友情

 インターフォン越しに蘭子の舌打ちが聞こえる。

「何しに来たのよ。帰りなさい」

 怒りを露わにした低い声である。

「入れてくれるまで帰らねーよ」

 蘭子に負けずに怒りを孕んだ声で草壁が吐き捨てる。


「なんでアンタが来るのよ。ここはアンタが来るようなところじゃないわ」

「いいから開けろよ。話くらいさせてくれてもいいだろうが」

「警察呼ぶわよ」

「直、やっぱり帰ろう。警察呼ばれたら…」

 横から口を挟む早翔を、草壁が片手で制止する。

「呼べよ! 俺たちにはここに来るだけの理由がある。それ洗いざらい警察で喋るから」


「話すことなんてない。向井に任せてあるから、彼と話しなさい」

「離婚ばかりか再婚も弁護士任せかよ。このまま結婚生活も弁護士通してやるつもりか」

 しばらくの沈黙の後、エントランスホールへ続く背の高い木製のドアが、静かにゆっくりと開いていく。


 早翔にとっては見慣れた風景が広がり、日常の一部として通い慣れたはずの場所だった。だが今は、身体が目に入るもの全てを拒絶し、足は鉛を引きずっているかのように重い。

 その重さが、早翔にあの日の記憶を蘇らせる。

 19歳、同じように重い足取りで、初めて蘭子の部屋を訪れたあの日。

 無言で歩を進める草壁を見ると、その顔に緊張の色が走っていた。草壁がいるのだから、その分、いくらか軽いはずだと自分に言い聞かせる。


 玄関に現れた蘭子は、お腹に子供がいるからだろう、タートルネックのカットソーにカーディガンを羽織り、ストールを肩にかけ、ボトムは厚手の生地のパンツをはいている。

 早翔が一度も目にしたことのない、いわゆる普段着で、こんな状況でなければ互いに笑い飛ばしていただろう。


 早翔に鋭い視線を投げ、不愉快そうに大きなため息を吐く。

「入って」と言いながら顎で指す。

 いつものリビングに続くドアを開けると、「ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲」が耳に飛び込んでくる。

「この曲を聞くと明るくなれるの。何だか力がもらえる気がして…」

 穏やかな顔で目を閉じながら、そう言っていた蘭子の姿が思い起こされ、胸の奥に針を刺されたような痛みが走る。


 蘭子は無言で白いソファに腰掛けた。

 ソファまわりに置かれたひざ掛けやブランケット、テーブルにはカットフルーツを盛り合せたプレートが置かれ、これから数か月間の蘭子の意気込みが窺い知れた。

「蘭子さん… ごめん…」

 早翔が呟くように言う。

 蘭子がフンと鼻を鳴らし、早翔を横目で睨む。

「アンタも情けない男ねえ。こんなクソガキに泣きつくなんて」


 草壁がつかつかと蘭子に歩み寄る。

 蘭子が草壁に視線を移して少し後ずさると、素早くひざ掛けでお腹を覆い手を当てる。

「何よ。私に何かしたら警察呼ぶわよ」

 蘭子が言い終わる前に、草壁が膝をつき、床に頭をこすりつけた。

「頼む、七瀬をもう解放してくれ… お願いします…」

 早翔が驚いて「直…」と声を漏らす。


「こいつは18からずっと走り続けて頑張った。アンタや向井に助けられて頑張ってきた。だけど、それは七瀬の望んだ人生じゃない。もう解放して、自由に人生歩ませて欲しい」

「お願いします…」と続けた声が震えている。

「直、ありがとう」

 早翔が跪き、土下座する草壁を起こすと、目を真っ赤にした草壁が歯を食いしばり、片手で目を覆う。

 早翔の腕が草壁の肩を抱き寄せる。

「もういいから… ありがとう」


 その様子を無表情で眺めていた蘭子が、視線を逸らしてフンと鼻で笑う。

「そんなに私と結婚するのが嫌? こんな男に土下座までさせて…」

「蘭子さんとは結婚できない」

「10歳も年上だから?」

「違う…」と呟くように言うとしばらく沈黙する。

「俺、ゲイなんだ… 女に興味はない… 多分、生まれた時から」


 蘭子の視線が、ゆっくりと早翔に戻る。

「そんなこととっくに知ってたわよ」

 穏やかな口調で言うと、ふふっと笑みをこぼす。

「でも、私達、何の問題もなかったじゃない。今までも… これからも… きっと幸せな家庭を作れると思うわ」

 早翔は首を左右に振った。

「ごめん、蘭子さん… ごめん。無責任な男で… 最低な男で… ごめん」

 項垂れる早翔の目が潤む。


 蘭子が早翔から視線を外し、正面を見据える。

「あなたの意志なんか関係ない。あなたの子供が今、私のお腹の中で日々成長しているのよ… 責任は取ってもらうわ。私と結婚して子供の父親になってもらう」

「ごめん… 無理だ」

「父親のいない子供にするつもり? まさか、堕ろせなんて言わないわよね…」


「生むのは蘭子さんの自由だ… だけど、父親にはなれない」

「勝手なこと言うな!」

 早翔が言い終わるのとほぼ同時に、蘭子が声を荒げ、目の前のグラスを早翔めがけて投げつけた。

 水の入った薄いグラスは早翔の額に当たり、派手な破壊音を立てて割れる。

 早翔の額から冷たい水に混じって生ぬるい液体が鼻先へと流れた。


「クソババア、何しやがる!」

 草壁が咄嗟に蘭子に飛びかかり、襟元をつかんで怒鳴る。

「やめろ、直!」と止めに入る早翔を片肘で押しのける。

「金があれば人の心を自由にできるとでも思ってるのか。世界はアンタ中心に回ってるわけじゃない。七瀬の人生は七瀬のものだ」


 草壁を睨み返していた蘭子が、急に吐き気を催す。

「直、もういいから」

 早翔が草壁の手を振り解き、荒い息で苦しそうにあえぐ蘭子の背中をさする。

「ごめん… お腹に子供がいるのに蘭子さんにこんな辛い思いをさせて… ごめん… 本当にごめん」

「バカ… 何回謝ってるのよ…」

 蘭子の瞳に大粒の涙が溢れる。


「結婚するもの… あなたと結婚するもの…絶対結婚するんだからぁ…」

 蘭子は早翔の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き出した。

 早翔と草壁はただ黙って泣きじゃくる蘭子を見守っていた。

 ひとしきり泣いた後、おもむろに早翔の胸から顔を上げる。涙に濡れた顔は鼻の頭と頬を少し赤く染め、少女のようなつぶらな瞳で呆然としている。


 草壁が誰に言うともなく、「バーカウンター、勝手に借りたよ」と呟きながら、まだ息が乱れている蘭子の前に、レモンのスライスが浮かぶ水の入ったグラスを置き、早翔にはタオルを渡した。

 早翔がそのグラスを手渡すと、蘭子が一口飲んで「美味しい…」と呟く。

「少し横になったほうがいい」

 早翔に言われ、素直にソファに身を横たえると、早翔がそっとブランケットを掛けた。


 草壁がラグの上に散らばったグラスの破片を片付けながら、フッと笑う。

「あの時の再来だな」

「あの時って?」

 タオルで顔を拭いながら、早翔が草壁を見た。

「グラスを投げられて、シャンパン飲まされて、ぶっ倒れたんだろ」

 早翔が記憶を手繰るように、しばらく黙る。


「なんで知ってるの。直が店に来る前の話なのに」

「2号店で顔合わせの日に聞かされたよ。笑い話にされて… それ聞いて俺は泣けたわ」

「泣くような話でもない」

 早翔が苦い笑いを浮かべる。

「いや、泣ける。どれだけ怖かっただろうなと思うと…」

「怖い? 私が?」

 二人の会話を聞いていた蘭子が口を差し挟んだ。


「そりゃ、未成年のガキにとっては、金持ちの底意地の悪いババアは怖いだろう」

「ババア言うなって」

 早翔がたしなめ、蘭子にごめんと謝るが、草壁は開き直る。

「言うわ! 俺はアンタのことが大嫌いだから」

 蘭子が「クソガキ…」と呟いて、ニヤッと笑う。

「七瀬も? 私のことが嫌いよね。憎いわよね」


 諦めたように小声で言う蘭子に、早翔が微笑みながら首を横に振った。

「嫌いじゃない。大切な人だ。あなたには幸せになって欲しいと心から思ってる。ただ、その横にいるのは俺じゃない」

「大切な人だと思っているのに、私の横にはいてくれないの… 何度身体を重ねても、そこに愛情が湧いたりしなかった?」

 早翔が少しの間、宙を見て無言になる。


「沸いたよ… 大事にしたい、幸せになってもらいたいと心から思う。でもそれは、愛じゃない。強いて言えば、蘭子さんが庸一郎氏に対して持っている家族の情と同じようなもの…だと思う… 姉のような…」

 やわらかく微笑んで、蘭子に視線を落とす。

「ごめん… 俺が悪い。客とホストの関係ならそこでしっかり線を引くべきだった。なのに、中途半端に情のこもるような付き合い方になってしまった。俺のせいだよ… ごめん」


「どうすればあなたを手に入れられたのかしら… 欲しいものを手に入れたい時どうすればよかったの…」

 蘭子が独り言のように呟く。

「七瀬はモノじゃない。七瀬に恋したなら、それなりの手順があるだろう。強引に自分のものにしても七瀬の心は動かない」

 草壁は不機嫌を隠さず言い放った。


「だって、仕方ないじゃない… 恋がどんな風に始まって成就していくのか知らないもの。そんな経験ないから… どうしていいかわからないじゃない。もうずっと幼い頃から庸一郎一人を見て来たから、これが恋なんだと自分に言い聞かせて…」 

 蘭子は悲しい笑みを浮かべ、早翔を見つめる。

「七瀬を初めて見た時、あなたが欲しいって思った。それが恋だなんて気付かなかった。欲しいものはどんなことをしても強引に手に入れる。それしか知らないもの」

 蘭子の瞳が潤み始める。


「アンタ、最初からハードル高過ぎたんだよ」

 草壁が茶化すような口調でニヤッと笑う。

「そもそも、どんなに頑張ったって女が眼中にない男を手に入れるって無謀だろう。まあ、それ考えたら頑張ったほうだよ。よくやった」

「何よ、それ。褒めてるつもり?」

 蘭子が唇の隙間から白い歯を見せ、弱々しく笑う。


「蘭子さん、俺、会社辞める」

 早翔が言うと、蘭子が「うん…」と小さく返す。

「やっぱ、クビかよ…」

 腹立たしげに吐き捨てる草壁に、早翔が首を横に振る。

「もうずいぶん前から、俺と蘭子さんのこと噂になっててさ。上司も腫れ物に触るような扱いだし… そろそろ限界かなって」


「外堀から埋めて行ったつもりだったのに、逆効果だったわけね」

 涼しげに口にする蘭子を、早翔が目を丸くして見つめる。片や草壁が声を上げて笑い出した。

「噂の出どころがアンタかよ」

 早翔もつられて「まいったな…」と笑うと、蘭子も肩をすくめて笑った。


「今から監査法人に入れ。ったく、社会的に潰されてたまるかよ」

「何、それ。私、そこまで底意地悪くないわよ」

「うわぁ… 全ッ然、信じられねーわ」

 軽い口調で言い合う蘭子と草壁を、穏やかな顔で見ていた早翔が「俺、やめる」とぽつんと口にする。

「会計士、やめるよ。俺には向かないと思いながら仕事してきたし、いい潮時だ」

「バカか。ここまで来て投げ出すなんてお前らしくないぞ。一度決めたんだから最後までやれよ」

 草壁は苛立ちを隠さず語気を強めた。


「大体、お前、俺のこと巻き込んで、自分は足抜けするつもりかよ」

「ごめん」

「謝るな。とりあえず資格取れ。持ってて損はない。人生、どこでどうなるかわからない。使えるぱいは多いほうがいい」

「へえ… クソガキもなかなかいいこと言うじゃない」

「うるせーババア。俺が言うわけなかろ。小島の言葉だ」

「小島?」

 二人のやり取りを半ば呆れて聞いていた早翔が、蘭子の問いに「高校時代の恩師だよ」と返す。


「とにかく、クソガキもババアもやめてくれ。ちゃんと名前で呼び合ってよ… どうぞ」

 早翔が両掌をそれぞれ蘭子と草壁に向ける。

 ばつが悪そうに視線をチロチロ動かしながら、草壁が「蘭子さん」と言うと、蘭子がニヤつきながら「きもちわる…」と呟く。

「蘭子さんは? 草壁か直也か…」

「直! 七瀬と同じ呼び方にするわ」

 すかさず草壁が「きもちわる…」と呟く。

「二人とも何なんだよ…」

 早翔が呆れた笑いを漏らすと、蘭子と草壁が声を出して笑い合う。


 ふと草壁の笑い声が途切れ、真顔になって蘭子に視線を向けた。

「俺、七瀬の代わりにはなれねーけど、何かあったら呼んでくれ。できる限りの協力はするから」

 蘭子の目が泳ぎ、一瞬戸惑いの表情を見せるが、すぐに唇をゆがめて半笑いで睨み返す。

「あんたなんかに七瀬の代わりができるとでも思ってるの」

「思ってねーよ!」

 間髪を入れずに声を荒げた草壁は、真剣な目で蘭子を見据えている。


「こいつはいつも俺の先を走って、俺を引っ張り上げてくれる優等生なんだ。何やってもかなわない。だけど、それが悔しくない。尊敬してるしあこがれてる。七瀬の代わりになんてなれるわけない」

 草壁が座り直して正座になる。

「七瀬はいつも飄々と涼しい顔してどんな難局も乗り越えるヤツだ。その姿を崩さないで欲しい。俺に泣きつくなんて本来の姿じゃない。こいつのこと無理矢理自分のものにして、ずっと縛り付けてきたんだろう。もう十分だろう。こいつを開放して欲しい。お願いだ。蘭子さん」

 草壁が深々と頭を下げた。その背中に、早翔が手を置く。


「直… ありがとう。かなり褒め過ぎで恥ずかしいよ」

「ね…」と同意を求めるように蘭子に顔を向けると、蘭子は柔和な笑顔で二人を見つめていた。

「子供は一人で育てるわ。まあ、うちは使用人がいるから正確には一人で育てるわけじゃないけどね」

 自嘲の笑みを浮かべながら、蘭子がゆっくりと身体を起こして座り直す。

「でも… そうね、父親役は使用人では無理だから。運動会とか授業参観とか、母親と大ゲンカした時に慰めてくれたり… そんな時は呼び出す。拒否権は認めないわ」

 蘭子が意地悪な目をして口角を上げ、ニヤリと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る