追憶

「会社、辞めるんだって?」

 歩きながら、向井の秘書、田辺が早翔に声をかけてくる。

「ええ、今の仕事が片付いたら辞めます」

 向井から呼ばれていると伝えられ、早翔は田辺と共に法務部の小会議室に向かっていた。


 初対面では必要最小限の言葉のみで、印象が良いとは言えなかった。

 あれ以来、法務部には何度も出入りしたが、田辺個人と言葉を交わす機会はほとんどなく、見かけても視線を合せることもない。ただ、早翔は何となく、自分が田辺から敬遠されているように感じていた。

 仕事上の接点がほぼないことを考えると、避けられる理由もない。

 理由があるとしたら…

 そんな思いを巡らせながら、早翔は田辺の横顔をチラチラ見ていた。


 田辺が早翔を一瞥して「何?」と不機嫌そうに訊いてくる。

「いえ… あの、田辺さんに避けられてたような気がして。私、何かしたかなあと思って…」

「別に、何もされてない」

 早翔の頬が少し緩みかける。

「まあ、気に食わない。どちらかと言えば嫌いだ」

 緩みかけた顔が固まり、田辺を凝視する。

 田辺は表情一つ変えず、小会議室のドアを開けると、早翔に入れと顎で言う。

 早翔が入ると田辺も後に続き、後ろ手でドアを閉めた。

 早翔を見てニヤッと顔をゆがめる。


「面と向かって他人からそんなことを言われたのは初めてって顔してる」

「普通、そうでしょう。理由もなく嫌うなんて子供のすることでしょう」

 田辺はフンと鼻で笑って視線を逸らす。

「綺麗な顔したヤツは自分が好かれて当然だと思ってる」

「そんなこと思ってないし、綺麗な顔だとも思ってない」

「ホストやってたくせによく言うよな」

 田辺は早翔に背を向け、ドアノブに手をかけた。


「田辺さん、八つ当たりは見苦しいですよ」

 田辺が開けたドアを閉め、ゆっくりと早翔に向き直る。

「八つ当たり?」

「あなたがもの言う相手は向井さんでしょう。どうせ、俺と向井さんの関係も知ってるんでしょう」

 田辺はニヤッと白い歯を見せて笑う。

「なあ、アンタ、社内でどう言われてるか知ってるか?」

「どうって…」

 意表を突かれ、早翔の顔が強張る。


「監査室の人たらし」

 早翔がフッと力が抜けたように笑って「何それ…」と漏らす。

「監査室の人間は煙たがられるけど、アンタはいとも簡単にその壁を取り払う。余計なことまで話を引き出す人たらしだって」

「余計なことまでって… 外部じゃあるまいし、内部に隠し事したって意味ないのに…」

 早翔が苦笑しながら頭に手をやる。


「まあ、もう辞めるからどうでもいいけど… 人たらしと言われる程度で、向井さんとのことは噂にもならなかった。田辺さんの配慮があったなら感謝します」

 早翔がペコリと頭を下げる。

「やっぱ、人たらしだ」

 田辺が屈託のない笑顔を見せた。

「取締役はわかり易い。他部署の平社員で直接電話するのはアンタだけ…」

 意味ありげに頬をゆがめ薄く笑う。


「これからは周りを気にすることなく連絡取れるな」

「安心してください。向井さんとはもう終わりました」

 早翔が穏やかに微笑むと、田辺の顔から笑みが消え、真顔で早翔を見つめる。

「告白するなら今ですよ」

 田辺が吹き出し破顔した。

「ホント嫌なヤツだな…」

 二人で顔を見合わせ、声を殺して笑い合う。


 田辺が大きく息を一つ吐き、踵を返した。

「そろそろ呼びに行かないと… きっと痺れを切らしてる」

 早翔がその背中に「ああ、一つだけ…」と呼び止める。

「お互いに新しい恋人が見つかるまでで構わないから付き合いましょう。付き合いながら新しい出会いを求めても構わない。そう言ってみて」

 しばらく固まっていた背中が緩やかに動き出す。

「参考にさせてもらう」

 田辺は背後の早翔に軽く手を上げ出て行った。


 程なく現れた向井は、手に茶封筒を持っていた。

「まったく、お前はコソコソと裏で動きやがって…」

 いきなり不機嫌を露わに吐き捨てると、茶封筒をバサッと乱暴にテーブルに投げ置く。

 向井が席に着き、早翔に座れと顎で合図する。


「まずは、胎児認知の書類だ」

「胎児認知…」

「婚姻届にサインすれば、こんな面倒なことはしなくていいのに… 全くお前はバカだ」

 蒸し返される話に、うんざりした顔で書類を受け取ると、すでに向井の字で鉛筆書きされていた。早翔は書かれた通りに記入し始める。


「こんな話を断るバカは居ないぞ。世界中探したってお前一人だ。本当にバカだ」

「向井さんが俺なら断らないってこと?」

 唐突な問いに、向井が一瞬、黙る。

「まあ… 迷わないな。この会社が自分の力で牛耳れると思えば迷うことはない」

 早翔が顔を上げて向井を見据える。


「なんだ?」

「向井さんは同族企業に否定的な意見を持ってると思ってたのに、同族に入ることはあっさり受け入れるんだなあと思って… ポリシー簡単に曲げるよね」

 半笑いの早翔に、「ぬかせ!」と吐き捨てる。

「ポリシーは曲げてない。外部から人が入って企業をより成長させて変えていく。そんな道程が目の前に用意されているなら選ぶのは当然だ。状況に合わせて常に勝ち進む道を選ぶのは覇者の定石だろう」


「そのためなら、向井さんにはいつもしかめっ面で、笑わない蘭子さんとの結婚も厭わないわけだ」

 向井の顔が強張り、しばらく沈黙する。

「くだらん… 仮定の話ほど無駄なもんはない。書いたらよこせ。チェックするから」

 早翔からひったくるように書類を取ると確認し始める。


 脇には「業務補助等報告書関連」と手書きで書かれた茶封筒がある。会計士の資格取得に必要となる書類の名称である。

「証明書もらえるの」

「もらえないと思ったか?」

 書類に目を落としたまま半笑いを浮かべている。

「だって、向井さんが…」

 向井が顔を上げ、「あれは冗談だ。忘れろ」と早翔の言葉を止める。


「とりあえずうちが出すべき書類を、俺が用意できる範囲で集めた。あとは会計士と相談して必要なもんを揃えろ」

「わざわざ向井さんが用意してくれたの…」

「これでチャラだ」

 ニヤリと笑って、「間違っても脅迫罪で訴えるなよ」とおどける。

「まあ、また気が向いたら仕事部屋に来い」

 その応えを聞くまでもなく、切ない視線を早翔に送る。


「もう仕事部屋には行きません。俺、今度はちゃんと恋愛したいから…」

 向井がフンと鼻で笑う。

「お前は本当に青臭いガキだな。愛とか恋とか、そんなもんそこら辺にごろごろ転がってる。ただ気付かないだけで。そんなものを至高のものとして、あがめてる限り見つからないけどな。案外、本人の気付かないうちに始まってるもんだ」

 早翔の頭に田辺の顔が浮かんで、思わず笑いが漏れる。


「何だよ」

「いえ… 俺もそこら辺に目を凝らして歩こうかなあと思っただけです」

「バカにしてるのか」と眉根を寄せる向井に、「してません、してませんってば、向井取締役」と、わざとらしく焦りを見せる。

 向井の頬が緩み、「まあ、いい」と席を立つ。

「これから社長に会ってもらうぞ」

 予想外の言葉に、早翔の焦りが本物になり、慌てて立ち上がった。

「えっ、社長って… 蘭子さんの… え… そんなの聞いてない」

「だろうな、今、初めて言った」

 向井は涼しい顔でニヤリと笑う。対する早翔の顔は強張り、落ち着きを失っていく。


「そんな… 急に言われても…」

「社長が会いたいと言っているんだ。まあ、もう辞める人間だから会いたくなければそう伝えてもいいが、一応、お前の子供たちのお爺さんだから」

「子供たち?」

「蘭子から聞いてないのか。どうやら双子らしいぞ」

「双子!」

 思わず甲高い声が出る。


 その様子を見て向井が鼻で笑う。

「何を驚いてる」

「一人は覚悟したけど双子… 二人って…」と、顔を引きつらせる。

「バカか。一人も二人も変わらんだろ。お前が育てるわけじゃなし。全く… 可愛い我が子が二人もできるのに結婚しないなんてバカなヤツだ」

「また蒸し返す…」

 早翔がげっそりした顔で呟く。


「まあ、財産分与のことを考えれば、黒田にとっては、跡継ぎができて金は減らない最良の結果になったがな。お前は絶対後悔する。莫大な財産を相続する権利をみすみす捨てるんだから」

 向井はにやけた顔を向ける。

 早翔が視線を外して、小さくため息を吐いた。


「弁護士って大変だね。クライアントが元気に生きてるのに、死んだ後の財産相続まで考えて」

「事業承継と財産承継のリスクマネジメントだ。お前みたいに臆面もなく恋愛したいとかぬかす刹那的な生き方してるやつには理解できん。というか、お前、そんなこと平気で言うヤツは会計士にも向かんわ」

 向井が声を出して笑いながら、「ここで待ってろ」と言って会議室から出て行った。


「ここに社長が来るのか?」

 ホワイトボードに折りたたみのテーブル、その周りに6席のパイプ椅子が並べられ、10人も入ればいっぱいになる狭い部屋である。

「まさかね…」と呟く。

 書類を置きに行った向井が、また戻ってきて、一緒に社長室まで行ってくれるのだろう。

 それよりも何を話せばよいのか、最初にくる言葉は謝罪か感謝か、考えあぐねながら椅子に座る。


 しばらくしてドアが開いた。

 そこに社長の黒田晋太郎が立っていた。

 驚き慌てながら席を立つと、勢いがついて椅子が倒れる。

「すみません」と言いながら椅子を起こす。

「すみません、まさか社長自らいらっしゃるとは… すみません」

「驚かせたかね。すまん、すまん。色々と噂が立ってるようだから、大っぴらには会わないほうがいいと思ってね」

 大らかに笑う晋太郎の笑顔が、早翔の緊張を幾らか和らげた。


 晋太郎は、先ほどまで向井が座っていた椅子に座り、早翔にも座るように椅子を指差した。

 おずおずと席に着くと、顔を上げることもできず、うつむき加減で視線を落とす。

「何だろう…」と晋太郎が呟く。

 早翔が顔を上げると、相変わらずにこやかに笑っている。

「君とは初めて会った気がしないね」

「あ… あの廊下で何度かすれ違ったことはありますが…」

「いや、そういう意味じゃなくて…」

 不思議そうな顔をする早翔を、微笑んで眺めている。その細めた瞳の先に、早翔ではない誰かを見ているような遠い目にも見える。


「ずいぶんと迷惑をかけたみたいだね」

 早翔がハンカチで額の汗を拭う。

 蘭子が、果たしてどこまで話しているのか見当もつかず、必死で言葉を選ぶ。

「いいえ、私のほうが散々蘭子さん… 黒田取締役にお世話になったのに、その… 後ろ足で砂をかけるような… その… 責任を放棄するような…」

 晋太郎は、鷹揚に笑みを湛えながら首を横に振る。


「いやいや、そんなに自分を責めんでくれ。十歳も歳が違えば仕方がない」

「いえ、それは全然関係なくて…」と、消え入りそうな声で挟む。

「君は自分の青春も犠牲にして働き詰めだったと聞く。自由になって自分の人生を歩みたいと思うのは当然だ。あの子もそれは、ちゃんとわかっているよ」

 早翔は下を向いたまま、「はあ…」と頷く。


 相手は実業家、どこまでが本音かわからない。

 しかし、その穏やかな優しい声のトーンが、どこか懐かしく、早翔に死んだ父親を思い起こさせる。脳裏に、遠い昔の元気だった頃の父親の記憶がよみがえり、ズキリと胸の奥が痛む。

 ある日突然、目の前から消えて、残された借金に大学進学も諦めた。未成年の子供を残し、突然死んでしまった父親が一番無念だったはずだ。なのに、つい「何で死んだんだよ…」と恨み言を呟いたりしたこともあった。

 早翔は、思わず潤む目をハンカチで押さえる。


「あの子には幼い頃から苦労をかけたんだよ。だから、多少の我ままは許して甘やかして育てて来た。ホストクラブに通い始めた時も、困ったものだと頭を悩ませたが、私のクラブ通いと何が違うのかと、涼しい顔で問われると何も言えない… まあ、こうして君と顔を合わせたらわかった… 君なら納得だ」

「あ…」と思わず声が漏れ、顔を上げる。

 何年か前に会った庸一郎も「納得した」と言っていた。彼が別れ際に言った言葉を思い出す。

「君の持つ雰囲気が、亡くなった蘭子の兄に似ていたものでね」


 晋太郎は、早翔の涙に潤んだ瞳を見て、「大丈夫かね」と心配そうに顔を覗く。

「すみません、社長の声を聞いていたら亡くなった父を思い出して… 申し訳ありません」

 一瞬、晋太郎の表情が固まり、間が空く。

「いや、嬉しいよ。君にそんな風に言ってもらえて… その… また会えないかね。もし君がお父さんと飲みたいと思った時にでも…お父さん代わりというのも君の御父君に失礼か… まあ、気が向いた時でもいいんだが…」

 控えめに言うその姿は、社長の地位も何も感じさせない、まるで息子の機嫌を伺う父親のようだった。

 それがまた早翔の琴線を揺らす。


 早翔は立ち上がり、深々と頭を下げる。

「ありがとうございます」

 晋太郎は早翔に歩み寄ると、その曲げられた身体を起こし、軽く抱きしめ背中を優しくぽんぽんと叩く。

「ありがとう」と呟くように言う声が震えていた。

 そのまま、晋太郎は会議室を出て行った。


 しばらく呆然と立ち尽くしていると、向井が入ってきた。

「お前の人たらしは本物だな。社長、目頭を押さえてたぞ」

 早翔の潤んだ目には一言も触れず、唇の端に笑みを浮かべている。

「何を話したんだ?」

 早翔が無言で首を横に振る。

「まあ、いい… また気が向いたら仕事部屋に来いよ」

 早翔が思わず吹き出して、白い歯を見せながら首を大きく横に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る