リノスとダナブ

 ソルとエクトが家の中に入ると、ソルが驚きの声を上げた。


「あれっ! 昨日はあんなにいろいろあったのに!」


 いろいろな怪しい道具や、材料たちで溢れかえっていたテーブルの上が、すっかりきれいになっている。

 さらには、椅子まで三脚さんきゃく用意されている。

 ナイルスはそのうちの一つの背もたれに止まっていた。


「フン。ダナブよ。お前も掃除そうじができたのだな」


 ナイルスのからかうような声に、ダナブは冷めた視線で返した。


「ここの生活も、長いのでな。

 さあ、エクト、そこに座っておくれ」


 ダナブの声は、エクトに向けられるときだけ、ほんの少し柔らかいように、ソルは思った。


「あの、あなたは、その……」


 エクトが意を決したように、ダナブに声をかけた。だが、うまく言葉にできないでいるようだった。


「お前が聞きたいことは解っている。今、話そう、さあ座ってくれ」


 ソルが、エクトをそっとうながす。

 二人が席につくと、ダナブは一度奥へ行き、陶器とうきのカップを二つ持って戻ってきた。

 中には、ごく普通の、いい香りのお茶が入っていた。


 ソルは目を見開いた。

 ――普通の飲み物もあるんじゃないか!



「これ……姉さんが好きだった……」


 エクトが、お茶の香りにハッとして顔を上げた。

 ダナブは、泣きそうな顔で微笑んでいた。


「エクト、最初にお前に謝罪がしたい。これは、私とそれから、リノス、二人からの謝罪だ。

 本当に、すまなかった。十年。お前には、あまりに辛い想いをさせてしまった……!」



 エクトは、深々と頭を下げたダナブを見て、思わず呼吸を忘れた。


 何か、何か言わなくてはと思ったけれど、言葉が出てこなかった。


 代わりに、頬を、何かが伝っていって、あごからぽたりと落ちた。



 なんて

 なんて言えばいいんだ



 いいえ? 大丈夫です?

 ふざけるな? ゆるさない?



 ちがう……なんだかなにもかもちがう……。



 呆然として、涙を流し続けるエクトを見て、ダナブは一層悲しそうな顔になった。



「お前に、全てを説明しておきたいと思った。これは、リノスの願いだ。だから、この、ナイルスとソルにお前を迎えに行ってもらった。突然のことで、申し訳なかった」


 エクトは々しく、少しだけだが頭を左右に振った。


「エクト、私の名は、ダナブ。アル・ダナブ・アル・ダジャジャ。この世界の存在ではない。

 そうさな。お前たち人間が、天上と呼ぶ世界の存在だ」


 ダナブの名を聞いて、ソルが驚いたような顔をした。ナイルスは特に表情を変えなかった。

 まあ、そもそも鳥なので表情の機微は解りにくいのだが。

 どちらかというと、無関心にさえ見えた。



「私は、お前たちが神と呼ぶ存在。アル・ナスル・アル・ワーキを、迎えに来たのだ。これは、はるか太古の時代からの悲願だった……」



 神と呼ぶ存在。アル・ナスル・アル・ワーキ。


 突然出てきた畏れ多い名に、呆然としていたエクトも驚いて「えっ」という声がこぼれた。



「お前たちにとっては、遠い御伽話おとぎばなしのようなのだろう。リノスがよくそう言っていた。だが、我らにとって全てが現実なのだ。ワーキは、この世界にちて、そしてそのままとらわれてしまった」


「とらわれた……?」


 それはまるで、灯台の中にいる、自分のようではないか。


「私は何度も助けようとしたが、ワーキを守る人間にはばまれていた。私達は、ワーキが創り出し、あの男が護るこの大地では、元の姿のままでは力をふるえなかった。

 そして私は思った。この世の存在である、人の子の身体を得ることができれば、力をふるうことができるかもしれないと……」



 人の子の身体



「それが……」


 エクトのくちびるが奮えた。

 涙が。止まらなずにあふれていた涙が、口の中に入った。


「それが、姉さんの……からだ……だった……?」


 ソルが、目を見開いた。


 ダナブが、痛みをこらえるような顔で頷いた。

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