嫉妬

 ナジは、エクトに二人で話したいと言い出した。

 エクトは怖くて仕方なかったのだが、騎士の言うことに逆らうことなど許されないし、ナジは他の騎士たちとは少しちがうように見えたので、二人きりでの会話を了承りょうしょうした。


 中年の兵士は、エクトを心配そうに見つめてから、エクトの肩をぽんと叩いて階段を下りていった。


「もし良ければ、上で話さないか?」


 ナジは、兵士が見えなくなると、一度深呼吸をしてからそう提案してきた。


「は、はい」


 エクトが弱々しく答えると、ナジは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう! この上に、一度上ってみたいと思っていたんだ」


 そう言って笑うナジを見ていると、彼女が騎士だということを忘れそうになった。


 それに。


 何となく……似ている。


 こう、中性的な雰囲気とか、凛々りりしい口調とか……年齢も同じくらいだろう。

 姉に重なる。


「それでは行こう」


「あ、はい」


 ぼうっとしていたエクトは、あわてて階段を上って、跳ね上げ扉を上げた。


 屋上に出ると、西の空は美しい茜色あかねいろに染まっていた。上の方から、だんだんとあい色が降りてきている。


 気の早い一番星がふたつ、東の空にきらめいていた。


「わあ、すごいな。思っていたより、ずうっと高い」


 ナジは、まるで少女のようなはしゃいだ声で言うと、手すりまで駆けていった。


「かがり火は暑いが、潮風しおかぜが心地よいな」


「ええ」


 ナジの楽しそうな声に、思わずエクトの頬もゆるんだ。


「ああ、すまない。ついはしゃいでしまった。今見たことは、皆には内緒にしてくれると助かる」


 ナジは照れくさそうに言ったので、エクトは微笑んでうなずいた。


「いろいろわがままを言ってすまなかった。その、見張りもいない、楽にしてくれて構わない」


「は、はあ」


 そうは言われても、エクトにとってはナジも兵士と変わらない――というかそれの上位互換じょういごかんのようなものだ――ので、楽にするなどとても無理な相談だった。


「さて、本題に入ろうか。ここでのんびりしたいのだが、そうもいかない」


 ナジがそう言ってこちらを振り向く。

 彼女の向こうに、いくつかの星がまたたき始めていた。


「私の要件は、君の姉上のことだ」


「はあ」


 姉のことと言われても、今更新たに騎士団に話す情報など持ち合わせていない。

 十年間、自分にもなんの音沙汰おとさたもないのだ。


 ある日突然姉が行方不明になり、騎士が自宅に現れて「お前の家の長女が魔女になった」と聞かされた。

 魔女なんて、神話のなかでしか見たことがない存在だった。


 魔法という、未知の力を使う存在。


 あまりにも現実離れしていて、理解が追いつかない。


 でも、魔法が人智じんちを越えたものだというのなら、例えば、物語のなかで神様や天使がやるように、心に直接語りかけてくるとか、夢に出てきて大事なメッセージを伝えるとか、もしかしたら自分の身にも起こるかもしれない……そんな風に思っていた時期もあった。


 姉には何かいたかたない事情があり、それを自分だけにこっそり教えてくれるかもしれない、と。


 でも、十年だ。何も起こらず、もう十年。

 希望も期待も消えせているのだ。


「姉のことなら、十年前に話したことで、全部です」


 エクトがしょんぼりとそう言うと、ナジはコクリと頷いた。


「ああ、実は、十年前の話をしにきたのではないのだ。実は、今朝、我々北方騎士団の宿舎に、貴殿きでんの姉上から、その、何と言ったら正しいのか悩むのだが……連絡が、あったのだ」


「――え?」


 耳をうたがう言葉だった。

 連絡があった?

 姉から?


「驚かれるのも無理はない。連絡といってもその、手紙だとか、伝令の使いが来たとか、そういうものではなかったのだ」


「どういう、ことですか?」


「今朝何があったか、貴殿に話すまえに、ひとつ、話しておきたいことがある」


 また震え始めた手を、胸の前で組んだエクトを、気まずそうに上目遣いに見るナジト。


 エクトは、頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していくのを自覚した。


「な、なんですか?」


「私は、姉上のことを……リノスのことを知っている」


「え?」



「私は幼い頃、一ヶ月だけ、貴殿の故郷こきょうの街に滞在たいざいしたことがある。一家で巡礼のために聖都を目指したが、聖都まで間もなくというところで私の母が体調を崩してしまってね。君の街の人々に、良くしてもらった。

 その間、私は君の姉上と、親しくなったんだ」



 知らない話だった。

 巡礼者じゅんれいしゃがそれぞれの理由で、街の宿屋や修道院などに滞在することは確かにあった。

 だが、赤毛の少女が一ヶ月も滞在していて、さらに姉と親しくなっていたなどという記憶は、ひとかけらもエクトの頭のなかに残っていない。



「貴殿は、まだよちよち歩きだった。覚えていないのも当たり前だ」



 エクトの心を読んだかのように、ナジはそう言った。



「だが、それだけなんだ。その後も、ずっと手紙のやり取りをしていたとか、そういうわけではない。リノスにとっての私は、何となく覚えている……くらいの相手なのだろうと思う。だから、今朝のことは正直驚いた」



 エクトは、言葉が見つからなかった。

 相手を、傷つけない言葉が。

 口を開いたら、何だか言ってはいけないような言葉ばかりを言ってしまいそうだった。


 ――どうして、弟の自分ではなく、そんな記憶の隅にあったかもしれないくらいの、存在のあなたのところに、姉さんがメッセージを送るんだ!


「ねえさん……!」


 エクトの口からこぼれたのは、姉を想って呼びかける、かすれた声だけだった。

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