父親

「どうだった。アイツの様子は」

 その日の夜、草壁から綾野を心配して電話があった。

「大丈夫だったよ。ちゃんと遺族にお悔み言って、頭を下げてた」

「そうか」と安堵したような声が返ってくる。

「直から聞いてた通り、素直でわかりやすい可愛いヤツだね」

「可愛いって… お前、手、出すなよ。出したら承知しねーから」

 思わず吹き出した。


「直、侮辱罪だな。ゲイだからって男なら誰でもいいわけじゃない」

 草壁が派手な笑い声を上げ、早翔が思わず耳から受話器を離す。

「侮辱罪って、向井に未練残してんじゃねーよ」

「ないわ! やめろ!」

 速攻で吐き捨て、笑い飛ばす。

 二人で笑い合った後、早翔は、ふうと一呼吸置いて「頼みがある」と切り出した。


「今度、蘭子さんに会ったら、ナナちゃんたちに会いに行っていいか聞いてくれないかな」

 しばらく沈黙したあと、草壁がふふんと笑う。

「やっとかよ。蘭子はお前が会いたい気持ちになるまで待つって言うし、お前は蘭子が来いって言うまで行かないって言うし、俺、イライラして、そのうちお前の首に縄つけてでも連れていこうと思ってたところだよ」

 はぁとため息をついた後、「よかったぁ」と小さな呟きが聞こえる。


 会いに行くようプレッシャーを与えることもなく、勝手に写真や動画を撮って、さりげなく早翔に見せて、草壁自身が過ごした楽しい時間の中に、二人の様子を織り交ぜて話す。

 それが草壁なりの心遣いだと十分に感じていた。

 早翔は、もし草壁が居なかったら、どうなっていただろうかと考える。


 生涯、子供の父親になることなど考えてもいなかった。突然、子供ができたと言われただけで、拘束されたような感覚に陥り、その子らに自分の名前の文字を付けられたと知って、真綿で首を絞められるような息苦しさを覚えた。

 草壁が居なかったら、自分から会いに行こうなどとは考えなかっただろう。


 自分からは望みもしなかった存在である。

 外的刺激で排泄しただけの行為で、そこには何の感情も介在しない。そんな状況でできた存在を、どのように受け入れたらよいのか見当も付かない。それ以前に、受け入れること自体、心が拒否していた。


 親と子の関係は、たとえ血の繋がりがあり、共に生活していたとしても、薄氷が割れるように、案外と脆い関係だということは経験上、知っている。

 血がつながっているという事実だけの関係に、深い意味があるとも思えない。それ以上に、ゲイを自認する自分が、女を孕ませたことは生命への冒瀆であり、罪悪以外の何ものでもないような気がして、ただ呆然と思考停止に陥る。

 もしかしたら、逃れることばかり考え、この地を離れ、行方をくらませたかも知れない。


 草壁が、早翔と子供たちを必死に繋ぎ止めておこうとする真意はわからなかったが、素直に「ありがとう」という言葉が出た。

「直が居なかったら、俺、逃げ出して、一生背を向けて生きていたかも知れない。本当にありがとう」

 しばらく沈黙が続いた。

「お前は子供に背を向け生きていけるような、そんなヤツじゃないよ」

 いつになく優しい声のトーンが、早翔の心を揺さぶり、もう一度「ありがとう」と繰り返す声が震えた。


「愛された記憶って大事だからな。いつか、蘭子が再婚でもして新しい親父ができて、そいつとうまくいかないことがあっても、本当の父親との少しの思い出があれば結構、頑張って生きていけるはずだから」

 早翔の口から、ああと声が漏れた。

 それは草壁自身のことだった。


 わざわざ親元から離れ、寮のある高校に入学するには、それぞれの理由がある。

 寮生活を送るうちに、気が許せる友達ができると、ぽつんぽつんとそのいきさつを語り合う。

「俺がここを受験するって言ったら、母親まで喜んでたんだよなあ」

 寂しさを滲ませた笑顔で草壁が呟いた。

 高校に入学して最初の夏休み、家には帰りたくないという話から、その告白が始まった。


 草壁の父親は、大酒飲みで、酔っぱらってはトラブルばかり起こしていた。そんな夫に愛想を尽かし、母親は5歳の草壁を連れて離婚する。

「お袋にとってはひでーヤツだったんだろうなあ、悪口ばっかり聞かされたわ。だけど、どう思い出しても、親父との楽しい思い出しかないんだよ。悪い思い出なんて一つもなかった。お袋の機嫌が悪くなるから言えなかったけど、俺は親父が大好きだった。酔っぱらって顔をベロベロ舐められてイヤだったけど、それだけ愛されてたってことだろ」

 話しながら笑っていたが、切ない瞳で視線を逸らし、涙をこらえているようにも見えた。


 3年ほど経ち、草壁の母親は再婚する。

 義理の父親は、草壁が逆らうようなことを言うと、すぐに手が飛んでくるような男だった。

 ほどなく弟と妹が生まれる。そして、二人に向けられる父親の視線が、あまりに自分と違うことに、草壁は絶望した。


「ほんのちょっと弟をからかったら、泣かれてさ。玄関に連れて行かれて革靴で殴られた。すげー痛かったけど、あの男は靴が柔らかいからこたえてないと思ったんだろう。下駄を取り出して、思いっきり殴られて、頭が真っ白になったわ。外に放り出された時は、ほっとしたよ」

 ことさら明るく話す草壁の笑顔が痛々しかった。


「あいつに殴られ続けて、俺の頭は相当悪くなったわ。だから、成績はお前には勝てない」

 笑い話に持っていこうとする草壁に、早翔が「ごめん… 全然笑えない」と言って、目を潤ませた。

「何、泣いてんだよ…」と努めて明るく言い、早翔の肩に手を回す。

「でも、代わりに泣いてくれる友達っていいよな… ありがとな」

 15歳の夏休み、閉寮期間の5日間を帰らなくて済むように、二人で住み込みのバイトを探した。年齢をごまかした履歴書を書いても、罪悪感もなかった。


「もし、ダメなら公園で野宿な」

 そう言って連れて行かれた公園のドーム型の遊具には、雨風がしのげるようなトンネルがあった。

「いいね、ここ。寝心地よさそう」

 早翔が身体を丸めて中に入ると、草壁も入ってくる。

「よし、バイトがダメなら最悪ここな」

 そう言って笑い合った。


 ふと、草壁の顔から笑みが消える。

「どんな貧乏でもいいから、あんな男と再婚して欲しくなかったわ…」

 ぽつんと呟く草壁は、遠い昔の父親との記憶を思い浮かべているような、切ない瞳で宙を見ていた。

「お父さん、今はどこにいるの?」

 さあね、と首を小さく横に振る。

「死んだら、どっかから知らせが来るんじゃねーの…」

 少し間を置いて、草壁の口が動く。

「血がつながってるのに、永遠に会えないって残酷だよな」

 暗がりのトンネルの中で、草壁が泣いているような気がして、早翔は横を向けず、ただ押し黙っていた。


「愛された記憶って大事だからな」

 それはまさに、草壁を支えて来た記憶だった。

 草壁が、早翔の二人の子供を見て、幼かった自分と重ね、どうしても早翔との絆を残しておきたいと考えたのだろう。他人事として放っておけなかったのは、早翔の子供のためであり、早翔が後悔しないため、そして草壁自身が後悔しないためでもあった。


「俺、直に助けられてばかりだ。俺の親友でいてくれてありがとう」

 震える声を必死で抑えて、努めて平静を装い言葉を出す。

「なんだよ、水臭い。俺がここまで生きて来られたのは七瀬のお蔭だ。七瀬がいなかったら、とうに高校も中退してグレてたよ。親父に復讐してたかもしれないし」

「直は絶対そんなことしない。そんなヤツじゃないよ」

 言った後に、ふと気付いて、「親父…」と呟く。


 草壁の口から、義理の父親を「親父」と呼んでいるのを聞くのは初めてだった。

 何年か前に、父親が倒れた時もそうだった。

「あの男が脳梗塞で倒れやがった。ったく、面倒くせーったらない。くたばるならキレイにくたばりやがれ」

 本気とも冗談ともつかない言い方で、未だ消えない確執があったのだろうが、生来の面倒見の良さから放って置くこともできずに、資格取得を送らせてまで世話をしていた。


 早翔の呟きの意味を理解し、草壁はふっと笑いを漏らす。

「仕方ない。高校も大学も出してもらったし… 今じゃ、『何でもお兄ちゃんの言うことを聞け』ってのが口癖になってるわ」

 そう言って、無理に声を出して笑う。


 ふいに笑い声が止まると、静かに続ける。

「本当に、お前が居なかったら、俺は家族から途中離脱してた… ありがとうは俺が言うべき言葉だ。だから俺… お前と子供たちのことも、これで終わりにしたくないんだ」

 穏やかな口調から、一転、フンと鼻で笑う。

「どうせ皆、死ぬんだぜ。死んだ時に終わりにすればいいじゃないか。死ぬまではどんな形でも、例え蜘蛛の糸みたいなもんでも繋がっとけばいい」

 そう言って、弱い笑い声を漏らす。


「ありがとな、七瀬。ナナ達に会ってくれてホントにありがとう」

 早翔の耳に届く声が震えていた。

「なんで直が泣いてるの。ありがとうって俺のセリフだよ」

「誰が言ったっていいだろ。俺がお前にありがとうって言いたいんだから。それに、お前が会いに行ってくれるってところから、俺、もうずっと泣いてるぜ」

 隠すことはあっても、泣いてると自分から口にするような性格ではない。その時々の感情の昂ぶりに抵抗することなく、素直に目を潤ませる早翔に合わせたのだろう。

 早翔のいたずら心がくすぐられ、ふふっと笑みがこぼれた。


「残念だよ。直がゲイじゃなくて」

「お前、俺が珍しく良い話してるのに、水を差すな。俺はホモにはならねえ。男同士で乳繰り合うとか、金積まれても無理!」

 わざと、ぞんざいな言葉で吐き捨てるように言いながら、悪乗りしてくる。

 早翔は「言い方…」と冷めた声で責める。「下品なヤツ… 全くガッカリだよ」と、おどけた調子で返す。

「おう! 勝手にガッカリしやがれ! それでもお前は俺の一番の親友には違いねーからな!」

 その声の張りに、早翔が思わず受話器を離した。

「鼓膜、破れるかと思った」

 小声で呟くと、草壁が明るく笑い飛ばした。



 その日、早翔は車を出した。

「ちょっと寄るとこあるけどいい?」

 早翔の問いに、助手席に座っている草壁が「俺もある」と返す。「今日は運転しないから酒を買いたい」

 早翔が立ち寄った先は、個人宅の玄関に、小さな丸い木の看板がぶら下がり、丸い文字で「手作り屋」とあった。

「手作りの店? 二人へのプレゼントか」

 早翔がふっと笑って頷いた。


 呼び鈴を押すと、すぐに中から女性が出て来た。化粧気のない素朴な雰囲気で、上から下までメルヘンのような、パステル調の可愛い手作りの服に身を包んでいる。

「商品、ご確認いただけますか」

 そう言って、差し出されたのはピンクのウサギのぬいぐるみだった。

 3個あり、可愛いエプロンドレスを身に着け、それぞれの胸に「ななこ」「ななと」「らんこ」と丸い文字で刺繍がされている。

「蘭子のもある」と、草壁が吹き出す。

「私にはないの?って絶対文句言うからね。予防線張った」

「付き合い長いだけあるな。よくわかってる」


 手作り屋を後にして、近くの百貨店の地下で酒と軽食を調達する。

「買う酒は決まってる。蘭子が飲みたいって言ってたやつ」

 そう言って草壁が手にしたシャンパンは、見覚えのあるものだった。

「懐かしいなあ。蘭子さんに飲まされてぶっ倒れた時のヤツだ」

「ああ、それか」と草壁が笑う。「3万か。まあまあの値段だな」

「店だとその10倍だから」

「すげーぼったくりの世界だよな」

「ぼったくりではない。様々な付加価値が付いての価格だ。俺がぶっ倒れた労働を込みにしたら安いくらいだ」

「違いないわ」と草壁が笑い声を上げた。


「ちょっと早いし、お茶でもしてかないか」

 早翔が誘うと、草壁の目が泳ぎ、ええ…とうなって少しの迷いを見せる。

「時間通りに行くんだから大丈夫。蘭子さんに確認なんかしたら、お茶なんかしてないですぐ来いって怒鳴られるし、しれっと寄ってくのがいいのさ。俺も心を落ち着かせたいし」

 草壁の躊躇いを推し量り、早翔が涼しい顔で言うと、「かなわんな」と苦笑が返ってくる。


「緊張するな」

 早翔が紅茶を一口すすって、ぼそっと呟く。

「涼しい顔して、全然、そんな風に見えないぞ」

 草壁がニヤけた笑いを浮かべる。

「酒、飲んでないの?」

 早翔が、草壁が買ったシャンパンが入った紙袋を指さす。

「いつもは車だから」

「蘭子さんも飲まないしね」


「いや、ちょびちょびやってるんじゃねーの。たまには一緒に飲めって誘われたことあるけど、丁重にお断りした」

「車だから?」と訊くと、うんと頷く。

「泊まらせてもらえばいいじゃない」

 軽く言う早翔に、草壁が目を丸くする。

「お前、簡単に言うな。お前が言ってたんだぞ。泊まると、性交渉があると推認されるって。その場合、反証は難しいって」

 それは、何年も前に草壁に雑談の中で話した内容で、向井の受け売りだった。


「そんな昔にした話、よく覚えてるなあ。なんか別の顔も思い出すし…」と苦笑する。

「大体誰に対して、何のために反証が必要なんだよ。仮に何かあっても何の問題もないだろう」

 破顔する早翔に、草壁が眉間に皺を寄せる。

「やめろ。ババアの趣味はない」

 言い終わると同時に、草壁の携帯電話の着信音が鳴った。


 慌てて出ると、口を半開きにして、げんなりした顔で早翔に視線を送る。

「噂をすれば影だ」

 早翔がやれやれと頬をゆがませながら、草壁から携帯を受け取る。

「…時間つぶしてないで、さっさと来なさいよ! こっちはずっと待ってるんだから…」

 耳から少し離していてもわかるくらいの声である。

「久しぶり、蘭子さん」

 早翔が声を掛けると、ピタリと蘭子の声が止まった。


「今日はありがとう。長い間、待たせてごめんね」

 ふうとため息をついた後に、「本当よ…」と小さな呟きが返ってくる。

「今日は、すごく楽しみだけど、俺、かなり緊張してるんだ。心を落ち着けて、安全運転で行くから、もう少し待っててね」

 しばらく沈黙した後、ふふっと笑う息遣いが聞こえる。

「なるべく早くね。もう、二人とも待ちくたびれてるんだからね。早くね」

 穏やかに笑って電話が切れた。


「なんだよ、この扱いの違いはよぉ」

 草壁が相変わらずうんざりした顔ではぁと息を吐く。

「二人とも待ちくたびれてるんだってさ」

 早翔が苦笑しながら立ち上がる。

「そんなわけなかろ。待ちくたびれてるのはババアだろ。喋れないうちからダシに使われて、先が思いやられるわ」

 言いながら草壁も立ち上がる。

「直、ババアは禁止だからな。クソガキって返されるぞ」

「いや、この歳になるとクソガキって言われるのも悪くない。まだまだ若いって勘違いできるし」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。



 終わり


 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 心から感謝いたします。

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早翔-HAYATO- ひろり @Hirori-T

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