有縁
そのカフェは、劇場に一番近いビジネスホテルの1階にあった。
一見すると、蘭子にはあまり釣り合わない気軽な雰囲気で、初めて連れて来られた時はたまたま通りすがりに入っただけだと思っていた。
しかし、何度か歌舞伎に誘われ、いつも終わった後はぶらぶらと歩きながらそのホテルのカフェに向かう。もう少し離れたところに、ランクの高いホテルもあり、蘭子なら車を走らせてでもそっちに行きそうなものだ。
「蘭子さんにしてはカジュアルな店だよね」
何回目かの時に早翔が訊くと、蘭子はガラス張りの窓の外を眺めて、ふふっと微笑む。
「昔、友達と観劇してここに連れて来てもらったの。若い人が多いし、気取らなくていい店だから、父と初めて歌舞伎を観た時、ここに誘ったの。父と一緒に歩きたくて…」
愛情深い微笑みを湛えたまま、早翔に視線を戻す。
「車にも乗らずに父と並んで歩くなんてあまりないでしょ。そしたら、父も言ってくれた。娘とこうして並んで歩くのもいいもんだなって」
うつむき加減ではにかみながら、無邪気な笑みを見せる。
「私が甘いパフェを頼んだら、それ食べてみようかなってちょっと恥ずかしそうに言うの」
「言われて見れば、父と娘でパフェを食べるには手ごろなカフェだね」
蘭子は「でしょ?」と少女のように瞳をキラキラさせて微笑んでいた。
「どんな感じか感想を聞かせて」
蘭子が上目遣いで、いたずらっぽい笑みを浮かべて早翔を見つめる。
出産前に歌舞伎を観たい。生まれたら観劇どころじゃないから。そんな言葉で、何事もなかったかのように平然と誘ってきた蘭子と会うのは、草壁と一緒に部屋を訪れて以来だった。
観劇が終わり、いつものようにカフェまで並んで歩いて来た。
いつも頼むのはオレンジジュースかコーヒーだが、この日、テーブルにはパフェと紅茶が並んでいた。
「どんな感じって、歌舞伎の感想?」
「違う。こんな大きなお腹を見せるのは初めてだから… その感想を聞いておこうかなあと思って」
オフホワイトのAラインのふんわりしたロングドレスは、一見しただけではマタニティドレスには見えないスマートな装いである。少しふっくらした頬が、色香よりも可愛さを醸し出している。
早翔はロングドレスのふんわり膨らんだあたりに視線をやり、今日を振り返るように少しの間考える。優しい瞳を蘭子に向けると、唇が穏やかにほころぶ。
「最初は少しドキドキして緊張した… それからハラハラしたかな」
「ハラハラ?」
「重そうで… ふとした瞬間に落ちてきたらどうしようって」
「まるでガキの感想ね」と、おどけた顔で肩をすくめる。
「あと… ちょっと恥ずかしいかな」
「恥ずかしいって何よ」と、唇を尖らせる。
「原因があって…」と自分を指さし、「結果が歩いてます…みたいな」と蘭子のお腹をさす。
蘭子が呆れた顔で「何言ってんの」と破顔した。
「不思議な気分だよ」
早翔が蘭子のお腹に視線を落とす。
「そこに俺と血の繋がった赤ちゃんがいるなんて… 実感わかない」
避けるように窓の外に目を向け、しばらく黙る。
「怖いな…」
「何が怖いの。別にもう結婚してくれなんて言わないわよ」
ゆっくり視線を戻して蘭子を見つめる。
「その子たちがいつか大きくなって、父親がゲイだってわかったらどう思うか、考えたら怖いよ」
蘭子は意に介さない様子で、ゆったりと笑みを浮かべた。
「バカね。子供はどんな親でも受け入れるわ。親がどんな子供でも受け入れるのと同じよ。人はそんな風にできてるのよ」
フフッと笑って、視線をテーブルに落とす。
「パパがママと結婚しなかったのは、ゲイだったから。それでもママはパパが好きだったからあなた達を生んだって言うつもりよ」
ゆっくりと視線を戻し、悠然と微笑んで早翔を見つめた。
「すごいな… そこまで考えてるなんて、もうすっかり母親なんだね」
「あなたはまだ父親にならなくていいけど… でも、いつか娘がパパと並んで歩きたいって言ったら、ちゃんと言う通りにしてあげてね」
瞬間、早翔が固まる。
「女の子なの?」
蘭子がニヤッと笑って小首を傾げる。
「娘じゃなくて、息子が並んで歩きたいって言っても、そうしてあげてね」
「からかわないでよ」と、脱力したように肩を落として苦笑する。
「からかってない… 男の子と女の子の双子ちゃんよ」
早翔がきょとんとした目で蘭子を見返した。
「なんて顔してんの」
楽しそうに笑う蘭子を見て、止まった息を吐き出し、ようやく引きつり気味に笑う。
「なんか想定外でビックリした。男の子と女の子… そんなこともあるのか… あるよね、まあ… あってもおかしくないよね」
目を泳がせながら、自分に言い聞かせるように呟く早翔を、蘭子が穏やかに微笑みながら眺めている。
「お店の名前、決まった?」
唐突に切り出された問いに、早翔が意表を突かれたように、再び目を丸くする。
早翔が持つコラム連載の一つに、酒に特化した雑誌があり、少し前から「ワンオペの酒場の作り方」というテーマで書いていた。店の広さや間取り、経営の留意点まで細かく載せて好評を得ていたが、机上の空論に終わらせないためにも、実際に作ってみたいという気持ちが沸き起こる。夜の数時間の開店でどこまで続けられるか、不安よりもワクワクと楽しい気分のほうが盛り上がる。
資金は、借金を返済していた金融機関の担当者が、ぜひ融資させてくれと申し出てくれた。
「お前、実はMだな。夜の仕事から足を洗ったら、また借金抱えて夜の仕事場を作る。ドMだ」
草壁にそのことを話すと、呆れた顔で笑われた。
蘭子には話す機会がなく、話すつもりもなかった。なのに知っているとしたら、草壁から聞いたのだろう。
「直から聞いたの? 連絡取ってるんだね」
早翔の返しに、蘭子の瞳が揺れて、ぽっと頬を赤らめる。「うん…」と頷き、直後に「あ…ううん」と首を左右に小さく振る。
「直接会ったりはしてないわ。電話でね、一度か二度話したことがある程度で… 会ってはいないわよ」
おどおどとした、今まで見たこともない純な表情と話し方に、思わず吹き出した。
「別に会ってもいいよ。蘭子さんの自由だ」
蘭子は一瞬、思考が止まったように呆然とした顔で早翔を見たが、「そうよね」と言って相好を崩す。
「それよりお店の名前! 決まったの?」
「考え中」
「セブン入れるの?」
「七瀬をそのまま英語にしようと思ったけど、語呂がね。シャロウとかショール、ラピッズ…」
「リバーでいいじゃない。難しく考え過ぎよ。瀬も川の一部でしょ。セブン・リバーでいいじゃない」
軽い口調で簡単に言ってのける顔は、いつものように自信に満ち溢れている。
「いいかもしれない。セブン・リバー… 頭文字とってセブン・アール…」
蘭子が「それいい!」と声を張り、周囲を少し気にして肩をすくめる。
「アールがいいわね。七瀬のセブンに蘭子の頭文字のアール、素敵な名前だわ」
「蘭子さんのアールじゃなくて、リバーのアールです」
冷めた声で返す早翔の言葉など聞かずに、ふふんと笑って目を輝かせる。
「昼下がりのカフェで、パパとママで考えて、二人の名前を取って付けたの…って言うわね」
「お好きにどうぞ」と呆れた笑いを浮かべると、蘭子が唇の両端を引き上げニッと笑う。
「でも、酒を提供する店だから、大人になるまで連れて来ないでね… あと、ホストクラブにも連れて行かないでね」
蘭子は宙を見上げて「うーん… どうしようかなあ」と呟く。
「私、ホストクラブに通ってたこと、全然後悔してないし… 本人の好きにさせるわ」
「ダメダメ、絶対ダメだよ」
半ば焦ったように慌てる早翔は、眉間に皺を寄せ、顔をしかめていた。
「ホストクラブで出会ったことは、絶対言わないで。出逢いを求めて店に出入りしたり、ホストに入れあげる子に育ったら困るよ」
蘭子がニヤリと笑って早翔を見つめる。
「あなただって少しは父親になりかけてるのね」
「一般的見解だよ。誰だって同じこと言う…と思う」
いきなりキャハハと声を出して楽しそうに笑い出す。
「私達バカみたい。まだ生まれてもない子供の20年、30年後で言い合いして」
早翔も「全くだ」と頬を緩める。
「あ…」と思い出したように声を出すと、蘭子の顔に柔和な笑みが浮かんだ。
「父がね、あなたを食事に誘ってもいいかって言うの」
「社長が…」
「二人だけで?って訊いたら、口ごもるのよ」と、実に愉快そうに笑う。
「別に私の許可なんていらない。庸一郎さんでも七瀬でも、好きな時に誘ったらいい。そう言ったら、何だか親にデートを許された男の子みたいな笑顔になるの。70過ぎた父を可愛いって思う日が来るなんてね」
顔をクシャッとさせて少女のような、いたずらっぽい笑顔を見せる。
「俺も… 蘭子さんのこと、キレイとか色っぽいとか全然感じなくて、可愛いなあとしか思えない日が来るなんてね」
「何よ… バカにしてんの」
蘭子の微笑みに、少し不満げな視線が混じる。
「してない。パフェ食べながら笑ってる顔が、可愛いなあ、愛らしいなあって感想しか出てこない」
「大人をからかうんじゃない」と、まんざらでもない様子で相好を崩した。
別れ際、蘭子は迎えの車に乗り込もうと身をかがめ、思い直したように傍らに立つ早翔の前に向き直った。
「あのね… あなたに慰謝料払うことにしたの」
「何言ってんの。そんなものもらう理由がない」
「ワンオペの店、あなたに作らせたらきっとチープなものが出来上がりそうだから…」
蘭子は、腕を早翔の首にまわして引き寄せると、早翔の耳元に唇を近づけ、ふふっと笑う。
「あのね… 避妊薬じゃなくて、排卵促進剤飲んでたの。黙っててごめんなさい」
顔を離すと、蘭子が上目遣いのしたり顔で見つめている。
「向井は絶対言うなって言ったけど、安っぽい店作られても困るから、慰謝料払うね」
小首を傾げてニッコリと微笑む蘭子を見て、早翔が思わず吹き出した。
「もう今さら… どうでもいいよ」
「恋人できたら紹介しなさいよね」
「いや、紹介はしない」
「女だったら承知しないから」
本気とも冗談ともつかないおどけた目で睨む。
「女は蘭子さんだけで十分。蘭子さん以上に愛しい愛すべき可愛い女性はいない。なのにストレートになれない俺は本物のゲイだ」
蘭子は満足げに笑って唇を突き出す。その唇に早翔が軽くキスする。
「身体に気を付けて元気な赤ちゃん生んでね」
うんと頷き切ない視線を早翔に送ると、蘭子は車に乗り込み、凛とした横顔を見せる。
そのまま、早翔を一瞥もせず、走り去って行った。
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