第5話

 お美しいアリメレット様が、「はあ」と可愛らしいため息をついた。物憂げな表情もアリメレット様は麗しい。

「アリア嬢、あなたの頭は何が入っているのでして?」

「はい、アリメレット様への愛が詰まっております!」

 アリメレット様がまた「はあ」とため息をついた。物憂げで美しいお顔に白くなめらかなお指が添えられている。

 ああ、実に神々しい。

 こんなにも神々しいアリメレット様から、今日は生徒会活動後に、アリメレット様の寮部屋までお茶のお誘いを受けたのだ。寮部屋と言っても上級貴族の集まる紫翼棟の寮部屋だ。それぞれの部屋に茶会室や厨房まであり、それぞれの学生がお付きの料理人を用意して使う。そんなプライベートスペースに、アリメレット様からお誘いを受けたのだ。

 ああ、これはもうアリメレット様のご寵愛を賜っていると言っても過言ではないだろう!

「アリア嬢、どうしてそんなに賢いのに、どうしてそんなに愚かなのですか」

「お褒めいただき光栄です! ありがとうございます!」

「褒めておりませんわ!」

 アリメレット様の青く煌めく瞳が僕に向けられた。その輝きは叡智と慈悲そのものだ。

 アリメレット様は小さく頭を振った。

「それで、アリア嬢。あなたはトイナ・メジマキ殿のことをどう思っていらして?」

 アリメレット様のお口から初めて出た名前だ。武術科目で同じ訓練組になったふたつ上の学年のマッチョマン、どうかしたのだろうか? アリメレット様とヤツは同じ授業を受けていない。ヤツは生徒会に所属していないから、そちらの用件もないだろう。何の話か検討もつかない。

 はっ! まさか! あのマッチョマンめ、アリメレット様に不快な思いをさせたのでは!? ありえる、ヤツは真面目だが、頭のなかササミベーコンだ。学業はほどほどかもしれないが、気づかいなどできるはずがない。

「おのれメジマキ! アリメレット様に仇なすとは、ゆ゛る゛さ゛ん゛ッ!」

 立ち上がった勢いで椅子がガコンッと倒れた。

「お待ちなさい! どこをどうしたらそうなるのでして!?」

「違う、のですか?」

「違いますわ。あまりにも見当はずれです」

 僕は椅子を直して改めて座る。周囲に第三者の気配はない。アリメレット様がヤツを「斬れ」と仰るのなら斬る。躊躇いはない。

「アリア嬢、あなたがカナンマ学園内で最もよく話す男子学生がトイナ・メジマキ殿ですわよね。トイナ殿が最も話す女子学生も、アリア嬢ですわ。そこに特別な感情はありますの?」

「特別、ですか? 剣の腕前は確かに特別と呼んで差し支えないほどかと思います。しかし、他はまだまだ未熟ですね。将来有望かもしれませんが、何かを成すには時期尚早です。もしかして、アヤツに何かを任せるおつもりですか? 僭越ではございますが、その仕事、僕にお任せくださいませんか? 僕ならアヤツより上手くこなしてみせます。お願いします!」

 僕は額を机につけた。どんな仕事かわからない。だが、アリメレット様のお役に立てるのなら、どんなことだってやってやる。

「違いますわ。少し落ち着いてくださいますかしら?」

 アリメレット様は少し仰け反るように身を引いている。僕は顔を上げて差筋を伸ばす。

「失礼いたしました。では、どのような意味の質問だったのでしょうか?」

「わたくしは、アリア嬢の認識を知りたかったんですの。でも、もう結構。存分にわかりましたわ」

 よくわからない。よくわからないが、アリメレット様が「もう結構」と仰った以上、僕から訊ねるべきではないだろう。そこには深い叡知があるはずだ。

 ああ、アリメレット様は紅茶を飲むお姿もお美しい。


 僕が寮部屋に戻ると、部屋の扉に黒いインクがかけられていた。顔の高さからベチャリと、そこから膝下くらいまで垂れて、そのまま固まっている。扉の木地に染み込んで固まっているので、ウォッシュやクリーンの魔法でも落ちないだろう。さて、どうしたものか。

 出来事としては、ゲーム内のイジメイベントのなかにもあった。しかし違和感もある。『ギシフキテスの翼』のシナリオでイジメイベントが始まるのは、早くても2学年の中盤からだ。1学年の、それもこんな入学間もない時期から始まるのは少し予想外だ。

 僕にも背負っているものがある。こんなくだらないイベントで傷つけられたら堪らない。セキュリティレベルを上げよう。既にすべての私物は背負いカバンのなかに入れて管理しているから、今までと大きく変わるところはない。

 汚れた扉を眺める。ゲーム内ではどういう対応だっただろうか。ああ、そうだ、寮監に報告して証拠記録として書類作業で半日つぶれるんだった。バカらしい、そんなムダなことやってられるか。

 僕はカバンを置いて、中から赤い指輪と黒インクを取り出す。赤い指輪を右手の中指にはめて、インクの蓋を開ける。少し集中しよう。これからするのは、精密操作に向かない魔法での精密操作だ。

 小さく深呼吸する。右手を握り拳にして、指輪をインクに向ける。

「ミスト」

 黒インクが霧状になって巻き上がり渦を作った。僕はその黒い霧と扉を交互に見る。ここからが難しい。黒い霧を少しずつ、壁や天井や床につかないように、扉に吹き付ける。ムラなく吹き付けるためには流れるように作業しなければならないし、慌てて吹き付ければ扉以外が汚れてしまう。

「マスキングテープが欲しい」

 そういえば、この世界の塗装工程はどうなっているのだろうか。同じような苦労をしているのだろうか。

 思ったより苦労したが何とか塗り終えた扉を眺める歩離れて眺める。僕は「よし」と頷く。あとは乾いた頃に魔法を数種類かけておけば十分だろう。


 翌日、教室に入ると、今日も金髪王子がいた。コイツは暇なのだろうか?

「アリア、おはよう。今日も元気そうだね」

 金髪が両手を広げて歩いてきた。その後ろからアリメレット様がこちらの様子を見ている。

「おはようございます、殿下。視界に入るだけで吐き気が催すご尊顔を恥ずかしげもなくブラ下げておられる堅忍持久の姿勢には感銘いたします」

「アリア嬢、お謝りなさい!」

「朝からお目汚ししてしまい真に申し訳ありません、アリメレット様」

「謝る相手が違うといつも言っていますわ!」

「そうそう、私に謝ってごらん、アリア嬢」

 金髪頭がニタニタとした顔を僕の方に突き出してくる。

 そう、ニタニタとしたキモい顔だ。ファンなら「不意に見せる無邪気な顔」などと言うのだろうが、僕にはニタニタとしたキモい顔にしか見えない。

 このキモい表情をするってことは好感度が上がってきた証拠だ。どうしてこれだけ邪険に扱ってるのにどうして好感度が上がってるんだ? もしかしてマゾか? そんな設定はあったか?

 僕は自分の席に両手を置いて、頭を小さく振る。

「このようなことを殿下に申し上げるのは大変心苦しいのですが、殿下が罵られてお喜びになるご趣味を嗜んでおられるとは露ほども存じませんでした。深くお詫び申し上げます。僕はそのような同好の士ではございませんので、大変申し訳ございませんが、三十五万キロメートル以上離れていただければ幸いでございます」

「なんでそうなるんだい!? そんな趣味はないよ! それに三十五万キロメートルってどこまで行けばいいのさ!」

「月でございます。殿下は尊いお立場ですので、月にお住まいになることも可能かと存じます」

「無理だよね! ねえ、無理だよね!」

「為せば成る。為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」

「急に何を言い出すんだい? 物事には限度があるよね!」

「ああ、為せば成る。為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」

 僕が「ヨヨヨ」と泣き真似をすると、始業を知らせる鐘が鳴った。これでやっと去ってくれる。やっとだ。

 小さく、アリメレット様のため息が聞こえた。


 魔術科目が始まる前に、僕は準備室に呼び出された。アリメレット様がついて来てくださったのが、光栄でありつつ、恐れ多くもある。

「今日は、ちゃんと魔力誘導具を持ってきたか?」

 魔術教師は、僕に訊ねながら椅子を指差した。僕はアリメレット様に振り返る。アリメレット様は既に少し離れたところの椅子に座っていて、僕の視線に小さく頷いた。それを確認して、僕は目の前の椅子に座り、背負いカバンを脇に置く。それから、視線を目の前の魔術教師に向ける。

「僕の魔力誘導具は持ってきましたが、本当に普段使いのでいいのですか?」

「ああ、それでいい。お前が傭兵や冒険者として、ソロで活動していることは皆が知っている。単独で実践活動するために使っている道具を見ることは、他の皆のためでもある」

「あと、普段使いの魔力誘導具は複数あるのですが、授業で出して使うのは1つでいいですか? あまり手の内を晒しすぎたりしたくありません」

「ふむ、なら最も使用頻度の高いものを出しなさい」

 僕は「わかりました」と言いながらカバンから片手盾を取り出した。

 サークルシールドに似た、楕円の先端に切れ込みが入っているような、C字型と言うか、馬蹄形と言えばいいのか、特注の僕の片手盾は独特な形だ。ええい、言ってしまえ、肘から拳までを隠す大きさの、先割れスプーンに似た形の盾だ。装飾がまったくないから、余計にスプーン感がある。

 その盾を、魔術科目の教師に手渡す。魔術科目の教師は重そうに受け取った。

「武骨だな。それに随分と大きい」

「盾としては、それほどではありません。それに、同じ規模の魔力誘導具の杖と比べると、棒状ではない分だけ取り回しがしやすく、奪われたり落としたりする危険性がほとんどありません」

 僕はその盾を自分の手に戻すと、くるりと裏返す。左手で取っ手を握り、腕の2ヶ所を金具で留める。拳を突き出すように腕を伸ばす。

「このように狙いを定めます」

「狙い難くはないか? 杖の方が直線誘導路が長いから精度が高いと思うのだが」

 僕は首を横に振って、黒板の前に立つ。チョークを持って模式図を描こうとして、諦めて消した。ヘタすぎた。芸術家ルートもあるのだから絵の才能がないわけじゃない。今まで取り組んだことがないからだ。

 僕はチョークを置いて、描きかけたものを消す。それからすぐに振り返る。

「魔術を使うとき、対象と出力球と目を直線上に置くのが基本姿勢ですよね」

 僕は黒板脇の指示棒を右手に掴む。その指示棒の先端を、目線位置まで上げる。

「そのとき、杖型の魔力誘導具だと、杖の軸内にある魔力誘導路は、魔術発動直線上にもなければ平行でもありません。ですから、魔力誘導路によって整えられた魔力を術者の魔力操作で曲げながら魔術を発動させる必要があります。それは、魔力の損失であると同時に、誘導路で整えられた魔力を乱し、しかも人為的な失敗を介入させる可能性を増やします。それは非効率です」

 魔術科目の教師は、少し不満げに「ううむ」と唸った。

 僕は指示棒を黒板脇に戻す。それから、左の手のひらを天井に向けるように、盾の裏側を見せる。

「この盾は、複誘導路と腕が平行に位置しています。そのため、対象に腕を向けて魔術を発動させるだけで、魔術発動線も平行になり、魔力の乱れや損失を減らした効率的な魔力運用になります」

 魔術教師は小さく「ふむ」と呟いた。それから、懐からペンくらいの杖を取り出す。それを指で無造作に立てると、その杖の先端の周り、出力球の周りを、赤と青と緑の三色の小さな光がくるくると回る。繊細で緻密な高等技術だ。

「アリア嬢、お前は非効率というが、もっと長期的な視野に立てばどうだろうか。その非効率なものを扱いきるのが魔術師の腕というものだし、そんなところで怠けたら腕が鈍ってしまうのではないのかな」

「非合理的ですね。もちろん訓練過程の、さらにその途中の短期間だけなら有効だとは思います。しかし、実践の場において、自ら足枷を増やして成功率を下げるなんて無駄でしかありません。また、その程度で腕が鈍るようなヤツは、どうせ足を引っ張るだけの使えないヤツなので切り捨てた方がいいでしょう」

 僕は左腕ごと黒板前のチョークに向ける。風の刃の魔法を放つと、チョークがコトリと動いた。そのチョークを、魔術教師が摘まみ拾う。そのチョークには、星形の穴が開いているはずだ。

「ほう、見事なものだね。こんなに軽くて脆いものを、吹き飛ばさず砕かず、型どった穴を開けるとは」

「真面目に勤勉に杖で鍛え続けた学生で、これくらいの精度で魔術を使える人はどれだけいますか?」

「ははは、どれだけどころか、学生にはいないよ」

「いないは言い過ぎでしょう」

「いや、ひとりもいない」

 魔術教師の言葉に、少し驚いてしまった。主人公を別にすれば、『ギシフキテスの翼』で最も魔術の成績がよかったのはキザ眼鏡だったはずだ。そのキザ眼鏡ですら、一顧だにされなかった。こんな状況で、どこまでゲームの知識を使えるのだろうか。

「アリア嬢、確かにお前はまだ幼い。だが、少なくとも実技面では、学生の域どころか大人の世界でも頭ひとつ抜けている。そのお前が様々な実践のなかで辿り着いた結論だ、魔力誘導具の今後に向けて検討する価値はあるだろう。だがな、多くの人間はお前のように優秀ではない。だから、お前の話にここで頷くことはできない」

 魔術教師は真っ直ぐに僕を見据えている。

 不意にパンパンッと手を叩く音がして、僕は振り返った。アリメレット様だ。

「ヤシウユキンケ先生、少し越権行為ですが、クゾキナパッリ家の者として発言してもよろしくて?」

 軽やかで涼しげでありながら、力強く威厳のある神々しいお声だ。実に心地いい。

「もちろんです、アリメレット様。どうぞ仰ってください」

「おい、アリア嬢。どうしてお前がそんなことを言うんだよ。ええっと、アリメレット様。ここには我々しかおりません。本日ここに我々のみの間、ここは学園の外ということに致します」

「そう、感謝しますわ。まずヤシウユキンケ・ラガナシカム伯爵、わたくしが許可するまで、ここでアリア・イカーガミカ男爵令嬢から聞いた魔力誘導路とそれに関わることの一切の他言を禁止致しますわ。かかる研究についても同様に許しません」

 魔術教師は目を見開いた。下を向いて小さく顔を振り、上目使いでアリメレット様の方を窺う。

「あの、ラガナシカム邸内の私の個室のみの個人研究の許可はいただけませんか?」

「許しません」

 アリメレット様の美しく絶対的なお言葉に、魔術教師は両目を閉じて俯く。

「か、畏まりました」

「安心なさい。時が来たら、伯爵も携わらせるつもりでしてよ」

 魔術教師は立ち上がって深々と頭を下げた。

「あ、ありがとうございます」

「わかったのでしたら、そうね」

 と、そこでアリメレット様はそのブルーサファイアの美しい眼差しを時計に向けた。

「魔術の授業まで7分ありますし、5分間、部屋の前で誰も入って来ないよう、立ち聞きできないよう、見張りなさい。よろしくて?」

 魔術教師は姿勢を正して、カッと踵を鳴らす。「承りました」と言って、すぐに準備室を出た。

 アリメレット様は立ち上がり、僕の前の椅子に座った。まっすぐに僕を見ている。端正でありながら可愛らしい顔は真剣な表情で、あまりに美しく、ああ、耳まで熱くなってくる。

「あなたが何を考えているか知らないけれど、時間がありませんもの。ここでの件のみ、手短に申しつけますわ。アリア・イカーガミカ男爵令嬢、あなたの考える軍用魔力誘導具の設計図を画いて用意なさい」

「はい、仰せのままに。えっ? 軍用? 設計? 僕が?」

 アリメレット様のお顔には、僅かに笑みが浮かんでいる。艶っぽくも可愛らしい。

「受けましたわね。もう断らせませんことよ」

「はい、アリメレット様のご指示に僕は否を持ち合わせておりません。ただ、あまりに予想外で驚いてしまいました」

 アリメレット様は僕の左手についたままの盾をチラリと見た。

「その盾の魔力誘導具は、アリア嬢の設計を基に作られたと聞いておりますわ。それに、自転車や車椅子をはじめとして、イカーガミカ商会にはアリア嬢が設計開発した商品が多いのですってね。できないとは言わせませんわ」

 僕は立ち上がって姿勢を正し、自分の首に当てて古い敬礼をする。

「はい、このアリア・イカーガミカ、命にかえても必ずや!」

「話は終わっていませんことよ。座りなさい」

 僕は「はい」と答えて座り直す。アリメレット様からの直接のご指示だ。全力で応えねばならない。

「アリア嬢、設計図にはあなたのサインを入れて、イカーガミカ家の印とイカーガミカ商会の印も捺しなさい。期日は、そうですわね、1学期の末日にしますわ。よろしくて?」

 僕は「畏まりました」と頭を下げる。同時に、アリメレット様は静かに立ち上がった。

「今後、繰り返しアリア嬢を呼び出すことになると思いますわ」

 僕は拳を握って「光栄であります」と応える。アリメレット様からの呼び出し、ああ、なんと甘美な響きか!

「アリア嬢には話すべきことが沢山ありますもの、近いうちに声をかけさせていただきますわ」

「アリメレット様のお心のままに!」

 僕は立ち上がってアリメレット様に古い形式の敬礼をした。


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僕の愛しの君は悪役令嬢 @fulidom

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