約束とお別れ

 エクトがようやく、生活空間を確保かくほできるまで片付けた頃には、太陽がすっかり南にのぼりきって、皆が昼の休憩きゅうけいをとっている時間になっていた。


「ふう、さすがにお腹が空いたな……ソルたち、大丈夫かな?」


 独り言をつぶやいて、階段を上がって跳ね上げ扉から顔をだす。


 外は相変わらずよく晴れていて、空気は真夏の真昼らしく、むせかえるほど暑かった。


 そうでなくてもこの最上階では、かがり火がごうごうと燃えているのだ。

 階段を上ってきたこともあり、エクトはひたいに浮かんだ汗を、シャツのすそを引っ張り上げてぬぐった。


「あっつ」


 どんなに暑くても、かがり火はやせないのだ。


 海の方を見ると、気持ちのいい風が吹いてくる。

 火は暑いけれど、海からずうっと高いがけのてっぺんに建つ、五階建ごかいだての最上階であるここは、風がけ抜ける場所でもあるのだ。


「気持ちいいな……きれいな空だ」


 描きたいけれど……手持ちの青い絵の具は全部、床にばらまかれてしまった。


 悪あがきをしてひろい集めてみたけれど、砂やホコリが混じってしまった。使えないことはないかもしれないが、あれを使って絵を描いたら、筆がだめになってしまうだろう。


 絵筆えふでこそ、だめになってしまったら当分買いえられそうにない。


 せっかく湧いた創作意欲そうさくいよくも、夜通しの作業でまった疲労ひろうと、道具がないという現実には勝てはしない。

 ハアと、ため息をついたときだった。


「エクト」


「うわああああああっ」


 ぼんやりと海を見ていたエクトの視界を、突然真っ黒な鳥がふさいだ。


さわぐなおろか者。我だ。ナイルスだ」


「び、びっくりした……!」


 カラスほどの大きさに戻っていたナイルスは、ヨタヨタと上昇して、あしつかんでいた何かをポイッと投げ込んできた。

 ナイルスが持ってきたのは、食料品が入った袋だった。


「だ、大丈夫でしたか? ソルは……」


「大丈夫ではない。ソルは崖の下におるわ。全く、我だけに肉体労働にくたいろうどうをおしつけおって」

「にくたいろうどう?」

「兵士どもがいる見張り小屋とやぐらの死角を狙って、我がこの荷物を持って、まっすぐ、真上に飛んできたのだ」


「わわ、お手数おかけしました……!」


 エクトはペコペコと頭を下げた。

 ナイルスは心なしか満足そうに、フンと鼻で笑った。


「すまんが、中身を取り出して、袋だけ返してもらえるか?」


「ああ、はい! あの、ソルは?」


 エクトはわたわたと袋の中身を取り出した。

 果物に野菜、エクトの顔よりも大きいパンが一つ。そして、絵の具の小瓶が三つ転がってきた。


「……これ……!」


 エクトは驚いて、絵の具の小瓶を見つめた。

 間違いなく、エクトの絵を買い取ってくれる画廊がろうで売っている絵の具だった。


「どうして」


「ソルから伝言だ。一緒に食事できなくてすまないとな」

「え?」

「港街で騎士団に見つかってしまったのだ。ソルがここにいては、またお前に迷惑をかけるであろう」


「そ、そんなこと……」


「その絵の具は、お前にとって大切なものだろうと言っていた。どうしてもお前に、それを返さねばならないんだそうだ」

「ソ、ソル、ここに来れないんですか?」


「ああ。残念だが、一刻も早くマルフィーク大森林へ向かわねばならない」


「マルフィーク大森林……?」


 エクトの心臓が、ね上がった。


「どうして?」


「それは、我の一存いちぞんでお主に話すことはできない」


 ナイルスはそう言うと、バサリと羽ばたいて空へと飛び立つ。


「待って! 森は、僕にとっても無関係じゃないんです……あそこには……」


「すまない。時間がない。エクト、ソルからもう一つ伝言だ」


 エクトは、手すりに両手をついて上半身を乗り出した。


「また、必ず来るから。その時は絶対に一緒にごはんを食べよう。ここで待っていてほしい」


 エクトの両目が見開かれる。

 潮風しおかぜが目にしみた。




「僕は……」



 エクトが目をこすってもう一度開いたとき、ナイルスはもう見えなかった。


 浜辺に目をやったが、ソルもナイルスも見つけられない。



「僕は……ここで生きていても……いいのかな……」



 弱々しい独り言は、誰にも届くことはなかった。

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