はじまり

 エクトの故郷の丘の上。

 ソルたちは、東の空が薄明色はくめいいろに染まり始める中、最後の別れを惜しんでいた。


 ダナブとナジとは、聖堂で別れてきた。


 ダナブが、ナジに連行されて聖都の地下牢へと連れて行かれたとき。


「私には、こんなことしか出来そうにない」


 そう言ってうなだれたナジを、エクトは思い出した。


 そして、今隣に立っているソルの顔を見た。


 落ち込むナジにソルが言った言葉。



「アンタはそっち側で正義を貫けって言っただろ。いつか、この赤ちゃんが成長した時、堂々とこの国で生きていけるように、正義の限りを尽くしてくれよ」



 その言葉に、ダナブは嬉しそうにほほえみ、ナジは、目を見開いた。


「そうだな……。そうしよう」


 そう言って、笑ったナジの瞳は、強い決意と希望で輝いてみえた。




 姉の魂を宿した赤ちゃんは、エクトの腕の中で、聖王が用意してくれたおくるみに包まれてすやすやと眠っていた。


「ララ、ありがとう、本当に」


 ワーキが、ララを抱きしめた。

 ララは、ワーキの背中をぽんぽんと叩いて、幸せそうに笑った。


 今、丘の上にいるのは、赤ちゃんを抱いたエクトと、ソルとララ、それからナイルスとワーキだった。


「ソル。世話になった。お前と出会えたことに、感謝している」

「ははは、俺も感謝してる! ナイルスがいなかったら、俺、死んでたもんな」


「そう言えば、どうしてソルは、兄さんをナイルスって呼ぶの?」


 ふと、ワーキが質問した。

 ナイルスは、苦笑いをして答えた。


「我がソルと出会ったとき、ソルはまだ六歳だった。我の本名は長すぎてうまく言えなんだ」


「だったら、タイルって呼んでもらえばよかったのに……」


「俺、気付いたらナイルスって呼んでたんだ! ナスルをいい間違ったらしいんだけど、それで覚えちゃって」


 ソルが照れ笑いをしながら言うと、ワーキは驚いた。


「兄さんが、言い間違いを許したの? 戦場にいる頃は、あんなに厳しくて怖いって有名だったのに……」


「うるさいぞ、ワーキ。我も幾千のときを経て、丸くなったのよ」


 ワイワイと楽しそうに話すワーキとナイルスを見て、ララは嬉しそうに笑った。


「よかった! 仲良しね」

「ララ、心配かけちゃってるんだね、ごめんね」

「ワーキ、また謝る。何も悪くなんだよ」

「そっか、そうだよね、ごめんね」

「ふふ、まただよ」

「あはは」


 ララとワーキのやり取りは本当に微笑ましかった。


「エクトも、世話になった。ダナブの分も礼を言わせてくれ」


 ナイルスが頭を下げた。


「い、いいえ! 僕なんてなんにも……!」

「実はな、私はずっと、ソルをこの国に置いてはいけないと思っていたんだ」


「え?」


 一番驚いたのは、ソルだった。

 初めて聞いた話だったようだ。


「ララを救い出せても、ソルは反逆者として追われる実。幼い身体のまま、成長が止まっているララを連れて逃亡生活など、させられないであろう? 

 それにここは、兄妹ふたりだけがいれば、健やかに生きていけるというような世界ではないだろう」


 人はひとりでは生きていけない。

 人は、自分の好きな人が一人そばにいるだけでは、生きていけない。


 人は、たくさんの人々が、星空に瞬く星たちのように、それぞれがそれぞれの輝きを放って、見えるところ、見えないところ、いろんなことで何かを補いあって、それでようやく生きていける。


 そして、街ができて、国ができる。


 そうして成り立った世界。

 罪人とされた少年と、巫女の妹という双子、ふたりだけで生きていくには、難しいシステムができあがってしまっている。


「だからな、我はソルが成長して、我らの契約が終了する前に、ソルに、ララ以外の大切な人ができないかと、ずっと思っていたのだ」


「ナイルスさん……」


「エクト、お前に出会えたことにも、感謝している」


「こちらこそ、ありがとうございます、本当に」


 エクトの目に涙が滲んだ。

 目がしみたが、ふきたくても、赤ちゃんを抱いているのでできなかった。


 ナイルスは、東の空を見た。

 もう、朝陽が昇り始めていた。


「ソル。夜が明けるな」

「そうだな、ナイルス」


 今まで、ララを失った両親に、置き去りにされたあの日、炎に包まれた家で出会ってから、何度も何度も一緒に見てきた朝焼け。


 今までで、一番きれいで、一番眩しい朝焼けだった。


「夢は終わった。夜は、明けた」


「うん」


「我らは、もうここに戻ってくることはないだろう」


「ああ」


「これが、今生の別れよ」


「解ってる」


 ソルにとってナイルスは、兄であり、父であり、師であり――たった一人の同志だった。


 ナイルスにとってソルは、弟であり、我が子のようであり、愛弟子で、大切な相棒だった。



「ソル」


「うん」


「我との契約の代償として支払った、お前の十年は戻らない。大切に未来を生きるのだぞ」


「解ってる」


「腹を出して寝るでないぞ」


「出さないよ」


「魔法はもう使えないのだから、ケガにも病気にも気をつけるのだぞ」


「ふふ、ナイルス、母さんみたいだな!」


「できの悪い天使をもつとな、神は心配性になるらしい」



 ソルは、右手の小指を立てて、ナイルスに差し出した。


 ナイルスも、ふっと笑って、自分の右手の小指をからめた。



「約束する。ちゃんと生きる」

「ああ。我も。お前を信じている」


 その小指の先から、ナイルスの姿がキラキラと輝く砂のようになっていく。

 まるで、朝陽に溶かされていくように。

 ワーキも、笑顔のまま、同じように輝いて消えていく。


「ワーキ! 楽しかった! 本当よ! さようなら!」

「ふたりとも、ありがとうございました……!」


「じゃあな!」


 三人の人間に見送られ、兄弟神は、輝く星屑となって、はるか天上に吸い込まれて消えていった。



 夢を見ていた神も、戦天使も、もう、この世界にはいなくなった。

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