霹靂

 早翔が向井の仕事部屋に行った日からそれほど間を置かず、向井から連絡が来た。

「この間、会ったばかりだろう。今から編集と打ち合わせがあるから行けない… てか、当分行けない」

「まだそんな下らん仕事を続けてるのか。まあいい、終わってからでもいいから来い。大事な話があるから、必ず来いよ」

 それだけ言い放つと一方的に電話は切られた。


 早翔が受話器に向かって小さく舌打ちする。

 打ち合わせは予定より早く終わったが、すぐに向井の仕事部屋に向かう気にはなれない。書店に立ち寄り、手に入れた数冊の書籍を持って喫茶店に入る。しかし、本を広げても、すぐに集中力が飛ぶ。

 限界かもしれない…

 早翔が口の中で呟く。


 心と身体は別物だと割り切ってきた。

 蘭子と初めて関係を持った時、自分が相手に特別な感情が無くても、性別問わず誰とでも寝られるたぐいの人間であることに衝撃を受けた。向井と関係を持った頃には、何の疑問もなく、身体が外的刺激や性欲に忠実にできているだけだと、冷め切った頭になっていた。

 そもそも人間はそのように作られた生物なのだと思えば、襲いくる孤独や空虚も少しばかり薄らぐ。


 だが、今は向井に対する嫌悪感が早翔の心を浸蝕していく。向井の何が早翔の心をそうさせるのかわからなかった。ただ、向井と寝るくらいなら、見知らぬ誰かを相手にしたほうがマシだとさえ思ってしまう。

 俺って薄情なヤツ… 散々利用してきたのに…

 小さく呟き、息を一つ吐くと諦めたように席を立ち、向井のもとへと向かった。


 仕事部屋に着くと、向井が事務机に向かって書類を広げていた。

 早翔の顔を見るなり「遅い!」と怒鳴り、再び机上に目を落とす。

「先にシャワーを浴びてこい」

 当然のように、早翔を抱く気でいる向井の言葉に苛立ちを覚える。

 向井が顔を上げ、立ち尽くしたままの早翔に視線を送る。

「どうした」

「大事な話って何」

「まず、シャワーが先だ。浴びてこい」

「俺、今日疲れてるから、話を聞いたら帰るけど…」


 向井が無言で早翔を見つめる。

 沈黙に耐えかねて、視線を逸らす。

「大事な話があるっていうから、打ち合わせを切り上げて来たのに… 何もないなら帰る」

 早翔が向井に背を向けようとした。

「蘭子が妊娠した」

 不意をつかれて、向井を凝視する。

 一瞬、止まった思考が回り出す。

「蘭子さんが妊娠。へえ… 恋人いたんだ」

 特に驚くこともなく、薄い表情で無関心を隠そうともしない。


 向井が片頬をゆがめてニヤリと笑う。

「お前はバカか。蘭子が妊娠したことを口実に、俺がお前を呼び出して抱こうとしたとでも思ってるのか」

 早翔の顔から血の気が引いて行く。

 唇が震え視線が泳ぐ。

 向井がフンと鼻で笑う。

「そうだ。蘭子のお腹の子の父親はお前だ」

「う…そ… うそだ…」

 ようやく出た声がかすれていた。

「そんなはずない。ひ…避妊薬を飲んでるって…」

「避妊薬が完璧ではないなんて今どき、高校生でも知ってるぞ」

 向井があからさまな嘲笑を浮かべている。


「蘭子さん、どうするつもり… まさか生まないよね」

「お前はどこまでもバカだな。堕ろすならわざわざお前には知らせんだろうが」

「俺… ホストだよ。金で買われたホストの子供を生むの… 蘭子さんが…」

 早翔がすがるような目で向井を見る。

「蘭子にとって、お前はすでにホストではない。試験に受かれば自社の会計士だ」

「そんな…」

 言葉を詰まらせる早翔の眉間には深い皺が寄り、首を左右に力なく振る。


「蘭子は37歳、出産するには最後のチャンスだろう」

 向井が立ち上がり、机上の書類を何枚か手にする。

「婚姻届はお前の名前を書くだけになっている。弟がいるから吉岡姓を継ぐ必要はないだろう。お前は婿養子として黒田家に入って、黒田七瀬になってもらう。なるべく早く社長に会ってもらうから、そのつもりでいろ」

 耳に届く言葉はどれも、ゲイを自覚した時から早翔の人生からは切り離し、無縁のものとして捨てたものばかりだった。


「こ…婚姻て… そんな… そんな勝手に事を進めないでよ」

「勝手も何も、お前の子供なんだから責任は取れよ。ガキじゃあるまいし」

 向井が鼻で笑いながらつかつかと早翔の前に歩み寄ると、顎に手をやり優しく持ち上げる。

「なんて顔してるんだ」

「あ…頭が混乱してるから… 時間が欲しい… 少し… 考えさせてよ… お願い…」

 震える声で哀願するように言う。


「どこに考える余地がある」

 向井が早翔の肩に手を置くと、傍らのソファに座らせ、自身もその隣に座る。

「お前はいわゆる逆玉だ。有り余る金と約束された将来が待っている。一体どこに不満がある。お前はすでに成功への階段を上ってる。自力で人生を切り開いたんだ。今までの苦労が報われたと思えばいい」

 向井の声が遠くの雑踏から聞こえる、ざわざわとした騒音のように早翔の耳を通り過ぎていく。うつむいたまま、時々、弱々しく首を左右に振る。

「考えられない… 子供なんて…」

 絞り出すように細い声で呟く。


 向井がふっと和かな笑みをこぼした。

「お前ももう少し年を取ったらわかる。ゲイかどうかに関係なく、自分の遺伝子は残したい。それが人間の本能だろ。実際に自分の赤ん坊を抱いてみろ。無垢な可愛い顔を見たら、そんな情けない顔で、自分は一体何を悩んでいたんだとバカらしくなるはずだ」

 諭すような穏やかな口調で語り掛ける。その瞳には、人生を悟ったような、自信に満ちた余裕の笑みを浮かべていた。


 早翔は、数年前、まだ向井と付き合い始めた時のことを思い出していた。

 ゲイだと噂のあった芸能人が、50歳を過ぎて結婚して家庭を持ったという芸能ニュースに、珍しく向井が反応した。

「性欲が衰え始めた頃合いを見計らって、女と結婚して子をす。まあ、金があるゲイなら普通に考える人生だよな」

 そう言って向井は軽く鼻で笑った。

「偽善だよ。相手の女性が可哀相だ」


 やれやれと呆れた視線で早翔を見る。

「俺が昔々に付き合ってた男も50で結婚した。男にモテる努力をしてたヤツだから、年齢に似合わず実にスマートで女にもモテた。今は娘にデレデレのパパで家族円満だ」

「そんなのニセモノだ。俺は好きになった相手とは一生添い遂げる」

 向井が目を丸くして早翔を見ると、ゲラゲラと声を出して笑った。

「お前はホント、青臭いガキだなあ」

 あの時の拒絶感は若かったからなのだろうか。だが、数年経った今でも何も変わらない。あるいは50歳になれば理解できるのだろうか。


「俺… 蘭子さんを愛してない…」

 早翔がぽつんと呟くように言う。

 向井が嘲るように声を出して笑う。

「ガキみたいなこと言ってんじゃない。愛だの恋だのそんなご大層なもんかよ。愛があれば金は要らないなんて、金を稼げないヤツの言う言葉だ。俺はお前にババを引かない人生の歩き方を教えてるんだ」


 向井は遠くを見やると、唇をゆがめてふっと笑みを浮かべる。

「これでお前と俺の立場は同じになるな」

 早翔が顔を上げて向井を見る。その横顔が、邪悪な清々しさで早翔を雁字搦めにしていく悪魔に見えて、背筋が凍り付く。

「ごめん… もう無理だ。俺、向井さんとは… もう無理だ」

 よろよろと立ち上がる。

 向井が氷のような冷たい目で睨み付けると、やおら立ち上がり、早翔の腕を掴んだ。


「いいか、よく聞け。子供が生まれたら、お前の人生観などどうでもいい。子供に精一杯愛情を降り注いで幸せに育てることだけだ。それがお前のこれからの人生だ」

 早翔の腕を掴む向井の手に、なおも力が入る。

「お前に拒否権はない。父親の責任を果たせ。この話を断るようなことがあれば、社会的には終わったと思え。間違っても、会計士に必要な実務経験の報告書を発行してもらえるなどと思うなよ」


「やめてくれ!」

 叫ぶと同時に乱暴に向井の腕を振り解く。

 いつの間にか潤んでいる早翔の目を見て、向井が冷たく笑う。

「今度は泣き落としか… ガキが!」

 早翔は咄嗟に向井の部屋を飛び出していた。

「待て! この野郎!」

 叫ぶ向井の言葉を背に、早翔は必死に走っていた。

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