やさしさ

「アンタ、エクトっていうんだろ? ナイルスに聞いたよ。聞いてると思うけど、俺はソル。昨夜はいろいろあったって聞いた。ありがとうな、すごく助かった」


 ソルは一気にそう言うと、エクトに向かって手を差し出した。


「ううん。ベッド、使わせてあげられなくてごめんね」


 エクトはほほえみ返して、差し出された手をにぎった。

 久しぶりにれた他人ひとの肌は、とてもあたたかかった。


「しかし、ひどいことするヤツもいるもんだ。腹たってきた」

「ハハ、仕方ないよ」

「なんでだよ? 仕方なくないだろ?」


 ソルは床にしゃがみこんで、作業を手伝い始めながら、口をとがらせた。


「仕方ないんだよ……僕は」


 エクトはそこて言いよどんだ。

 どうせすぐ知れることになるだろうに、言葉にしようとすると、恐怖だとか不安だとか、そういう感情がわき上がってきてしまう。


「僕は……」


 ぐうううーーーー。

 エクトの葛藤かっとうをぶち壊す、何とも気の抜けた音が室内にひびいた。


 ソルの腹からの、空腹のうったえだった。


「ああ……アハハ……悪い、気にしないでくれ」


 ソルは気まずそうに笑ったが、エクトは、せっかく目をさましてすぐに、自分の様子を見に来てくれたソルに、水の一杯いっぱいも出していないことにハッとした。


「ご、ごめん、僕ったら、お水のひとつも出さずに……! 待ってて。表の井戸から、とりあえず水を……」


 言いながら一番下にある食料庫兼しょくりょうこけんキッチンも見事に荒らされて、水を入れるカップを取りに行くことすらままならない状態であることを思い出して、エクトのまゆはへの字になった。


 ちなみに、井戸にソルを連れて行くこともできない。

 なんせ見張りの兵士が駐在所ちゅうざいしょからずっとこちらを見ているのだから。


 エクトの様子をさっしてソルが、下の階の様子を見に階段を降りる。

 そして、あまりにひどい有様ありさまを見て、踊り場であぜんとした。


「こりゃ、本当にひどいな。何だってこんなに……。ナイルスが言ってたけど、エクト、兵士に乱暴らんぼうされたんだろ?」

「う……うん」


 エクトは、今度こそしっかり「仕方ない」わけを話そうと、ソルをの目を見た。

 しかしやはり、すぐに目をそらしてしまい、床を見つめたまま、弱々しい声でつぶやいた。



「僕の姉さん……罪人ざいにんなんだ」



「え?」


「それも、十年間逃亡中で……僕は、姉さんが僕のところに来るかもしれないからって、監視かんしされて暮らしてるんだ」


 ソルは一瞬、おどろいたようだったが、すぐにまた口をとがらせた。


「だからって、エクトがこんな目にあうのはおかしいだろ」


「あはは……ソル、優しいんだね」


 エクトは力なく、笑うことしかできなかった。


 ソルも、もしその「姉」が「魔女」だと知ったら、きっと他の人達のように自分を嫌悪する。こうやってかばってくれるのも、優しい言葉をくれるのも「魔女の弟」だと知らないから、それだけだ。


 エクトは、心の底で呪うようにそう言い続けるおのれの声に、うすら寒い気持ちになった。


「でも、ごめんね。これじゃ、ソルとナイルスに、何も出せやしない。早く片付けなくちゃ」


「いいよ! そうだ! 俺が街に行って何か買ってくる!」


「へ?」


 ソルの提案ていあんに、エクトは驚いた。

 この少年は何を言っているのだろう。

 ああ、外に見張りがいると知らないのか。

 そんなことを思いながらソルの目を見ると、明るい笑顔も、くもりひとつ知らないようなその瞳も、キラキラに輝いて、やけにまぶしく見えた。


「ナイルスが夜明よあまえ偵察ていさつして来てくれたんだ。ふもとには小さな村があって、逆の方向にしばらく飛んだら、村とは段違だんちがいの大きな街があるって」


「ケルブアルライこうだ。あそこは確かに活気ある港街みなとまちだよ。商人も旅人もたくさんいて、いろんなものが売ってる市場もある」


「ケルブアルライ港だな! よし!」


 言うが早いか、ソルは階段をいきおいよくけ上がりだした。


「待って! この灯台は周囲を柵で囲まれてて、見張りの駐在所もある。それに、ふもとの村にも見張りのやぐらがあって、とにかく、ここは兵士たちにずっと監視されてるんだ。だから……」


「大丈夫、大丈夫!」


「待って、ソル!」


 ソルはまるで羽根でも生えているのかと思うくらい身軽で、ポンポンと階段を駆け上がっていく。



 ――ああ。縛られている僕とは大違いだ。



 ふとエクトはそんなことを思った。


 エクトは睡眠不足すいみんぶそくもあって、すぐに息が上がってしまう。


 楽しそうに走っていくソルの背中は、屋上の跳ね上げ扉が開け放しになっているらしく、上から照らされて、ひどく眩しかった。

 どんどん白んでいくその後姿が、一瞬、本当に一瞬、幼い頃の姉の背中と重なった。


 エクトはごしごしと目をこすった。


 ごみが入っていたのか、涙がにじんでいた。


 ソルは、跳ね上げ扉から頭を出して、ナイルスに何やら声をかけているようだった。

 立ち上がると見張りから見えるかもしれないことを、しっかり理解してくれているのかもしれない。


「ナイルス。港街に行こうぜ」

「ふむ、一宿いっしゅく恩義おんぎは返さねばなるまい」


 そんな声が聞こえた直後。


 ピューという、笛のような、鳥の鳴き声のような音がした。


 ようやく追いついたエクトが、跳ね上げ扉から頭を出すと、ソルが見張りの兵士に見つからないよう手すりの陰にかがんでいるのが見えた。


 そのすぐ頭上の手すりにとまって、上空を見上げているナイルスは、昨夜最後に見たときと同じ大きさで、あれならば見張りからは、そこらじゅうにいるカラスが一羽、たまたまとまっているようにしか見えないだろうと、エクトは安堵あんどした。


 エクトは、ナイルスが一人(いや一羽か)で港街に行くのだろうかと思った。それなら目立たないだろうけれど、荷物は運べない。

 どうする気だろう……と思った直後、突然、の光がかげった。


 エクトは目の前に広がる空を見て、目を疑った。


 すさまじい羽ばたきの音とともに、空一面をおおかくさんとするほどの小鳥の群れが、どこからともなく飛んできたのだ。


 それらはふたつの群れに別れて、ひとつは柵の入り口の駐在所へ。もうひとつの群れは、村の見張りのやぐらの方へと飛んでいく。


 そっと柱の陰から駐在所の様子をうかがうと、兵士たちの困惑こんわくする声が聞こえてきたが、姿は建物にむらがる鳥たちで見えなかった。

 やぐらの上にも、鳥たちがたくさん群がっている。



「じゃ、行ってくる!」


「え?」


 ソルの明るい声に、エクトが振り向くと、ソルはいつのまにかさっきまでの倍ほどに大きくなったナイルスのあしを掴んで、手すりから飛び降りていた。


「えっ……」


 思わず息をのんで、ソルが飛び降りた手すりへと駆け寄った。

 下を覗き込むと、脚からソルをぶら下げたナイルスが、崖下の砂浜の方へと滑空かっくうして行くのが見えた。


 そして遠く見える浜辺にあっという間に着地したようだった。

 もう小さくてよく見えないが、どうやら無事に脱出したようだ。


 ソルたちは迷うことなく、兵士に会わずにすむ最短ルートで港街へ向かっていくようだった。


 エクトはほっと胸を撫で下ろし、ぺたりとその場に座り込んだ。



「僕も……片付けをすすめなくちゃな……」


 ひとつため息をついて、エクトは立ち上がった。

 まずは井戸に行って、水でも飲もうと思いながら、階段を下りていく。


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