聖域

 芳ばしい香りが鼻孔をくすぐり、喉の渇きを覚える。

 薄っすらと視界に入ってきたのは、見慣れないモノトーンの景色だった。目線だけでぐるりと見回すと、キッチンカウンターの向こうでコーヒーを淹れている男の姿が目に映る。


 そうだ… 向井さんの所から直の部屋に逃げて来たんだった…

 早翔は昨夜の自分を思い返す。

 逃げて来たというより、気が付けば草壁のマンションの前に立っていたというのが正しい。


 草壁の顔を見るなり縋りついて、取り留めもなく何かわめいたような覚えはあるが、何をどこまで話したか定かではなかった。どうやら、泣き疲れてそのままソファで眠ってしまったらしい。

 向井が言う通り、まるでガキの所業だと苦笑する。

 ゆっくりと身体を起こすと、軽いめまいで目を閉じる。


「起きたか。朝メシ作ったから顔洗ってこい」

「すまない… その色々と…」

 言いかける早翔の言葉を、草壁が「まずは顔!」と遮る。

「洗ってこいよ。酷い顔だぞ」

 そう言って、穏やかに微笑む。

 顔を洗って戻ってくると、ダイニングテーブルに朝食が用意されていた。


 何から話したらいいのか、言葉を探しながら、定まらない視点で顎に手をやっていると、草壁が半笑いで椅子を引く。

「どうぞ、こちらにお座り下さい… まずは食え!」

 早翔の口から思わず笑いが漏れ、同時に身体に残っていた緊張がほぐれていく。

 草壁は、ことさら他愛ない話題で、早翔の笑顔を引き出そうとする。その優しい心遣いが早翔の心を穏やかに落ち着かせる。


「昨夜は突然、ごめん… その… 色々と見苦しい…」

 食事が終わったところで切り出すと、その言葉を草壁がまた止める。

「何、水臭いこと言ってんだよ。俺は七瀬が頼ってくれて嬉しいよ」

「ありがとう」

 早翔が時計に目をやり、立ち上がる。

「忙しいのにすまない。そろそろ帰るよ」

「バカか、お前は。話はこれからだろう。今日は二人とも39度の発熱で仕事休むからな」

 草壁が、言葉を失い戸惑う早翔の腕を掴んでソファに座らせ、自分は傍らに置いたオットマンに腰掛ける。


「窮地に追い込まれている親友を、何もしないで帰らせたりしない」

 真剣な瞳で真っ直ぐ早翔を見つめている。

「まず、お前は男娼なんかじゃない」

 言われて初めて、昨夜の記憶がよみがえる。

「俺は男娼だ。蘭子さんに身体を売って金を稼いできた。向井と関係を持つ代わりに仕事の便宜を図ってもらってたんだ… 最低の男だよ… 天罰が下ったんだ…」

 そんな言葉を口にした。

「蘭子とお前の関係は、セブンジョーの従業員なら皆、知ってる。あれは正当なホストとしての仕事の一部だ。お前の言葉を借りれば、俺だって身体売ってたことになるわ」

 草壁が顔をゆがめて苦笑する。


「散々世話になったのに、自分は薄情な人間だというのも間違ってる」

 草壁は立ち上がるとキッチンに向かい、二つのマグカップにコーヒーを入れて、一つを早翔の前に置いた。

「そもそもなんで恩義を感じる必要がある?」

 そう言って、コーヒーを一口すする。

「ホストもホステスも、安価なものから数千万の車やマンションまで、もらったところで恩義など感じない。彼らには贈与するだけの価値があると判断したのは客のほうだ。それと同じことだ」


 草壁が立ち上がり、早翔の隣に座り直して肩に手を回す。

「蘭子は客、向井はセフレ、どちらの関係もお前から求めたものじゃないだろう。お人好しもいい加減にしろよ。ここで関係を終えても、そんなもの裏切りでも何でもない。考えすぎだ。どうしてそう自分を追い込む。俺から見れば、お前はもう十分頑張った。そろそろ解放されて自分の生きたいように生きればいい」

 時々、草壁の手に力が入り、触れる指頭が早翔の肩に食い込む。

 その度に、粉々になった自尊心が少しずつもとに戻るような気がした。


 草壁は、浅いため息を一つ吐く。

「まあ、一言で言うならホストはお前みたいな律儀な人間には向かないってことだな。酒も弱いし… 昨日なんか紅茶にブランデー混ぜたらあっという間に昇天した」

 おどけた口調で片頬をゆがめる草壁を、早翔が目を丸くして見つめる。

「紅茶にブランデー… 全然気が付かなかった」

「お前の究極の舌がアホになるくらい、辛い仕打ちを受けたってことだろ。ったく、向井のやろう、許せんわ」

 草壁が眉根を寄せて顔をしかめる。


 しばらく沈黙した後、静かに口を開く。

「子供はどうするの。父親になれるのか?」

 早翔は大きくかぶりを振った。

「蘭子さんと結婚して家庭を作るなんて考えられない… 俺はゲイだよ。この先も自分にウソをついて… 自分を殺して生活するなんて… 気が狂いそうだ」

 早翔はうなだれ頭を抱える。


「お前の中に、本当に蘭子に対する愛情はなかったのか?」

「ない」

「夫婦のゴタゴタにまで関わって、蘭子の幸せを考えたのにそこに愛はないと?」

「ない」

 草壁がソファの背もたれにけ反った。

「10年近く関係を持っても何の情もわかないか…」


「情はある… でも、あるとすれば、友情だ。直に対するのと同じような友達としての情… それ以上でも以下でもない」

「いきなり蘭子を俺と同じレベルまで引き上げるか… 少し嫉妬するわ」

 その、ふざけた口調で吐かれた言葉を、早翔がフンと鼻で笑う。

「そんな不毛な嫉妬」

 二人は、お互い顔を見合わせ笑い合う。


 早翔が視線を逸らし、ゆっくりと真顔に戻る。

「笑わないで聞いてくれるか… 俺は恋がしたい。身体に衝撃が走るような恋… 好きになった相手が、俺のことも好きになってくれて、ちゃんと愛し合って… そんな出逢いがあれば…」

 ふっと草壁が笑いを漏らす。

 早翔が不満げに草壁を一瞥する。

「笑うなって言ったのに…」

「すまん。だけど、ガキの頃はそんなこともあるのかなあと思ってたけど、現実は、そうそう夢のような出逢いなんてないぞ」


「現実の生々しい世界で生きているから夢を見る。きっとこの先、素敵な出会いがあるかも知れない…なんてね」

 恥ずかしそうな笑みをこぼすと、草壁が「ガキだな」と笑う。

「それに、お前に言わせれば、まるで互いのインスピレーションを感じた一目惚れだけが、純粋な愛とでも言いたげだ」

 草壁が冷めた目で、大人びた笑みを浮かべる。

「愛にも、色々な形がある。突然芽生えるもんもあれば、付き合ってくうちに育む愛もある。様々な打算とも絡み合って出来上がる。それが現実だ」


 早翔に視線を向けると、その整った横顔の無垢な瞳が宙を見つめていた。

 その肩に優しく手を乗せる。

「蘭子も向井も、お前が身体だけだと思ってるだけで、あっちは十分に愛を感じてたんだろうな」

「俺にはない… あるとすれば…」

「友情」と、早翔が発するのと同時に、草壁も同じ言葉を重ねる。

「向井も俺と同レベルかよ」

 草壁が呆れ顔で笑うと、早翔は首を横に振りながら笑い返す。


「さて、そろそろ行くか」

 おもむろに草壁が立ち上がり、早翔を見下ろす。

「行くってどこへ」

「蘭子のところに決まってるだろ。父親になる気はないから堕ろしてくれって言いに行く」

 早翔の眉間に皺が寄り「無理だ…」と言葉が漏れる。

「ほら、行くぞ。お前の人生、あいつらのいいように振り回されるくらいなら、とことん抵抗してやろうぜ」

 草壁がはじけるような笑顔で笑った。

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