砂時計の刻む風景

藤田小春

短編

【ケムリの話】

 彼の名は誰も知らない。

 白い広い洋館に一人で住んでいる。

 その洋館の白さに負けないくらいの色白の肌と白髪の髪を持ち、真っ赤な目をした儚げな彼は、誰が呼び始めたかケムリで通っている。


 ケムリのトレードマークは点滴だ。彼自身物心付く前から栄養点滴を受けて育ってきたので、それはもはや彼の一部だった。


ふとした時に、点滴のチューブの先端で逆流する自分の血を見るのが彼の癖だった。生きるという事にこだわりが無い彼にとって、その淡い淡い赤が自分の生きている証であった。


そんな彼の特異さか、それとも洋館の魔力か、ソコにはある特徴があった。人生で迷子になってしまった手紙やメール、そして人までも呼び寄せてしまうのだ。そこで仮初めの安らぎを受け取って迷子たちは帰っていく。

さぁ、今日も今日とて迷い子が来たようだ。



【クボタの章】

 午前二時少年は走っていた。

 どこへ行く当てもなく。

 でも何かから逃げたくて。


 最初は親に内緒で散歩に行くだけのつもりだった。眠れない夜が続いていて、動物を数えても、音楽を聴いてもダメで。家にあった本も読んでしまって。


 家族みんなが寝静まった深夜一時、こっそりと靴を持って裏口から抜け出して、砂利の所は裸足でそーっと歩いた。

 土手を一周したら帰るつもりだった。

 でも、土手の端まで行って、川に沿ってどこまでも真っ直ぐ伸びる道路を見た瞬間に強い衝動に駆られてた。この道をどこまでも行きたいと。


 そして夢中で走った。


 やがて道が無くなって、川に沿った草むらだらけの獣道になっても走って走った。足の切り傷も、服の破れも全然気にならなかった。獰猛な犬の鳴き声も少年の妨げにはならなかった。走る。その行為がただただ楽しかった。時折真っ暗な暗闇の中で、遠くから近づいて来る車の黄色くて丸いヘッドライトが綺麗だなぁとぼんやり思いながら走り続けた。


 何時間走ったのだろう。空が白み始めた頃、目の前に白い白い洋館が経っているのがぼんやりと見えた。薄れ行く景色の中で、はっきりと認識したのは洋館の白さよりも白い、透明感を持った美しい男性の姿と、その男性が発した「いらっしゃい」と言うどこまでも優しい声だった。



【アヤの章】

 いつも通りのまどろみ。太陽の光を感じながら布団の中で30分ほどごろごろするのが僕の至福の時。見慣れた柄の枕カバー、寝返りをうった時に見える青いカーテン…

 おかしい、今日は見渡す限り白の海だ。真っ白な枕カバーに真っ白なカーテン、壁紙。いつもとは違うちょっとした違和感が僕を覚醒へと導いていく。決定的な非日常は、お玉でフライパンを叩く音と同時に聞こえた。

「おーい、起きろー!起きなきゃお玉でお尻をひっぱたくぞー!」

と言う声だった。…内容さえ無視すれば可愛い声なのに。しかもフライパンを叩きながらっていつの時代の話だよ。


 完全に目が覚めて、クボタは昨日体力の続く限り走り抜けたことを思い出した。おそらく意識を失う前に見えた白い洋館の人が助けてくれたんだろうと自分の現状を考えていると、フライパンとお玉を持った女の子がドアから現れた。長いさらさらの黒髪にグレーの瞳。クボタより3,4歳年上だろうか?細くて色白の彼女が纏っている服は所謂ゴスロリで、フライパンとお玉が恐ろしくそぐわない。しかし、そのミスマッチを考慮に入れてもとても綺麗で、彼女が喋りだすまで、クボタはたっぷり5秒は見とれていた。


「おはよー、よく眠れたみたいだね。君お腹すいてるでしょ?すっごく疲れたのか昨日は丸一日寝てたんだよー。いろいろ知りたいこともあると思うけど、とりあえずはご飯だ、ご飯。今日は牛乳にオレンジジュースに、グレープフルーツにスクランブルエッグに、ハムときゅうりのサンドイッチだよ。コンチネンタルブレックファーストとはいかないけど、あたしの自信作だから、残さず食べるんだよっ!」

 どこで息継ぎしてるんだろう、話しかける隙もないし、見た目とキャラが違い過ぎないか?と内心思いながら、食堂へと案内する彼女について行っていると、彼女はおもむろに振り返ってこう言った。

「忘れてた!あたしはアヤって言うの。アヤって呼んでね。さん付けなんてしたらぶっ飛ばすよー。」


 食卓につくと、クボタの前には見事なブランチが、アヤの前には湯気の上がっている紅茶と、スコーンと、そして砂時計が並んでいた。アヤは慣れた手つきで砂時計を引っくり返すと、流れるような動作で椅子に腰かけた。


「君、よく寝てたねー。今は3時過ぎだから、丸一日半は寝てたよ。もう十分睡眠欲も満たされたと思うし、今度は食欲だね。自分で言うのもなんだけど、あたしは料理得意だよ。さぁ、食べて食べて!!」


「君っていうのやめてもらえませんか?僕はクボタって言うんです。」

 アヤの勢いに押されながらも、反論した後、言われるがままに料理を口に運んだ。確かにおいしい。両親が共働きで、いつも冷めた料理を温めなおして食べていたクボタにとって出来立ての料理はごちそうだったのだ。


「さっきは生意気言ってすみません。料理とてもおいしいです。ところであのー…」

 クボタの発言を遮るかのようにアヤは再び話し始めた。

「クボタくんごめんね。まずは今どうなってるかを知りたいよね!ここはケムリさんのおうち。クボタくんを見つけてベッドまで運んだのもケムリさんだよ。ケムリさんは、色が白くて、いつも点滴をつけているのがトレードマークかなぁ。とっても優しい人だよ。」

「あぁ、じゃあきっと僕が気を失う前に見た、幻想的なまでの透明感を持った男性がケムリさんですか?」

「うん、そうだよ。じゃあここで問題。ケムリさんと私は一体どんな関係でしょう?」

…親子にしては年が違い過ぎる。兄妹というには似ていない。そもそもアヤさんの身内なら「ケムリさん」とさん付けするのはおかしい…


 クボタが答えに窮しているうちに、アヤはカウントダウンを始めた。

「3・2・1・0.はい終―了。残念でしたぁ。正解は、他人で、メイドで、カウンセラーとその患者でした!」

 クボタは必死で苦笑を抑えたのだが、アヤは敏感にそれを読み取って、プーッとふくれっつらをしてまくしたてた。

「あーっ、もう信じてないでしょ?でも、自分の経験したことなら疑いようがないよね。ここからはちょっと不思議な話になるけど、コレはほんとのほんとなんだからね!」

 アヤは真剣な表情になって語り始めた。



「ねぇ、クボタくん。クボタくんがこの家に出会ったときはどうだった?今まで何もなかったはずのところに急にもやがかかって、その中からぼんやりと現れなかった?

 それは実はこの家が時空の繋ぎ目になっていて、世界で迷子になっちゃったモノ達の前に現れるからなの。だから、世界にしっかり居場所があるモノ達にはこの家は決して見えないし、この家にいた迷子達も、自分の居場所を見つけたらそれぞれひとりでにこの場所から旅立っていくの。この家に訪れる迷子は千差万別で、小さいものは濡れて宛先が読めなくなった手紙から、大きいものは彗星までね。勿論、人間もたくさん来るよ。あたしやクボタくんみたいにね。この家の住人で、時空の管理者でもあるケムリさんは、決して無理強いはしないの。迷子達の訴えたい事に耳を傾けて、喋りたくなったらその話を聞いてくれるの。ケムリさん自体はあんまりお喋りをする人じゃないんだけど、一緒にいてくれるだけでほっとする、そんな人なの。だから私にとっては、心から信頼できる相談相手なの。ただ、そんなケムリさんにも一つ欠点があって、潔癖と言えるくらい綺麗好きなのに、こと食べることに関しては、空腹感を感じない体質のせいか食生活がとてもぞんざいなの。だから、ここにただで居付いているのも悪いし、自発的にお料理をさせてもらってるの。それが、他人で、メイドで、カウンセラーとその患者って言う答えの理由。分かった?」


 クボタは話半分に聞いていたが、意識を失う前に見た男性の不思議な雰囲気や、この世のものとは思えないくらいの優しい声や、この館の不思議さは否定できなかった。まぁ、ここを出ても居場所はないし、ありがたく居座らせてもらおうと思い、アヤに問いかけた。


「何となく分かりました。ところで、ケムリさんはどこにいますか?」


「あぁ、ケムリさんなら庭で水遣りをしているか、時空管理室で地球儀を見ているか、書斎で本を読んでるかだよ。この屋敷はどこでも自由に移動していいから、食事が終わったら探検がてら、ケムリさんに挨拶をしてみるといいと思うよ。さぁ、さっきからお箸が進んでないぞ。食べた食べた。」


 アヤはのどを潤すかのように紅茶を一口含むと、砂時計の砂が全て落下しているのを確認してから、タブレットを取り出して飲み下した。クボタは、その一連の手慣れた動作に気を取られて、ついアヤを凝視してしまった。その視線に気が付いてアヤは口を開いた。

「これはねー、プラセボ。偽薬。何の効果も無いんだけど、こうやって薬を飲むのはあたしの癖になっちゃってるの。いわば儀式みたいなものかなぁ。バカバカしいとは思うんだけどね。」


 少し自嘲的になったアヤを見て、クボタは自分の行動の迂闊さを呪ったが、もはや後には引けないと感じてアヤに尋ねた。

「アヤさんはどこか悪いんですか?あ、答えたくなかったら別にいいですから。さっきは凝視しちゃってごめんなさい。」


「あはは、いいよいいよ。気にしないから。でもそうだなぁ。こうなったらクボタくんにアヤさんがケムリさんちに辿り着いた経緯を聞いてもらっちゃおうかなぁ!」

 紅茶をごくりと飲むと、アヤは意を決したように話し始めた。

「アヤさんはね、奇病なの。薬を飲まないと体が砂になってサラサラ溶けて行っちゃう奇病。発病に気が付いたのは小学校の入学前かな。友達とフローリングの床の上で裸足で走り回って遊んでいたの。そしたら、気が付いたら砂がパラパラ落ちてて。気にしないで遊び続けてたら、ちょっとずつ砂が増えていくの。そして、足に違和感を感じて右足を見たら、薬指と小指が無くなってたの。すぐに家に帰ってお医者さんに連れて行ってもらったんだけど、そんな病気にかかっている人は世界中探しても誰もいなくて、一年かかって開発されたのは、体の砂化の速度を極めてゆっくりにする薬だけだった。薬を待っている間の一年間は長かったなぁ。5時間で砂になっちゃう時もあれば、6か月間ずーっと砂にならない時もあった。砂になる期間は一定じゃないって事がその一年で分かったけど、だからと言って薬をサボろうとは一度も思わなかった。自分が自分じゃなくなる感覚ほど悲しいものは無いからね。薬は高価だったけど、幸いうちはお金持ちだったから、薬には不自由しなかったの。でも、あたしの体の事が物好きなお金持ちたちにばれて、あたしたち一家は色んな人に追われるようになって、引っ越しも数えきれないくらいしてきたよ。お父さんもお母さんも、あたしの事を行ける肉塊としか見ない人には渡せないって十年以上頑張って逃げ続けてくれた。でも、あたしも含めてもうみんな疲れちゃって、みんなで一緒に遊園地に行って想い出を作ってから、あたしは家族と別れようと決めたの。どこかで砂になって緩慢に自殺してもいいとすら思い詰めてたの。

 そして、家族と遊園地で最後のお別れをして、あたし一人閉演後の遊園地に残ってたたずんでいた時、まるであたし専用にパレードをしているみたいに、もわもわとスモークがたかれてる中から、白い白い大きな屋敷が現れたの。それが、この家との出会い。そんな訳で、今は薬がないから飲めないんだけど、儀式はやめられないからね。プラセボを飲んでるんだ。」


 ただ、日常が退屈で息苦しくて、未来に訳もなく閉塞感を感じてここに辿り着いてしまったクボタには、アヤの話は重すぎてパッと気の利いたことも言えなかった。下を向いて考え込んでいるクボタにアヤは更に言った。

「よかったら右足見せちゃうよ!それともキモくて見たくない?」

「なぁ、どうしたの?なんか言おうよ?」


 考え込んでいたクボタは意を決したように立ち上がって、声を荒げた。

「アヤさん、そんな空元気、見てて痛々しいですよ。まだ会ったばっかりだけど、アヤさんの辛さもわかんないけど、まだ諦めるのは早いじゃないですか!僕は何となくここに辿り着いちゃっただけのどうしようもない奴だけど、ここは時空の狭間なんでしょ?

 偶然ここにアヤさんが辿り着いて砂にならなくなったように、アヤさんの病気の特効薬を持った人間が現れるかもしれないじゃないですか!僕も出来ることがあったら何でもしますよ。とにかくやけにならないで下さい。」


 アヤは一粒の涙を流しながら呟いた。

「あはは、もう、やられたなぁ。ケムリさんの前以外で泣いたのは初めてだよ。うん、もう諦めないよ。せっかく何でもしてくれるんだったら、アヤさんじゃなく、アヤって呼んでもらおうかなぁ。ね、クボタ!」

「はいっ、アヤさっ…。アヤ。」

「こうして食卓は二人の笑い声につつまれた。」



【ショウの章】

『夢を見た

 サラサラと人が溶けてしまう夢を

 何度も見たその現実が

 何度も見たその夢が

 今日に限って色褪せなかったのは

 溶け行く黒髪の少女があまりにも美しく

 後に残されたグレーの瞳が 

 今までに見たどんな宝石よりも美しく

 切なかったからだろう』



 打ちっぱなしの建造物の中で、粗末な毛布に包まっていた少年、ショウは覚醒した。眠りは、夢は、辛い現実からの一時の逃避。しかし、ショウにとっては夢さえ逃げ場にはなりえなかった。現実は分け隔てなく厳しいものだった。ショウの世界では環境汚染が進み、人体もあらゆる建造物も分け隔てなく容赦なく溶かしていく酸性雨の影響で、地球は最早人が住む場所としての環境を保っていなかった。唯一残っている構造建造物の地下に人々は集まり、地下水を飲んで生きながらえている。しかし、その地下水ですらここ50年の間にじわじわと汚染が進み、人は体内から病んでいきつつある。現在、この世界では、ほとんどの人々が、体が砂になって溶けていく通称サンドクロックで命を落としている。

数少ない医療関係者はこの病を放置しておく事は出来なかった。政府と言うにはあまりにも貧弱だが、上層部の命によりサンドクロック研究に従事し、特効薬も発見された。それは、サンドクロックによって死亡した人々の砂から一つまみだけ取れる、赤い砂を砕いたものだ。しかし、その砂は貴重なため、政府によって死亡が確認されたサンドクロック患者の赤い砂は即回収され、富裕層にしか出回らない。その結果、人口の9割を占める貧困層では特効薬があるにもかかわらず、サンドクロック患者の死亡は日常茶飯事になっているのだ。


 そして、ショウには夢さえも厳しい。ショウの夢の中で死んだり、死を暗示されたりした人達は、例外なく一週間以内に死んでしまうのだ。時には、夢のとおりに死ぬこともある。人の死においてのみ特化した正夢であろう。初めてショウの前で死んだのは、可愛がっていた愛犬のケンタだった。夢の中でケンタはショウが酸性雨の降りしきる野外にマントを羽織って狩りに行っている間に、一人静かに眠りについていた。ケンタはその夢の通り三日後に亡くなった。ケンタ以外にも、親戚のおばさんや従兄、仲の良かった友達や可愛がってくれたお兄さんなど、何人ものお別れを味わってきた。死を前もって知ってしまうなら、何かできるかもしれないと、ショウは孤軍奮闘で頑張った。しかし、大人は誰もショウの能力を信じてくれず、どんなに頑張っても死の運命を変えられないと悟ったショウは、いつしか自分には死をみとることしか出来ないんだと思うようになった。若干12歳の少年が認めるには辛い事実だったろう。だから、サンドクロックにおかされた少女の夢を見たとき、最初は食傷気味だった。それでも、少女のあまりにも切ない瞳を見た時に、再び昔の情熱が戻ってきたのだ。自分は、この少女のために何かできるかもしれない、と。

 幸い、身寄りもなくたった一人で死んでいくはずだった人も看取ってきたので、政府が回収しそこねた赤い砂を、お守りに入れて首からぶら下げている。

「神様、できるならば僕に彼女の夢を見せてください。そして、彼女に会うヒントをください。」

 こんなに能動的に夢を使おうとしたのは初めてだった。ショウは今までにないくらい熱心に祈りながら、眠りについた。


「ケムリさーん、ケムリさーん。どこですか?」

だだっ広い洋館のだだっ広い廊下を歩きながら、クボタは一つずつ重厚な扉を開けては、中の様子を確かめた。アヤが言っていた通り、ケムリさんは潔癖なくらい綺麗好きなようだ。どの部屋も埃一つ落ちていない。乱雑になりがちな書斎でさえ、大量の本を見事に収納している。…それはともかく、ケムリさんはほんとどこにいるんだろう?もう、突き当りの大きな扉しか残ってないぞ。ココン、と軽快にノックして扉を開けると、体の右側に点滴を置いた細身の男性が見えた。彼がケムリさんに間違いないだろう。しかしクボタはケムリさんを発見したことよりも、部屋の中の一種異様な雰囲気にひるんでいた。部屋の中にはアンティーク調の地球儀が大小問わず部屋からこぼれそうなくらい溢れていた。浮いている地球儀あり、回っている地球儀あり、停滞している地球儀あり。一面黄土色と茶色と緑色に支配されていて、やっと通れそうなのは、ドアからケムリさんが立っている場所までの細いラインのみだった。呆然として部屋を眺めていると、おもむろにケムリが振り返ってこういった。

「いらっしゃい、クボタくん。ゆっくりしていってね。」

「何で僕の名前を知ってるんですか?まだ一言も自己紹介してないですよね?」

「僕はここに来る人の事なら大体なんでも分かるよ。僕は空間の管理人だからね。ここにいくつもの地球儀があるでしょう?これ一つ一つが君たちの世界なんだ。この幾つもの世界を見届けるのが僕の仕事なんだ。そして、その世界から時々飛び出しちゃう迷子がいて、そんな人やモノの居場所を作るのも僕の仕事なんだ。

 ところで、唐突なんだけど君に一つお願いがあるんだ。アヤちゃんの事なんだけど、彼女は本来、君の世界のアヤちゃんが幸せに暮らしているように、アヤちゃんの世界でも幸せに暮らしている予定だったんだ。しかし、僕が彼女の世界の地球儀を手入れしている時に、ほんのわずかに擦り傷をつけてしまったんだ。そのひずみが大きくなってしまって、今アヤちゃんはここにいる。アヤちゃんがここを訪問するのはイレギュラーな事態なんだ。でも、僕の仕事は見る事だけ。傍観者の役割から逸脱してはダメなんだ。そこで、僕が出来うる限りの干渉をしてみたんだが、僕に出来たのはこの屋敷を訪れる可能性を持った人の時期を左右することだけだったんだ。それで呼んだのが君なんだ。君はこの地球儀に干渉して空間移動する人を補助する能力があるはずなんだ。すぐには出来ないかもしれないが、よかったらアヤちゃんのために協力してくれないか?」

 はい、勿論です。心の中でクボタが答えると、ケムリは柔らかく微笑んだ。



『夢を見た

 急激に崩れ落ちていく少女

 たくさんの地球儀

 それに向かって手を掲げるメガネの少年

 後ろで心配そうに見守る白い青年

 白い洋館

 地球儀地球儀地球儀

 そして暗転

 吸い込まれる暗闇』


 いつ始まるのかは分からないが、少女のサンドクロックの速度はショウが見たこともないような速さで進行し始めるようだ。急がなければ少女に会えない。夢で何か少女に会えるヒントはなかったか?どうやら彼女は白い洋館で、儚げな青年と、眼鏡をかけた少年と一緒に暮らしているようだ。しかし、白い洋館は風化もしていない綺麗な様子で立っている。少女は自分の住んでいる世界とは全く違った空間にいるのではないかと思い至った時、ショウは古くから伝えられている歌を思い出した。

 

 白い青年。赤い血。

 真っ白な洋館には

 真っ白な心を持った青年が住んでいる。

 霧に包まれた白い洋館は

 時の支配者、時間の王様。

 さぁ、走って行こう。

 さぁ、目を凝らそう。

 今は無き、緑の木が洋館への道標。

 砂をかき分けて、木の周りを三周して

 祈りを捧げよ。

 鮮やかな色の世界が幸福を招くだろう。


 古い伝承に頼るのはバカバカしいことかもしれない。しかし、他に手立てが無い以上、わらを掴んででも少女に会う手段を見つけるべきだ。ショウは聞き込みやその検証作業に取り組み、三日後にやっと伝承の緑の木を発見した。南に五日歩いて行ったところにぽつんと立っているという事だったが、五日もかけたら一週間の期限をオーバーしてしまう。ショウは急いでしっかりとした旅支度をして、強行軍で緑の木に向かうことにした。


 ショウが夢を見てから七日目、クボタはケムリの指導の下、特効薬を持った人物がどの世界にいるかを検索すると同時に、空間干渉の訓練をしていた。ショウのいる世界は五日後に分かったものの、空間干渉の方はなかなかうまくいかず手間取っていた。

 空間に裂け目を入れて手を突っ込むところまではうまくいくのだが、磁場がめちゃくちゃで上下左右の感覚すらごちゃ混ぜになってくるワープ空間では、たとえ体の一部だけの侵入でも全身に違和感が走り、酔ったような感覚に襲われるのだ。何度か休憩を取りながら、クボタが練習を続けていると、アヤの切羽詰った悲鳴が聞こえてきた。

「僕が様子を見に行く。クボタくん、君は万が一のためにいつでも空間干渉をして、これからワープしてくる子の手助けをしてやってくれ。」


 ケムリが様子を見に行くと、アヤは頭も肩も腕も足も至る所で砂化が始まっていて、いつアヤと言う形が消えてもおかしくないくらいになっていた。崩れ落ちそうなアヤを抱きとめながらもケムリは自分を責めずにはいられなかった。

 …あの時の小さな傷がこんな結果を引き起こすなんて。この急激な変化は、僕の家に着いてから薬をきちんと飲んでなかったせいだろう。僕は傍観者にすぎないというスタンスを捨てて、ショウくんの世界から特効薬を取ってきていればよかったのか?クボタくんやショウくんに頼らず、僕が自らなんとかするべきだったのか?これが、僕の引き起こした結果か。せめて、アヤちゃんには生きてほしい。頼む、クボタくん、ショウくん。


 同じ頃、ショウは緑の木に辿り着き、詩の通り木の周りを三回回って祈りを捧げると、木の根っこの方に、人一人がようやく通れるくらいの大きさの真っ暗な深い深い穴がぱっくり開いた。ショウは意を決して飛び込んだ。真っ暗な無音の世界。一分が0.0001秒にも100万年間にも感じる気の狂いそうな空間。三半規管は機能を停止し、ショウは完璧にワープ空間で迷子になった。それでも、ショウはあの少女を助けたいと思い続け、永遠にも思える孤独に耐えきった。どのくらいの時間が経ったろうか。ショウの頭に直接、ショウと同じくらいの年代の少年から声が送られてきた。

「やっと見つけた。遅くなってごめんね。でもとりあえず話は後だ。僕がこっちに引っ張るから僕の手をしっかり掴んで。」

 声が聞こえるや否や、空間を割いて右腕が出現し、ショウはその手に力強く引っ張られた。


 どてん。大きな音を立てて二人とも床にひっくり返ったが、すぐに立ち上がって、アヤがいるであろう玄関ホールに急いだ。しかしそこで待っていたのは、アヤを支えていたポーズのままで固まっているケムリと、ケムリの腕の中にパサリとかかっているアヤの服と、そしてケムリの足下に山盛りになっている砂だった。


 それですべてを理解した二人は

「間に合わなかったんだ…」

とポツリと呟いたまんま、その場に崩れ落ちた。三時間もそうしていただろうか、ようやく平静を保って見せられるようになったケムリが二人に話しかけた。

「アヤちゃんはね、全部なくなっちゃったわけじゃないんだ。砂は庭に埋めちゃうけどね、これを見て。アヤちゃんが二人に残したものだよ。」

 それは、アヤの印象的なグレーの瞳が結晶化したものだった。宝石のように美しいそれをポケットに入れて、二人は泣きながら眠った。


 その日ショウは夢を見た。アヤの残したグレーの瞳が光って、ホログラムのようなアヤが出現してショウに話しかけてくる。

「ありがとう、全部この瞳で見てた。ショウくんが薬を届けてくれたことも、クボタがショウくんを案内してくれたことも。この世界であたしは死んじゃったけど、でも君たちの世界で必ず別のあたしに会えるから。このグレーの瞳は取っておいて。そしてケムリさんにも伝えておいて。人生の最後をケムリさんの家で迎えられて本当に楽しかった。ありがとう。あたしの病気の事なんて気に病んだりしたら怒るからねって。」

 翌朝ショウは、二人にアヤからのメッセージを伝えた。クボタはちょっと照れたようにメガネをくいっと上げて、ケムリさんは少し涙ぐんでいたようだった。そして、三人で最初で最後のブランチを食べると、二人はしっかりとアヤの瞳を持って、それぞれの世界に帰って行った。



 そしてそれぞれの生活が始まる。

 夜に走るのはもうやめた。

 朝の爽やかな空気の中、時々走る。

 もう、あの頃の君くらいの年になったかなぁ。

 あの頃感じた閉塞感が嘘みたいだ。

 世界は、僕の手の中だ。

 桜が舞い散る中、僕は新生活への期待と不安で胸がいっぱいだ。でも、今日はなんかいい予感がするんだ。新しい学校で、新しい教室で、グレーの瞳の君と出会える。そんな予感を感じながら、朝の光の中を走っているんだ。



 数年後、また夢を見た。

『何年もなかった梅雨明け宣言が発表されて、

 入道雲が青空のキャンバスに

 所狭しと描かれて、

 キミは靴に砂が入るのも気にせず

 無邪気に駆け回る。

 「やっと、雨がやんだね」と

 天使のような微笑むをたたえて

 グレーの瞳を輝かせるんだ。』

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砂時計の刻む風景 藤田小春 @tsumugi1220

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