表裏

 その夜のことだった。

 早翔が仕事を終えて、帰ろうとしているところに草壁から電話があった。

「明日、車、出せないか?」

 いきなりの言葉に戸惑いながらも了承すると、懐かしい名前が返って来た。

「サネカズさんから車出せないかって言われて」

 サネカズとは高校時代の寮母、園田実和そのだみわのあだ名である。


 その訳を聞いているうちに、早翔の顔が強張り全身が硬直して行った。

 草壁が面倒を見ていた元勤務先の社長の息子、綾野健あやのつよしが、亡くなった後輩、柚木蒼葉ゆずきあおばのお悔みに行くという。

 蒼葉は、自分がゲイであることを告白し、暴露され、親からも理解されず、悩んだ末に衝動的に自殺した。

 蒼葉を受け入れなかった両親に、その自殺の原因があると感じている綾野が、怒りのあまり暴れはしないかと実和が心配して、草壁に電話してきたという。


「すまん、面倒なこと頼んで」

「いや、いいよ。俺が行くべきだと思う」

「アイツも素直ないいヤツなんだ。暴力を振るうような乱暴な性格ではないから、心配はいらないと思う」

 うん、と短く返し、少し沈黙する。

「直… 俺は運がいい。お前という親友がいて。直がいなかったら、俺だってどうなってたかわからない… ありがとう」

 話しているうちに、胸の深奥から熱いものがこみ上げ言葉が震える。


「ありがとうは俺のほうだよ。お前がいなかったら、何も考えずに楽な道ばかり行って、いい加減な生活してたと思う…」

 草壁が力なく笑い一呼吸置く。

「七瀬… 死なないでいてくれて、生きていてくれてありがとう」

 その語尾が震えていた。

 早翔の口から思わず言葉にならない声が漏れた。



 電話を切った後、早翔はあの日を思い出していた。

 母、冴子に自分がゲイだと告白したあの日、早翔は中学生だった。

 幼い子供は、親が自分を愛し守ってくれる存在だと信じて疑わない。特に母親の腕で、その胸に抱きしめられる時、どれほどの愛おしさで大事にされているか、かつてこの人の身体の一部だったことを無意識のうちに感じ、受け止める。


 早翔もそうだった。そして、自分の性的指向が周りの友達と違うと自覚した時、冴子がそれを好まないように感じて、無意識のうちに口をつぐんだ。

 それは冴子の腕の中で、思いついたことを何でも、気兼ねなくお喋りできるはずの幼い早翔に、辛い苦しい感情をもたらせる。


 無心でお喋りし、元気いっぱい走り回って笑っていても、時折、胸の奥に渦巻くもやもやとしたものに耐え切れなくなる。意味もなくオモチャを投げつけたり、理由もわからず泣きながら地団太を踏み、寝転がって暴れる。

「周りのお友達はみんな、大人しく良い子にしてるのに、どうしてナナくんはママを困らせるの…」

 そんな呟きとともに、冴子に困惑顔で覗かれると、「僕は、とても悪い子なんだ」と自覚し、泣きじゃくる。


「ナナくんはお兄ちゃんなんだから、しっかりしないとダメでしょ」

 そんな風に諭され、自分自身でも同じように言い聞かせながら、感情をコントロールするすべを学んだ。

 小学生になると、仲が良い友人もできた。だが、自分には秘密がある。四六時中、共に過ごしながら、秘密にしなければならない、どこかで告白したい衝動にかられる、そんな狭間で揺れ動いていた。


 自分の感情が上手くコントロールできるようになった頃、冴子が自宅に招いた友人達との話し声を耳にする。

 父親と母親の子供への愛情の深さについて、語り合っていた。どうやら、冴子の友人の一人が、子供への関心の薄い夫の愚痴を吐いているようだった。

 母親達の会話に混じって、冴子の声が聞こえる。


「母親にとって子供は分身だから、命に代えても守りたいと思うのが本能よね」

「世界中を敵に回したって、我が子を守りたいのが母親よ」

 それは早翔の耳に残り、頭の中で何度も再生され希望になって行った。

 もしかしたら、お母さんならわかってくれるかも知れない。

 そう思った。それ以上に、わかって欲しいと心から願った。


 そんな思いが膨れ上がりどうしようもなくなって、早翔は冴子に告白した。

 しかし、それが間違った選択だったことを、すぐに思い知らされる。

 冴子の目は理解できない異物を見る目に変わっていった。

 そして、優等生だった自慢の我が子が欠陥品であったことを嘆き、まるで性的指向が病気であるかのように、治すよう繰り返す。


 異常者だった息子に落胆し、自分の不幸を嘆き、せめて他の子供達への悪影響を防がなければと、兄妹で共に過ごす時間を奪って行った。

 早翔は自分が家族から排除されるべき存在だったことに愕然として、志望校を地元から離れた寮のある私立校にした。

 それを冴子に伝えた時の、心から安堵した表情が今でも忘れられない。


 母がその命に代えても子供を守りたいと思っていたのはいつまでだったのだろう、と早翔は思う。

 すでに、その一部であったことなど忘れてしまうほど、今は遠い存在でしかない。とうの昔にわかり合うことも諦め、永遠の平行線を交わることなく歩く。親離れが少し早かっただけのことだと諦めながら。



 もし、父が亡くなった時、自分が地元の高校に通っていたらと考える。そうすれば、冴子が取ったバカな選択も阻止できたかもしれない。借金に追われることもなく、もしかしたら普通に大学に進学できたかもしれない。

 それなら、一番の過ちは、冴子にゲイであることを告白してしまったあの時だ。すべての状況が、自分が蒔いた種から生じているのかも知れないと思うようになった。


 これは罰だ。あの時、母に告白した自分への天罰が下ってるんだ。同性愛者である自分への天罰が…

 その考えにとらわれ絶望もしたが、自分の境遇にはっきりとした原因と結果があることに、少しばかり気が楽にもなった。

 そんな思いも、たくさんの仲間と出会い、たとえ家族の理解が得られなくても、自分は一人ではないと思えるようになり、解氷するように小さくなってはいったが、完全に消えたわけでもなく、未だ心の奥深くにひっそり小さな傷跡を残している。


 もし、蒼葉が同じように自分の周りで起きていることに対して自分を責め、自身の存在を天罰だと感じ絶望し自殺したとしたら…

 早翔の胸の深奥に鈍痛が走る。

 蒼葉と自分には何の違いもない。

 紙一重で自分は生き残り、蒼葉は死んだ。


「七瀬… 死なないでいてくれて、生きていてくれてありがとう」

 不意に草壁の言葉がよみがえる。

 人は弱い生きものだ。ふとした瞬間襲う絶望に耐え切れず、暗く淀んだ死の淵が、かつて守られていた母親の子宮のように、極上の安寧を与えてくれると信じてしまう。

 そんなまやかしを消し去るのは、誰かのたった一言なのかもしれない。


 自分には草壁がいたが、蒼葉にはいなかった。あるいは、蒼葉のことを心から思う誰かがいたのに、すでに蒼葉の心には届かなくなるほど、孤独と絶望に囚われ抜け出せなくなっていたのか。

「死なないで欲しかった。生きていてほしかったよ… 君は生きるべきだった… 君に会いたかったよ…」

 呟く早翔の唇が震えていた。



 翌日、母校の寮に着くと、実和が昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。

「全くアンタは、10年も顔見せないで、居酒屋開店したハガキだけポンと寄こして、薄情ったらないわ」

 そのぞんざいな口調も健在だ。

「居酒屋じゃないよ。バーだから。間違えないでよ」

「似たようなもんでしょ」

 着ている喪服には似合わない、カラカラと明るい声で笑う。


 寮の玄関に目をやると、不安そうな目で懐かしい制服に身を包む少年がいた。

「蒼葉君の同級生。笹原亮一ささはらりょういち君よ」

 実和が「亮一、行くよ」と手招きする。

 緊張からかぎこちない足取りで向かってきた笹原は、長身で整った顔立ちのせいか、大人びた雰囲気を漂わせていたが、二重の大きな目の中にはおどおどとした不安とあどけなさを残し、漆黒の瞳は揺れる度に、涙ぐんでいるのかと思わせるほどきらめいていた。

 友人が亡くなったばかりなのだから普段の様子とは違うだろうが、どこか人を寄せ付けない空気をまとっていた。


 途中、駅で待ち合わせをした綾野健は、笹原とは対照的に、その内心が隠されることなく外に出ていた。鋭い目つきで無言のまま車に乗り込むと、全身から怒りのオーラを放っているが、草壁からその人となりをよく耳にしていた通りの、単純で素直なわかりやすさである。


 しかし、その綾野の怒りも、蒼葉を亡くした両親の深い嘆きようを目にした途端に消え去り、蒼葉の遺骨の前で子供のように泣きじゃくる。

 早翔は、はじけるような笑顔の遺影に昨夜と同じ言葉をかけた。

「生きていてほしかった… 君に会いたかったよ… どうか安らかに」


 ふと、隣に座る笹原から小さな呟きが聞こえる。

「ごめん… 蒼葉、ごめん… ごめん…」

 言葉にならない泣き声に混じって、かすかに聞き取れたのは蒼葉に対する心からの謝罪だった。

 早翔が思わず笹原の背に手を回して、「ああ、そうだったのか」と口の中で呟く。


 笹原がまとう人を寄せ付けない空気には覚えがあった。

 決して気を許さない、自分のテリトリーには立ち入らせない空気。秘密を胸に抱き、嘘で塗り固めて生きて来たものだけが持つもの。

 かつて早翔が、自在に自身を装えるようになる以前に、まとっていたものと同じだった。

 早翔は、回した手で笹原の肩を掴んで何度か力を入れた。

 もうしばらくの辛抱だ。頑張れ。

 そう心の中で呟く。



 蒼葉の家を後にし、実和達を寮まで送って行くと、そこに笹原の家族が待っていた。春休みになってもなかなか帰ってこない息子にしびれを切らして迎えに来たという。

 笹原の父親と、その横には赤ん坊を抱いた母親が、包み込むような優しい笑顔で立っている。


 綾野が、生まれて半年足らずの小さな赤ん坊を見て、はしゃいだ様子で抱いてみたいと言う。

 釣られて、早翔も抱かせてくださいと言ってしまった。

 父親になることを拒否したのに、どんな顔をして抱いたらいいのかわからない。

 そんな思いが、七奈子ななこ七翔ななとが生まれて1年が過ぎても、会いに行くことを躊躇させていた。

 しかし、他人の赤ん坊を腕に抱いた瞬間から、早翔の顔は自然にほころび、可愛いと漏らしていた。


 目の前のつぶらな瞳が真っ直ぐ早翔を見つめて、ぽかんと開けた口がご機嫌に笑っている。

「奇跡」

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 生まれるのも奇跡なら、今、生きていることも奇跡だと思うと、勝手に心が震えた。

「元気に大きくなれ… 絶対、元気に…大きくなれよ」

 つぶらな瞳に向かって小さく呟き、心からそう願った。

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