第34話 持つべきものは遠くの親戚よりも近くの他人
無音が支配するその場に、アキラの呑気な寝息が微かに聞こえる。
亮太の口がワナワナと震えた。
「刺身はまだ分かる、分かるが……。米! 全部食う奴があるかよ……!」
狗神・蓮が目を伏せながらポツリと呟いた。
「アキラ様を一人残した私達の失態ですね」
「僕のご飯ないのー?」
亮太の背中にはタケルが乗っかっている。亮太は蓮に言った。
「レン、米を炊こう」
ここのところ、炊飯は蓮の仕事になっていた。
「それが、亮太」
蓮が悲しそうに首を横に振った。
「申し訳ありません。今日買うべきでしたがすっかり失念しておりまして、もう米びつはほぼ空に」
シンク下に設置された5キロ入る米びつのメモリ表示があるプラスチックの窓には、米の陰影は確認できなかった。
「米もない、刺身も食われた……餃子と青椒肉絲があるけどな、そうじゃないだろ?」
「そのメニューに白米は必須ですからね」
蓮が悔しげに肯定した。仕方がない、今からでも買いに行くしかないだろう。亮太が諦めてそう言おうとした時。
亮太の背中から、タケルの声がした。
「米ならうちにありますよ」
「本当か!?」
どうやら目が覚めたらしい。亮太はタケルが落ちない様そっと降ろし、タケルを振り返った。目はまだ少しぼんやりとして見えるが、もう涙は流していない。鼻水の白い跡が若干頬に付いていたが、恐らく大半は亮太の服に付いている筈だった。
「それと、蟹でよければ冷凍の物が」
「蟹! 何でそんな物があるんだ!」
するとタケルは照れた様に頭を掻いて少し笑った。
「実家が北海道なんで、北海道の米とか蟹とかの海産物がよく送られてくるんです」
「でかしたタケル!」
「じゃあ僕取ってきます。そうしたら、あの……」
「ん?」
もじもじ言いにくそうにチラチラと亮太を見るタケル。何だろう。
「ぼ、僕も一緒に食べていってもいいですか?」
そうか、モヤの所為かどうかは分からないが、亮太が言ったことをあまり覚えていないみたいだ。亮太ははっきりと頷いてみせた。
「勿論だ。さっきそう言ったのは覚えてないか?」
「あ、薄らぼんやりとは。でも、夢だったかなって」
どれだけささやかな夢だ。
「夢じゃない。お前に明日から俺の店でバイトしろって言ったのも夢じゃねえよ。まあ未成年だから十時までだけどな」
「あ、それもですか」
「どうせ最近は漫喫のバイトも行ってないんだろ」
「よくご存知で」
「じゃあ問題ないな」
「でも、僕に上手く出来るんですかね」
タケルの表情は不安げだったが、亮太はだからといって勘弁するつもりはなかった。
「やる前から失敗することを心配してどうすんだよ。それに上手くなんか出来やしねえよ」
「断言しましたね」
タケルは若干ムッとした様だ。こういうプライドの高いところが、こいつの交友関係を狭めている原因の一つだろう。
「俺だって完璧に接客なんて出来てねえよ。失敗だって未だにある。でも俺はこの仕事が性に合ってる、だから続けてる」
「亮太さんにも、ですか」
「そうだよ、悪かったな」
大人が失敗しないとでも思っていたのだろうか。そういうところがまだまだ幼い。
「……分かりました、明日からですね」
「嫌でも引きずっていくからな」
「ちゃんと行きますよ」
やれやれ、という顔をしてタケルが言った。こいつも相当偉そうだが、これはもう性格なのかもしれない。すると、タケルは部屋の奥に転がっているアキラに気付いた様だった。
「アキラちゃん寝ちゃってるじゃないですか。じゃあうちに来ます?」
「そうですね、万が一起きてしまって他のおかずも食べられてしまったら大変ですから」
蓮が相槌を打つと、タケルがぽけっとした顔をして蓮を見上げ、次いで亮太を振り返った。
「あの……こちらの方はどなたでしょう?」
しまった。亮太は内心舌打ちをしたのだった。
◇
タケルの家に移動し、炊飯の合間に茹でた蟹を
「亮太さん、いつの間に蛇なんて」
「今日からだ。そうビビるな、可愛いもんだぞ」
タケルの家は備え付けのコンロだった。トイレも何気にウォシュレットになっている。まさかと思いこっそり覗いた風呂は、そのまさかの追い焚き機能付きだった。大家よ、対応が大分違いやしないか。それ故の格安家賃なのかもしれないが、にしても色々と設備に差があり過ぎる。
「にしても、アキラちゃんが心配で時折見に来られるなんていいお兄さんですね」
「いえいえ、それ程では」
蓮の姿を見られてしまった亮太は、咄嗟に『蓮は都内に住んでいるアキラの兄でアキラが心配で時折会いに来ている』という嘘をついた。蓮は何か言いたそうにしていたが、さすがに口は挟んでこなかった。
タケルの部屋はシンプルだった。机の上には大きなモニターとPC。シングルサイズの収納付きベッドに、低いテーブルが一脚、それだけだ。
そして亮太の目にはモニター周辺に黒いモヤが映って見えた。残滓の様なものだろうが、これがあの黒いモヤを大量発生させた原因の一つであろう。放っておけばまた繰り返す可能性もある。亮太は机に向かって座り心地のいいキャスター付きの椅子に腰掛けると、口の中で小さく
亮太のそんな様子をちらりと確認した狗神が、亮太に声をかけた。
「亮太、餃子を焼き始めて宜しいですか」
「お、頼む。――タケル、ちょっとこっち来い」
「何ですか?」
亮太に呼ばれるとタケルは素直に亮太の横に立った。
「お前がやってるそのネットのなんちゃらのアカウントを今この場で消せ」
「え、け、消すんですか?」
「そうだよ」
嫌がるだろうとは思ったが、あれだけ周りに迷惑をかけておいても捨てたくない程のものなのだろうか。
「暫く閲覧も禁止な。あ、そうだ、PCのログインパスワードは俺が設定しよう」
「えっそれは困りますよ! 学校のレポートとかもあるし」
「だからその時は言えばいいだろ」
かなり強引なやり方だとは思ったが、こうでもしないときっとすぐにあの闇の世界に戻っていってしまうだろう。モヤは祓っただけで根本的な解決には至っていないのだから。
「いいからやれ」
亮太が出来るだけ人相悪くいい放って席を代わると、タケルは半泣きの表情で渋々PCを立ち上げ始めた。独り暮らしで友人もいないからだろう、なんとパスワード入力もなくデスクトップが表示された。セキュリティも何もあったもんじゃない。
亮太は職を転々としている中の一つに事務職もあり、付き合った女性の家にPCがあったりと、実はPCに深くはないが馴染みはある。だから動作の基礎知識は一通り知っていた。
タケルがブラウザを立ち上げ、お気に入りから一つのサイトを選んだ。亮太も知っているSNSの一つだった。どうやらタケルが騒いでいたのは掲示板でのことではなかったらしい。このSNSについては客から話は色々聞くが、ただでさえ普段人と接している亮太はあえて休みの日まで見ず知らずの人とやり取りをする気にはならず、今に至っている。
アカウント情報の欄をクリックする。アカウント消去の項目があった。マウスのポイントがそこの上まで来て止まる。
亮太はタケルの耳元で、出来る限り低い声で言った。
「やれ」
「ひいっっや、やりますよ!」
カチ、とマウスをクリックする音が聞こえ、本当に消去していいか最後の確認のポップアップ画面が出てきた。また迷っている。亮太は小さく溜息をつくと、キーボードのEnterキーを背後からポンと押した。アカウント削除完了。
「ああっ」
「ああ、じゃねえよ。ほら、席代われ」
半ば呆然としているタケルをどかすと、亮太はPCの設定画面に入り勝手にパスワードを設定した。
「りょ、亮太さんブラインドタッチ出来るんですね、意外……」
「昔取った杵柄だ」
「杵柄? 何ですかそれ」
「もういい」
ブラウザのお気に入りの後の項目はほぼエロサイトへのリンクだったのでそこは残しておいてやることにし、亮太はさっさとPCを落とした。待てよ、タケルがエロサイトを閲覧したい時も亮太は呼ばれるのか? その可能性に思い当たり少し自分の下した選択を後悔したが、まあ、それはそれだ。
「亮太、もうすぐ出来ますよ」
「へいへい。ほら、タケル支度するぞ」
「はいぃぃぃ」
情けない声を出しながらも、タケルは亮太の指示に従うことにした様だった。
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