それはもう二度と訪れなかった瞬間の
雪が降りしきる中、一人の少女の願いを叶えるために再びカメラを手に取った。どうしようもない苦しみを隠しとおせる自信などどこにもなく、抱きしめた身体はまだ暖かくて、それがどれだけ安心出来たのか、そして悲しみを助長させたのか君は知らないだろう。
頬から流れ落ちた涙は一時の熱を放つ。けれど冬の寒さが一瞬にして温かみを奪っていく。星は頭上に、そして腕の中で輝いていた。
君を星にすると決めた、十二月の出来事だった。
そこから約二か月ほどが経って、目の前の光景に思わずため息を吐いた。
「で?」
「今日も学校お疲れ様ー」
「…だから何で待ち伏せしてるんだよ」
夕暮れに染まる住宅街、一車線ほどの狭さしかない道に電柱が立っている。一見、何の変哲もない電柱だが、この数か月で電柱は僕にとって何の変哲もない風景ではなくなってしまった。
電柱の影から見える身体は今か今かとこちらを待ち構え期待と共に揺れている。オレンジに染まった世界で伸びる華奢な影はシルエットだけで楽しそうな様子が伝わってくる。道路に写るそれに、足を止めたのはもう何度目か分からなかった。
「なんとなく?」
「自分の立場分かってる?」
世界が愛する若手人気女優、夜通あかりはレンズの厚い眼鏡をかけ、分かってる分かってると笑いながらその場で回る。画面に映る着飾った女優とはかけ離れた格好であるが、紛れもなく目の前にいる人間は人気女優である。そう、紛れもなく。
「だってこんな眼鏡かけてるのが私だって分かる人少ないと思う」
「分かるよ、隠せてない」
「ええー、そうかな」
中学時代、と言っても一時だが君はこの分厚い眼鏡をしていた。元々目が悪い君は眼鏡がないと何も見えなかった。しかし眼鏡を止めコンタクトレンズに代わってからこの分厚い眼鏡を人前でかけることはなくなった。僕としては見慣れた姿であるが、まさか女優夜通あかりがこんなにもださい眼鏡をかけているとは誰も思わないだろう。
眼鏡からコンタクトレンズに代えた理由に少なからず僕も関係する。眼鏡と長い前髪が君の良さを全て消しているような気がしたのだ。案の定、前髪を切り眼鏡を止めたらこの変わりようだ。素材殺しとはよく言ったものである。漫画などで眼鏡を外したら格好良かった、可愛かったなどという展開が多いが、多くの人にとって君はそれに該当するのではなかったのだろうか。
もっとも、僕はその眼鏡の下に隠された美しさに一番早く気付いた人間でもあるのだけれど。
「いいのいいの、宵くんが気づいてくれればそれでいい」
「そうですか」
「あーそのどうでもよさそうな顔よくない!」
頬を膨らませ腕を組んだ君の手に、紙袋が握られているのが見えた。珍しいこともあるものだ。君がここにいる時は基本的に何も手に持っていない事がほとんどである。大事そうに紙袋の持ち手を掴むその手は寒さによって赤くなっていた。
少しずつ世界は暖かさを取り戻しているがまだ空にはシリウスが輝いている時期だ。ここで待ち伏せをするのは身体に良くない。それでも君は僕を待つ。僕としては一秒でも早く家に帰ってじっとしていてほしいのに、君はその願いを叶えてはくれない。
大きくため息を吐き制服のポケットに入れたままのカイロを手に取る。まだ温かさをまとうそれを君の手に握らせる。驚いてこちらを見る君に何だか無性に腹が立ってきた。どうして人の心配を直に受け入れようとしないのだろうか。
一秒でも長く、この世界にいるために努力して欲しかった。
「うふふ……へへ…」
「何その気持ち悪い笑い方…」
「何でもないよ、うへへ……」
カイロを握りしめ頬にあてる君の笑い方は相も変わらず癖が強い。一見完璧だと思える君の唯一駄目な所はこの笑い声だろう。表情は綺麗な笑みを浮かべているのにも関わらず声は控えめに言っても気持ち悪い。けれど、僕はこの笑い声が嫌いではなかった。
「ありがとう」
「別に使ってたやつだし」
「そんな優しい宵くんに!」
「あ、これ話聞いてないな」
「じゃーん!プレゼントです!」
手に持っていた紙袋を差し出され、今度は僕が驚く番だった。深紅の紙袋には黒字でどこの国の言葉か分からない言語が綴られている。何も言わずそれを受け取り中身を見たが、長方形で白いリボンがかけられた箱が入っているだけだ。
「これ何」
「え」
「え?」
「嘘でしょ宵くん」
「何が?」
「さすがのあかりちゃんも驚きを通り越して引いてるよ」
「だから何が?全く持って話が見えないんだけど」
一体何だってこんな事を言われなければならないのだ。僕にはこの紙袋の意味も、中に入った箱が何を表すかも全く持って見当がつかない。眉を顰め紙袋を凝視する。果たしてプレゼントを貰う理由はあっただろうか。誕生日はまだ先だし、普段から何かをプレゼントされるような人生を送っているわけでもない。
皆目見当がつかないと思っていたその時、見かねた君がはい、と声を出した。
「今日は何日でしょう?」
「今日?二月……十四日?」
「そうです」
「だから何が……あ」
「やっと分かった?」
嬉しそうに笑みを浮かべた姿を見て、ようやく答えにたどり着く。
「バレンタイン」
「せいかーい!!」
全く分からなかった。この手のイベントには疎いので存在すら忘れていた。妙に納得した僕はようやくこの箱の中にチョコレートが入っている事を知る。
「今日ね、お仕事の帰りに美味しそうなお店見つけて。だから買ってきてみました!」
「ありがとう、びっくりした」
「ちなみに宵くんにしか渡してないからね」
そう言い眉を下げる君を見て、どうしたってずるいと思った。この先に続く言葉をお互い言う気はないくせに、この先なんてどこにもないくせに、君は僕に呪いをかけていく。分かり切った想いを形にできない僕らはこんな風にしか想いを消化させることが出来ないのだ。
唇をかみしめた。口から出かけた愛の言葉をかき消し息を吐く。君は僕の気持ちなど知らず一歩先を歩き始めた。
「あ、お返しはいらないよ」
「欲しがると思った」
「いらないーあげたくてあげただけだもん」
「でも貰ったからには返さないと悪いだろ」
「じゃあさ」
不意に振り返った君が悲しげに微笑んだ。長い髪が宙を舞い、夕日が影を作る。一瞬だった。それでも、僕の脳に残るには充分過ぎる時間だった。
「来年もここにいたらちょうだい」
「は……」
それだけで僕の表情は歪む。君は約束と言って背を向け歩き始めた。立ち止まった僕はずっと、その場で離れ行く背を見ていた。
どうしたってずるいのだ。約束だなんて、叶える気もないくせに。来年なんて、ないと自分が言ったくせに。僕ばかり別れの悲しみを堪えている気がした。再び唇を噛み締め歩き出す。小さな背中を軽く叩けば大袈裟に痛がり笑う君に、ばーかと一言だけ口にした。
「ばかでいいよ」
「……ばーか」
それはもう二度と訪れない一瞬で、もう二度と繰り返されない時間でもあった。
来年の僕はどんな気持ちでここにいるのだろうか。
答えはまだ、出ないままで。
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