かくて羽衣鈴芽は拳を天に突き上げる(ヒロイン視点)

「やりました…!やりましたよ私!大躍進です!!!」


ああ、どうしましょう。まだ外だというのに口角が緩みきってしまいます。


普段は自らの意志で動かそうとしても頑固として動くことのない表情筋が、全力で稼働しているのを感じます。というか、既に慣れない筋肉を多用しているせいか頬が疲れてきました。


私こと羽衣鈴芽は、周囲の人々から無表情で感情の機微を悟りづらいとよく指摘されます。そんな私が、こうも感情に体を左右されている。仮に親友にして仕事仲間の唯さんが今の私の姿を見たら腰を抜かすのではないでしょうか。


さて、そんな冷静と評される私が何故こうも熱に浮かされているのかと言いますと……ずばり、長年の片思いの相手である店員さんと、漸く話すことができたのです!


「いえ……もう店員さんではなく、悠さんですね」


自らの口が彼の名前を紡いだ途端、悠さんの言葉がフラッシュバックされます。


『では悠と呼んでください。えーと……鈴芽さん?』


鈴芽、すずめ、すずめさん。嗚呼、自分の名前の響きをこれほどまでに愛おしく感じたことが、十余年ばかりの人生において他にあったでしょうか!いえ、存在する筈がありません。何せ、私の三年越しの宿願が成就した偉大なる記念日なのです。


そう。悠さんと会話し、かつ、名前を呼んでもらうという偉大な一歩を!


この夢を先日唯さんに熱く語ったところ、『ハードル低すぎない?それ話しかければ一瞬で成就するじゃん』と冷たく突き放されましたが、それができれば苦労はしないのです。


唯さんは知らないのでしょう。

先生からの頼まれごとでプリントを集めている最中に、クラスの中心人物の方々が未提出なことに気が付いた時の絶望感を!

にこやかで楽し気な会話を空気を破壊させてしまうであろう気まずさを!

結局話しかけることができず、目当ての方が一人になるまで、教室後方に貼られている特段興味の惹かれる点のないプリントを眺めて無為に時間を浪費するあの虚無感を!


地力が違うのです。基礎力が違うのです。

例えば、肉体的な機能が衰えたご老公方は、小さな階段を一段昇るだけでも一苦労でしょう?

仮に唯さんであれば平素の歩行の延長線上で、意識することもなく乗り越えられるハードルでも、私にとってのそれは絶海の孤島に佇む難攻不落の大監獄と同意なのです。


そう語ったところ、唯さんは『要するに、話しかけるきっかけが見つからずに、気づいた時には常連客として二年以上通い詰めてたってこと……?』と本気で私の将来を懸念するような表情をされました。


まあ、端的に纏めてしまえばその通りなのですが……。


兎角、そんな引っ込み思案な私に、絶好の好奇が訪れました。

そう、高校入試です。

悠さんのおじい様からそれとなく進学を予定している高校を教えてもらい、無事、私は同じ高校に入学することができました。


以来、進学先が同じことを口実に日々話しかけようと画策してきました。会話の運び方、表情、仕草……インターネットや専門書から情報を汲み上げ、理想的な運びを脳内でシミュレーションし続け、満を持して、今日の計画が遂行されたのです。


正直なところ、緊張で予定していたことの大半は吹き飛んでしまったのですが、終わりよければ全てよし、です。若干ではあるものの、記憶が飛んでいる箇所もあるので過程に懸念を抱いてはいるのですが……考えても詮の無いことです。


「今日は素晴らしい日です。珍しく筆もはかどりましたし」


ハミングを奏でながら、閑静な住宅街をひた歩きます。


お、中々いい台詞を思いつきました。


失敗してしまった過去は変えられません。けれど、過去の捉え方は当人の物差し次第で如何様にも弄ることができます。


漫画風に言うなら……『物は言いよう考えようさ。僕は卑屈に楽しみを見出せない。なら、僕の世界を僕好みに面白可笑しく作り替えちゃえば、僕の人生は最高に愉快なものになるだろう?』とかどうでしょう!

中々味のある決め台詞なのではないでしょうか。


「忘れないうちにメモしておきましょうか」


私は、依然拙いながらも漫画家として月刊誌に連載させて頂いています。


私は絵心やデザイン方面の才覚が皆無なので、原作のみを担当しています。

だからこそ、こうした日常の中でふと思いついた台詞は、懐にしまってあるアイディア帳に即座にメモしています。一度思いついたのだから、後で大丈夫だろうと高を括っていると、すっぽり抜け落ちてしまうことが多々ありますから。


私が悠さんに淡い恋情を抱いたのも、こういった背景が密接に関係しているのですがーー


「……?おかしいですね」


普段設置している場所にメモ帳が見当たりません。いくら指を這わせても、虚空を掴むばかりです。若干の焦りを感じつつ、急いで鞄を開くとーーそこは、伽藍洞でした。


「……はい?」


メモを収めている箇所だけ、すっぽりと消え失せています。喫茶店からお暇する際に確かに所在を確認した筈なのですが。


よくよく注視してみれば、鞄の横に設置されているファスナーが全開になっていました。なるほど、私のメモ帳はこの横口から零れ落ちてしまったのでしょう。


「幸い、喫茶店からまだそう離れていません。探しにいかなくてはなりませんね」


不幸中の幸いだったのは、浮かれ気味だったお陰で歩みが遅々としていたことです。仮に紛失に気づいたのが駅周辺であれば、人混みの多さに諦めざるを得なかったでしょう。


けれど、万事絶好調だった日和に急に冷や水を浴びせられたかのような感覚を覚えて、私は意気消沈といった風にのろのろと道を引き返しました。





▽▽▽


「良かった。やっと見つかりましたか……」


道中に痕跡一つ見当たらず、途方に暮れていたのですが喫茶店の玄関前でようやく発見することができました。僅かについていた土煙を振り払ったその時、店内から微かに声がしました。


いけないこととは理解しつつ、ついつい聞き耳を立ててしまいます。


『って、何を考えてるんだ俺は。馬鹿馬鹿しい』


おお、普段は店員と客という関係性のため、こういった少々荒々しいワイルドな口調は新鮮です。一人称は『俺』ですか……大人しめな顔立ちとのギャップが素敵です。


『……美人ってのは、得だな』







……?

……………。

………………これは、あの、その、もしかして。

えっと、自意識過剰なのかもしれませんが、もしかしたら。


私の、ことですか?


動揺に一歩後退ると、カタンと、靴底と石畳が子気味のいい音を響かせました。それに呼応して、あからさまに動揺したような音が扉の先から聞こえます。


ど、どうしましょう、どうしましょう。

ああ、頭が回りません。


一歩、古い木材を踏みしめる音がしました。

このままでは、見つかってしまいます。


動かなければいけない、けれど思考がパニックになっているせいで足を動かすことができない。そんなジレンマに陥った時、幸運にも、一匹の猫が私の前を通り掛かりました。


これを逃せばもうチャンスはやってこないと本能が悟ったのか、反射的にふんわりとした毛並みが魅力的な猫ちゃんを抱きあげ、瞬時に扉の前で放しました。


「にゃ、にゃー」


……後になって、自分でも、高校生にもなって何をしているのかと羞恥で悶えました。けれど、その時に思いついた最上の良策はこれ以外に思いつかなかったのです。


私は猫の鳴き声の真似をして、悠さんを誤魔化せたことを確認するやいなや、無我夢中で自宅への帰路についていました。


一時間後に唯さんと落ち合う約束がありましたが、生憎、お話ができるような精神状態ではありません。


端的に謝罪のメールと埋め合わせの旨を打ち込んで、私は自宅のベッドに倒れこみました。


「うううう…」


思い返すのは、美人ってのは得だな、というどこか賞賛に満ちた声音。人違いかもしれません。というか、その確率の方が高いでしょう。でも、けれど。


「過去をどうとらえるかは、個々人の、自由ですから!」


私は、あの言葉が自分にあてられたものだと解釈することにします。


それにしても、私はなんと幸福なんでしょう!


「……幸せで、身体が蕩けてしまいそうです」


私はじたんばたんと身もだえしながら、やがて眠りの世界に身を投じました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最近、妙に常連さんからの視線を感じる。 しんじょー @tubaame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ