魔女リノス

 ソルとナイルスが、イエド・プリオル岬の灯台でようやく目を覚ました頃のこと。


 ケルブアルライ港のすぐ隣にある、北方騎士団の宿舎では、騎士たちが朝礼の真っ最中で、夜勤やきんの者たちと交代するための引き継ぎを行っていた。


 若き小隊長ナジがひきいる隊は、朝からの当番だったため、夜勤の者たちの報告を聞いていた。


 いつもと同じ、異常なしの報告。キッチリと姿勢を正して向かい合う騎士たち。

 その一人が、壁の方を見て、首をかしげた。


「た、隊長……あれは……あれはなんですか?」


 震えた声で、自分の後ろのかべを指差している部下を見て、ナジは反射的に剣に手をかけて振り向いた。


 レンガの壁には、騎士団のはたが掲げられている。

 その旗の中央。本来ならば騎士団の紋章もんしょうがあるはずのところに、黒いうずのようなものが見えている。


 騎士たちが、ざわざわと騒ぎ出す。


「騒ぐな!」


 ナジが一喝いっかつすると、騎士たちは口を閉ざしたが、皆一様に怯えた様子で、壁から遠ざかっていく。


 ナジは剣のつかを握りしめ、一歩近づいた。



 ――お前が、ナジか?



「……!」


 不意に、宿舎の中に女の声が響いた。

 落ち着いた、美しいアルトの響き。


 数名の騎士が「うわあ」と悲鳴を上げた。


「何者だ!」


 ナジが叫ぶと、渦が大きくなり、中心に星空のような模様の穴が空いた。


 そしてその穴の星空が、ゆらりと揺れたかと思うと、星空色のローブを着た女性が現れた。


 ナジと同じ歳くらいに見える、墨黒色すみぐろいろの短髪に、中心が白く光っている灰色の瞳。


 ナジは、思わず叫んだ。


「まさか……! リノス!」


 魔女ではなく、ずっと会いたかった友人の名を、思わず叫んでしまった。



「ふふふ、覚えていたのか。リノスも喜ぶ」


「……何だって?」



 リノスではないのか、と一瞬思ったが、このような人間離れしたわざをやってのけるのは、今この国にはどう考えても一人しかいない。



 十年前から指名手配中の、魔女リノス。


 はるか昔、星守せいしゅラスアーが予言していたとされる、神代かみよの時代以来の、天からの追手。


 必ず天からの追手は再来する。

 人には扱えない魔法を使う者。


 それが、魔女。


 リノスの罪状は、ザビクの玉座への反逆と、殺人。


「何用だ。素直に我々に捕らえられてくれる気になったのか?」


「ふふふ……ナジよ。リノスの友であるお前に、いいことを教えてやろう」


 こちらのげんは、何一つ聞く気はないらしい魔女は、ナジをねっとりとした目で見つめながら、たのしそうに唇の端を上げて話し始めた。



「昨夜、森に侵入しようとしてきた鳥を、そちらに飛ばしておいた」


「鳥……? どういうことだ?」


「お前たちが愚かにも、見せしめのごとく閉じ込めている、リノスの弟の近くに落ちたようだな」


「何を言っている?」




「お前たち騎士団が血眼ちなまこになって探している、私ではない、もうひとりのことよ」



「……!」



 数年前から騎士団が秘密裏ひみつりに追いかけている少年がいる。


 ソル・ワサト。


 眠り巫女であるララの兄にして、神殿に奇襲きしゅうを仕掛けた罪で手配されているのだ。


 国民が敬愛けいあいする眠り巫女の実の兄が、巫女を取り戻すと高らかに宣言して神殿を襲ったなどと、前代未聞ぜんだいみもんの事態だった。


 眠り巫女に選ばれるのは、百年にひとり。

 それはそれは、誇り高いほまれとされているのだ。


 それを良しとせず、手段を選ばず妹を取り戻そうとする兄。

 そのような存在を、国民たちに知られるわけにはいかなかった。


 よって、ソル・ワサトという反逆者は、一般の国民たちには知られていない。

 極秘事項ごくひじこうだ。


 魔女は、このソルのことを知っているというのだろうか?



「あの小鳥は、実に邪魔だ。お前達人間が、捕まえてくれるのならば、私も好都合こうつごうなのだよ」


「どういうことだ!」


「さあ、早く捕まえておくれ。まあ、もう落ちた場所にはおらぬがな。そうさな、そちらにも街くらいあるだろう。そこで待っていれば、現れるだろうさ」


 そう言うと、魔女はもう話は終わったとばかりに、こちらに背を向けた。


「ではな。伝えたぞ」


「待て!」


 ナジが魔女に向かって手をのばす。


「リノス! 待ってくれ!」


 我知らず、そう叫んでいたナジを、魔女は少しだけ振り向いた。


 その瞳が、一瞬だけ、白い光を失い、幼い頃に見たリノスの美しい灰色の瞳に変わった。


「……! リノス!」


 旗にナジの手が触れたその時、黒い渦が一気に中央に収束しゅうそくしてから、黒い霧のようになり、かき消えてしまった。


「リノス!」


 叫ぶナジの声は、もう魔女には届かず、周囲の騎士たちは呆然としていた。

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