第六章 白羽の矢

第35話 この年から体力づくりと言われても相当きついんだが

 翌日から亮太は狗神と走り込みをすることになった。


 朝は三十分早めに起こされて走り込み。帰宅後は昼食の準備、その後昼寝の時間を設けてもらうことになった。でないと、仕事に回す体力が持たない。


 下北沢の店は大体どこも十一時から開店を始めるので、朝は人通りも少ない。その為、狗神は首輪の代わりにバンダナを巻きつけ、リードなしで並走していた。


 とにかくもう少し体力をつけなければいざという時対処が出来ないですと、当たり前の様に亮太を巻き込んできた狗神に説教をされたのが昨夜タケルの家を後にした時。一般人をさらっと巻き込みその上説教まで垂れてくる狗神にさすがに理不尽さを覚えた亮太ではあったが、胸ポケットの中から顔を出したみずちのひと言で亮太の決意は固まった。


草薙剣くさなぎのつるぎを持つ亮太、格好よかったのー」


 ここまで言われてしまってごねるのは亮太の美学に反する。というか、いいところを見せたいじゃないか。


 だが、段々亮太の自由時間も減ってきてしまっていて、このままでは折角描きたいと思っていた絵を描く時間が確保出来ない。よって、亮太は狗神に交換条件を出した。下北沢の地理の把握と、把握後の食材の買い出し担当である。アキラも道が分からないがために外出がままならない。あれでは身体が鈍ってしまうのもそう先のことではないだろう。


 犬の姿であれば鼻も利くので道も覚えやすいとのことだったので、走り込みに狗神も付き合って道を覚えることになった。アキラに財布を預けるのは際限なく買い食いをしそうなので恐ろしくて出来ないが、狗神ならば安心である。それに二人で一緒に買い出しにでも行ってくれたら、亮太の睡眠ももう少し確保出来るしアキラにも少しは感謝されるに違いないという打算もあった。一度落ちた家庭内順位は、ランキング最上位を少しずつ懐柔することで上げていくしかない。


 今日から夕飯は仕事がある日はタケルも一緒だ。朝の内に店のオーナーには連絡を入れて雇用許可を得ておいたので、こちらも準備は万端である。見た目も性格も真逆のシュウヘイと上手くやれるかは正直謎だが、きちんと仕事が覚えられた後は亮太かシュウヘイのどちらかが遅出おそで出来る様にもなる。あまり人件費も増やさずにもう一人欲しいなと思っていたところだった上知り合いなので、その点も有り難かった。まあ、ほぼ亮太の独断と偏見で決定したことなのでタケル本人はイヤイヤかもしれないのだが。


 にしても、勾玉なしのジョギングは辛い。そもそもあれは何であんなに効果があるんだ。いつの間にか狗神が持っていたが、こんな簡単に一般人の亮太に貸し出していい様な種類の物なのだろうか。それ位物凄い効果だ。


 今日は南口の駅前からスーパーDの脇を通り、南下して茶沢通りに出て薬局を確認、池ノ上の駅から自宅に戻るコースである。出来れば南口から北口に抜けるルートも覚えてもらいたかったので、明日はそちらに行くつもりだった。


 ゼーハーいいながら、亮太は首にぶら下げた○○商店のタオルでこめかみから垂れてくる汗を拭いた。きつい。実にきつかったが、それでも走れている辺り禁煙効果は確実に出ている様だ。


 昨夜、餃子と青椒肉絲、更に軽く昆布出汁で湯がいた蟹を酢醤油で堪能しつつタケルに最近おかしいなと思った頃に訪れた場所を尋ねてみたところ、ここ最近は息抜きをしに大きな公園に行くことがあったそうだ。この数日の間でも、代々木公園、駒沢公園、それに羽根木公園にコンビニのおにぎりを持って行っては食べていたそうだ。優雅な生活の様に思えるが、公園に行ってベンチに座っていても目に映るのは幸せそうなカップルや親子連れや友人同士と思われるグループばかり。一人が居心地悪くなって結局はすぐに帰ってしまっていたそうだ。


「僕、一人が苦手みたいです」


 そう言って頭を掻きながら笑うタケルは、昨日はとても楽しそうだった。



 そして亮太の喉と手首の内側が蟹を食べた後痒くなった。アキラが亮太のことを甲殻類アレルギーだと言っていたのは本当らしい。しかしアイツは何でそれが分かったんだろうか。アキラに関してはやたらと食うことと背中に八岐大蛇ヤマタノオロチを封じていること以外は普通の女子中学生と何ら変わらない様に見えるのだが。


「亮太頑張ってください、あと少しですよ」


 涼しげな表情で狗神が言った。


「そういうお前は、ゼエ、道覚えたのか」

「あのスーパーは二回目ですからね、もう大丈夫です」

「今日は、ハア、買い物宜しくな、ゼエ」

「畏まりました」


 まだタケルの件については狗神と話せていない。どこかの公園で八岐大蛇の悪い気を取り込んでしまったんじゃないかという亮太の疑惑を話した途端、あっという間に公園訪問ツアーが組まれて逃げられなくなるのが目に見えてたからだ。


 それに、大ボスと対峙するには確かに今の体力では不安しかない。だが。


 亮太はふと疑問に思った。そもそも、何で亮太がそんな事をする羽目になったんだろうか、と。



 亮太は心の中で深海よりも深い溜息をついた。



 バイト初日のタケルは散々だったが、何だかんだ文句を言いながらもシュウヘイが面倒を見てくれたお陰で亮太も苛つくことは少なく済んだ。



 タケルに取り憑いていた物を祓ってからあっという間に数日が経ち、亮太の家にアキラと狗神とみずちが当たり前の様に居ることにも何の違和感もなくなった。


 仕事から帰ると家に誰かが待っていて「おかえり」と言ってくれるのは本当にいい。狗神とみずちが競う様に出迎えをしてくれると、思わず泣きそうになる時があった。そんな時はわざと笑って「ただいま」を言う様にしているが、どうしても想像してしまうのだ。


 誰もいなくなったこの部屋を。アキラとおかずの争奪戦をやったり、皆が何を食べたいだろうかと献立を考えたり、洗濯物が多いとぼやいたりするこの平和な時が消え去る未来を。それは遅かれ早かれ必ずやってくる未来だ。それを止める権利は亮太にはない。亮太はただこの賑やかな居候達の面倒を見る白羽の矢が立った一般人に過ぎない。例え今は多少祓いものが出来る様になっているとはいえ、それも勾玉と草薙剣がなければ知りも見えもしない世界だ。


 きっと今のままでは、その時がきた時に亮太の心は寂しさで潰れてしまう。でもそんなのは御免だった。勝手に人の生活に割り込んできて、人の心に温かいものを覚えさせてから去っていってしまうなど。何も残らないなど。



 だから、残すことにした。


「亮太、僕格好いい?」

「そうだな、格好いいかもな」


 薄いピンク色をしたみずちが一人前にポーズを取る。亮太はそんなみずちを微笑ましく思いながら、手をス、スと動かしていく。


 亮太が手にしているのはスケッチブックとスケッチ用の鉛筆だった。始めの内は手の力加減すら忘れており、紙にぎゅっと芯を押し当ててしまって想像していた以上の濃い線が描け我ながら驚いたが、暫く描いている内に段々と感覚を取り戻してきた。誇らしげなみずちをジッと見つめる。


 亮太は濃い所から少しずつ少しずつグレーを重ねていく。まるでそこに元々存在しているかのように、それを手のひらで砂をかき分けて掘り出す様な感覚だ。多彩なみずちをモノクロに変換して、少しずつ掘っていく。


 鉛筆に慣れてきたら久々にアクリルも描きたかったが、あれは乾くのに時間がかかる。この居候だらけの部屋に乾かす為の場所は確保出来そうにはなく、かといっていつ雨が降るか分からない状態で外に干しておくのも不安だ。仕方ないので、色鉛筆で我慢することにした。とりあえず今は横に置いてある。手持ちの、古い古い色鉛筆。これで狗神が見せてくれたあの色彩を表現することが出来るだろうかと考えると、あまりにも久々過ぎて分からないとしか言えない自分が悲しい。それ程長いこと、絵からは離れていたのだ。


「お婆ちゃん喜んでるねえ」

「え? どうしてみずちがこの色鉛筆のこと知ってるんだ?」

「あ、えーと、何となく」


 亮太が美大に合格した時に、まだ生きていた曾祖母ちゃんが贈ってくれた色鉛筆だった。その後、すぐに亡くなってしまった。電話越しでありがとうを言ったのが最後だった。母さんと信じられない思いで島根に急行した。土葬は民法で慣習として認められており、曾祖母ちゃんが住んでいた土地はまだそれを実行していた。


 曾祖母ちゃんが膝を曲げてちょこんと入った小さな樽に花を一輪飾った。墓場の下に深く掘られた空間に花で埋め尽くされた曾祖母ちゃんが降ろされたのを見て、埋めないでくれ、そう叫びたくなった記憶が蘇った。


 みずちの声は悲しそうなものだった。


「亮太、泣かないで」

「え、あ? あれ、ははは」


 いつの間にか涙が溢れていた。駄目だ、最近本当涙腺が弱くて困る。肩でぐりぐりと拭くと、亮太は無理矢理に笑ってみせた。


「わりい、ちょっと思い出しちまった」

「亮太はお婆ちゃんが大好きなんだね」


 みずちはまるで今も曾祖母ちゃんが生きているかの様に言った。でも、そうだ。例え亡くなってしまったとしても、亮太の好きという気持ちは健在だ。だからみずちは正しい。


「ああ、大好きだよ」


 すると。


「ん?」


 誰かに頭をいいこいいこされた気がした。後ろを振り返るが、勿論誰もいない。亮太は首を捻った。


「亮太、続き描いてー」

「おお、そうだな」


 何だかよく分からないが、まあいい。亮太は目の前のみずちに集中することにしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る