました。思えば、恋愛映画以外の映画についての話題を出すと途端に受け答えが行き詰まる、なんてことがよくありました。


「そう……だよ……。でもだから何だっていうんだ…………俺は嘘はついていない……そうして……恋愛映画が好きになったのは……事実だ……映画好きでもないのに映画好きだと偽るよりは……」

「そうやって少しでも自分を正当化しようとする辺り、やっぱり最低ね。でも残念。優里はもう、あたしと付き合ってるの」

「な……!? それは、どういう……!? 君は……確か経営学部の眼鏡の……」

「うん。義明とも付き合ってる。それは両方知ってるし、許可も貰ってる」

「そんな……それこそただの正当化だ…………それなら…………君が俺を責める資格は……」

「ある。少なくとも、あたしは一度でも優里を一方的に捨てたりしない。絶対に。義明は、まあ、今はいいでしょ」


 唯子ちゃんは、正也さんにそう告げたあと、ようやく正也さんの胸から足を離しました。そう言ってくれて、嬉しいかったです。正也さんは肩口だけでなくシャツまで、跡がはっきりとついてしまいました。その胸を痛そうにさすりながら、正也さんは立ち上がりました。そしてわたしにこう訊きました。


「優里ちゃんは…………どうなんだ? 教えてくれ……」

「えっと……」


 果たして言ってもいいことなのか、わたしは迷いました。今までの人生でわたしは人を突き放すような言葉を発したことがありません。小さい頃から自分が言われたら嫌なことは絶対に言わないようにしているからです。


 ですが、ここで言わなければ、もう事件は解決したのにいつまでも終わらずに長々と続くような映画になってしまうと思いました。


 だから、わたしは。


「もう遅いです! わたしには唯子ちゃんという彼女さんがいますので! 諦めてください!」


 そんな言葉を、正也さんに言ったのでした。


「わかった……。それじゃあ、またね、優里ちゃん」

「またはないから!」


 正也さんは唯子ちゃんの声を背中に受けながら、とぼとぼと講義室から出ていきました。


 ……本当に、これでよかったのでしょうか。


「よく言えたね優里。えらいえらい」

「そ、そうでしょうか、えへへ……」

「うんうん」


 悩んでいると、わたしの隣の唯子ちゃんがそう言ってわたしの頭をさわさわ撫でてながら褒めてくれたので、今はこれでよかったのだと、思うことにしました。


 こうして、わたしと正也さんの関係は、今度こそ終わりを迎えることとなりました。

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