起動
赤茶色の壁に程よく暗緑色の蔦が這っているレトロな風情の建物の1階に、そのバーはあった。
酒好きの間ではちょっとした老舗の有名店で、早翔も蘭子に連れられ何度か訪れたことがある。
70をとうに過ぎたオーナーの流れるようなカクテルを作る姿には、年齢を感じさせない
忙しい日々の中で、すっかり足が遠のいて、その存在も忘れていたある日、向井から「ちょっと会えないか」と連絡が来た。
その口調がビジネスモードなのか誘っているのか、どちらともつかない。
「向井さんの仕事部屋以外ならいいけど」
ことさら感情を抑えて返す早翔に、電話の向こうからフンと鼻を鳴らしたような音が聞こえる。
「お前の店の候補を一つ提供したい」
予想外の返しに、「なんで向井さんが…」と言って言葉が詰まる。
「まだ決まってないと聞いたんでね」
「聞いたって誰から」
「お前は誰にものを言ってる。とにかく一つ候補を用意したから見に来い」
相変わらずの不機嫌と高姿勢である。
店のコンセプトや内装の雰囲気、提供する酒の種類など、具体的に思い描いてはいたが、肝心の場所が決まらない。
不動産屋にいくつか店舗を提案されていたが、どれも決め手に欠けていた。
そして向井に連れて行かれたのが件の老舗バーだった。
その時初めて、オーナーが高齢のためバーテンダーを引退し、閉店していたことを知った。
内見した物件はどれもコンクリート打ちっぱなしの物件だったが、そこはすぐにでも開店できそうな居抜き物件だった。
内装や設備にかける初期費用が抑えられ、何より常連だった客を呼び戻せることを考えると、迷う余地もない。
「見返り無しでいいの」
早翔はカウンターの中に入り、目線の高さを確認しながら店内を見回し、軽い調子で尋ねる。
「求めてもいいのか」
表情ひとつ変えずに訊く向井に視線を合わせ、早翔が苦笑する。
釣られたように、向井の頬もゆがむ。
「まあ、見返りが必要かどうか蘭子に訊いてみろ」
「蘭子さん?」
「前オーナーからここを譲り受けたのは蘭子だ。どうせ自分で店を開いて、お前をバーテンで立たせるつもりだったんだろ」
早翔は蘭子と一緒に訪れた時の会話を思い出していた。
そのレトロな外観が、店のランクを低く見せているような気がすると言うと、蘭子はわかってないわねと笑った。
「曖昧にはしているけど、低く見せてはいないわ。それに、街に特徴のない同じようなビルが立ち並んでも、こういう建物は残したいわよね。その街のアクセントになるし、小さなランドマークにもなって行く。何より移り行く街並みの中で郷愁を誘うじゃない」
そんなことを、遠い昔を懐かしむような微笑みを浮かべて語っていた。
早翔は店を見回しながら何度か頷く。
「ここに決めようかな」
穏やかな笑みを浮かべ向井を見た。
「やけに素直だな… 面白くない」
眉根を浅く寄せて不満げに早翔を睨んでいる。
「もっと拒否されると思ったのに… お前にはポリシーがない。プライドもない」
「何が言いたいんだよ。向井さん、この話断らせたいの」
「いや、蘭子からは脅してでも契約させろと言われてる」
早翔の口から笑いが漏れる。
「つまり、俺を脅して泣かせてハンコ押させたかったわけか… 俺のこと言えないくらいガキ…」
「なんだと」と、唇をゆがませ、ニヤリと笑う。
「そんなこと言ってタダで済むと思うのか」
早翔は「はぁ…」と、呆れ顔で大袈裟に声に出して息を吐く。
「向井さん、もう付き合ってる人いるんでしょ。裏切っちゃダメだよ」
向井が目を細めてジロリと睨む。
「お前だろ… くだらん告白の仕方教えやがって。俺は社内のヤツとは付き合わん」
「リスクマネジメントってやつですか… 断ったの」
向井がぷいっと横を向く。
「いや… あいつ、自分が会社を辞めるからと食い下がってきた」
その顔には珍しく感情が出ている。
「最初から泣き落としだ」
「俺、泣けなんて言ってないし」
チラッと早翔を見て、すぐに視線を戻す。
「健気で女々しい。アイツは俺を満足させようと必死だ。時々、お前と比べてどうかと訊かれる… 涙ぐみながら」
「可愛いね… てか、全然想像できない」
向井の横顔がほころび、想像するなよと唇の端で笑う。
「まあ… そのギャップも含めて可愛いヤツだな」
「そこら辺にあったね… 恋とか愛とか」
向井が、鼻で笑って小さく「ぬかせ」と吐き捨てる。
「まだ先の話だけど、開店した時は二人で来てよ」
「そうだな… 来てやってもいい」
「大事な奥さん、連れてきてもいいし…」
一転、冷めた視線を早翔に投げる。
「まあ… 考えておく」
「子供が成人したら一緒に…」
「もういいわ。どれだけ必死なんだ」と、早翔の言葉を遮り破顔した。
元の店は、クリーム色の壁にライトブラウン系の床やカウンターで、バーにしては明るめの開放的な雰囲気だったが、セブン・アールはブラウンと黒を基調にして、間接照明を使った落ち着きのある内装にした。一瞬躊躇するような入りにくさを漂わせてもいたが、それが客を選んでもいた。
その少しばかりの高級感と、まったりとくつろげる空間は、前の店が閉店したことを残念がっていた常連客達も満足させ、そこそこの客入りになっていた。
当初、早翔が考えていた、酒好きが集う入りやすい小洒落た店というコンセプトからは若干ズレてはいたが、一人だけで営業するという点では、ちょうどいいゆったりとした静かな営業ができていた。
そして、週のうち半分は、草壁が開店と同時に訪れ、カウンター席に陣取る。
「可愛いだろう。もうたまらん。見てると食ってしまいたくなる」
カウンターの上に数枚の写真を広げて早翔に見せている。
「食うなよ」
早翔が、笑っているのかいないのか、曖昧な顔で写真を眺めている。
早翔に似た色素の薄い白い肌が、ふくよかな頬っぺたの赤みを目立たせ、愛くるしい笑顔で笑う二人の赤ん坊の姿が写っていた。
蘭子から、電話で二人が生まれたことを知らされ、女の子を「
そんな気持ちを察してか、子供達の顔を見に来てとは言われなかった。
重圧を与えたくないという思いからか、蘭子は直接連絡をしてこなくなった。その代わりに、ちょっとしたことでも草壁を呼び出す。
「俺、七瀬の代わりにはなれねーけど、何かあったら呼んでくれ。できる限りの協力はするから」
そんな約束を律儀に守って、草壁は蘭子の呼び出しに応じていた。
そうして、撮ってきた二人の写真や動画を早翔に見せに来る。
実際に見せられると、気が重いと感じる一方で、自然に子供として受け入れている別の自分がいて、それが不思議でならない。
じっと写真に見入っていると、早翔の口元が自然にほころびかける。が、無意識のうちに働く自制の心が、緩みかけた唇を固くさせる。
そのぷるぷると震えているような口元のせめぎ合いを、草壁が横目で見ながら満足そうに微笑む。
これがお手本だと言わんばかりに、我が子を見るような愛おしい目で写真に見入り、柔らかく微笑む。
「七奈子ちゃんのほうが、もうママ、ママって連呼してた」
「へえ」
「会いにいかねーの」
その武骨で軽い口調が、早翔に余計な負担を感じさせないよう気遣っていた。
早翔が「うん…」と頷くと、草壁は,それ以上、何も言わない。
「明日は高級マンションの壁に穴あけてくる。ナナちゃん達が落書きしてもいいようにボード貼ってくるのさ」
優しい笑みを浮かべ、ウィスキーを一口飲んで、早翔の顔を覗き込むように見つめる。
もう一度、言おうとした「会いにいかねーの」という言葉を飲み込んだような気がして、早翔は目を伏せた。
「どんな顔すればいいかわからないんだよね」
黙って見つめる草壁に自嘲の笑みを返す。
「蘭子さんから会いに来いって言われたら行くけど… 俺からは行かない。直が写真も動画も見せに来てくれるから、なんか会いに行ってる気分だし」
草壁がふっと笑って、「そんなもんかね…」と呟く。
「俺、全然関係ないけど、ずーっと見てられるし可愛いけどな。あんな小さいのにお前に似てる所とかあってさ」
もどかしさの混じる切ない瞳で早翔を凝視し、白い歯をみせている。
その視線が、父親がいない子供達に向けられているのか、父親になれない早翔へのものなのか、それとも他人の子供なのに可愛いと思ってしまう自分になのか、そのどれも含めたものなのか。そのやるせない思いが早翔の身体に伝播して、思わず視線を逸らす。
「うまくいかないもんだね… 人の心も人生も」
早翔は諦めたように笑った。
「まあ、お前や蘭子の気持ちなんか関係なく子供はどんどん育つから、何かあった時は皆で支えればいいだけだ。そう心配することもないさ」
草壁が残ったウィスキーを一気にあおって、ふうと息を吐く。
「税理士事務所の仕事はどうよ」と、話を変える。
早翔は草壁に言われて、非常勤で税理士事務所で働いていた。
高校3年の時に二人で話した、将来は会計事務所を開きたいという夢は、たまに会うと話題には上ったが、具体的に何をするわけでもなく、早翔の中ではすでに、こんなことも語り合ったなあという青春の思い出の一つになっていた。
企業の内部監査に関わる中で、そのコストを考えると、外注したほうが効率がいいはずだ。企業の健全な経営と、社会的信用を維持していくために、内部監査の外注需要は伸びていくのではないか。
そんな風に、働きながら得た感想を草壁に話すと、いつ頃からか、「どうせ作るなら、内部監査も請け負えるような事務所がいいよなあ」と言い出した。
「いや、どんだけの規模を考えてんの。仮に事務所を開くとしたら、二人で会計と税務とコンサルができればいいんじゃないか」
「そんな低いところで収めようなんて考えてると、すぐ潰れるわ。目標は高く持ったほうがいいだろう」
「全然、低くはない。現実的に進められる方向で考えるのが妥当だろ」
そんな風に、多少酒が入って強気の草壁と、漠然とした未来について語り合うのは楽しかったが、あくまでも酒の肴の一つでしかなかった。
早翔の中では、向井でさえ失敗した独立開業が、自分に向いているとは思えない職業で、うまく軌道に乗るとも考えられず、将来の選択肢からは消えていた。
しかし、早翔が会計士の資格を取得すると、草壁は、はっきりと開業の意志を口にした。
「何もしないで諦めたくはない。俺は目標に向かって猪のごとく走るだけだ。お前もそのつもりでいろよ」
そう言って、何年後かの開業に向けて、会計事務所や税理士事務所でアルバイトをするよう言ってきた。
草壁の言葉の中に、きっかけはどうあれ、水物ばかりに行こうとする早翔に、安定した収入を確保しようという思いを感じて素直に従った。
「逆だよな。お前は堅実な道を行くはずだったのに、あまりに予想と違うから、俺のほうが堅実にならざるを得ない」
そう言って、草壁は苦笑していた。
「夜の仕事が長過ぎたからかなあ、会計士も向いてないけど、税理士も向いてないような気がする」
草壁の問いにそう答えると、「バカか」と笑いながら返ってくる。
「仕事なんて向いているからするもんじゃないだろ。向いてないけど仕事だからするんだよ。ホストだってお前には全然向いてなかったぞ」
「俺がいい加減な生き方してると、直がどんどん説教臭くなって有難いよ」
二人で笑い合っていると、扉が開いて常連客が入ってきた。
同時に草壁が立ち上がり、「じゃあな」と片手を上げて出て行った。
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