翔太のばか

及川 瞳

 

 高校生にもなって「ばか」って云われた。

 翔太は困惑していた。夕焼けに赤く染まった教室の、一番奥の一番後ろの席。翔太は椅子に座ったまま、開け放たれた窓枠に後ろ頭をつけてぼんやり中空を眺めていた。

「翔太、お待たせ。今日は監督とキャプテンが試合の抽選に行っていて、練習が早く終わった」

 教室の前扉から、正隆がそう云いつつ入ってきた。教科書等の入ったカバンの他に、部活用の重そうなスポーツバックも肩にかけている。

「あれ、北村さんは?」

「帰った。怒って」

「怒って?」

「ばかー!って、云われた」

「翔太が、ばか? 合ってるじゃん」

 真面目な表情を崩さず当然の事のように正隆にそう云われた翔太は、一つため息をつくと体を窓枠から起こし机の上で頬杖をついた。

 いつもニコニコとして仲のいい翔太と北村さんが喧嘩っぽい事になるのは珍しいな、と正隆は思った。大抵の事には楽天的な翔太も、今日は結構落ち込んでいるようだった。

 そのまま翔太に動く気配はなく、どうやらすぐに帰る気はなさそうだ。正隆はそう判断すると、持っていた二つのバッグを傍の机に置き隣の椅子に座った。結果、のろけ話になったとしても、まあとにかく話を聞いてやろうと思った。

 その前に、ふと目にした翔太の横顔が気になってつい訊いてみる。

「翔太、熱があるの?」

「……ないよ。正隆だって夕日で、全身真っ赤だ」

 正隆は自分の右手を広げてみて納得する。今日の夕焼けは、ものすごく気合が入っている。

「それで、北村さんが何。翔太の、どのばかについて怒っていたって?」

 正隆は困り顔の翔太に、いつも通り兄のような口調で尋ねた。

 翔太と正隆は家が同じマンションの隣同士で、母親達が選んだ産院も一緒ならそこで生まれたのもたったの一日違いと云う生粋の幼馴染だ。

 同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校。そして一緒にバスケットボールを始めて、競うようにどんどん上手くなって、去年揃ってこの高校にバスケットボール部の特待生として入学した。

 ただ、これだけだとまったく同じ経歴の似た者同士の二人だけど、頭の出来は正隆の方が格段によかった。だから、小中一貫して成績がずっと真ん中よりちょっと下だった翔太と違って、正隆の方はスポーツ推薦枠を使わなくても文武両道のこの名門私立高校に楽々と自力で入れた筈ではある。

「美和にキスした」

 翔太は恥ずかしがる素振りもなく、そう云った。

「うん? 別に初めてじゃないだろ。それのどこがばか?」

 正隆も何の躊躇もなく、単純に不思議に思った事を訊きかえす。

 美和とは北村美和の事で、一年生の時から翔太と付き合っている女の子だ。二年生になってクラスが分かれてしまったけれど、それでも相変わらず二人はうまくいっている、と正隆は思っていた。

「キスして、胸、触ったら怒られた」

 真面目な顔をしてそう告白する翔太に、正隆は呆れた。

「そりゃあ、確かにばかだな」

「なんで? 正隆は好きな子に触りたいとか思わない訳?」

 実際のところ、正隆の女性遍歴はなかなかのもので、若干十七歳にしてこれまでに交際した女の子は数知れず。今現在は入部早々バスケ部の先輩である美人マネージャーから告白され、贅沢にも「まあ、とりあえず」と云いつつ付き合っている。これまでもそうだったけれど、モテすぎる正隆の女性に対する不遜な態度には、傍で見ている翔太はいつもハラハラさせられた。

「思うというか、まあ、触る・触らないといったかわいい次元の話は、もう遠い古の煩悩だな」

 照れもせず淡々とそう云いきる正隆に、今度は翔太の方が呆れた。でも、正隆がどんなに素っ気ない態度でも、女の子の方が凝りもせずに寄って来るのだからしかたがない。一瞬、翔太も良く知るあの美しくもちょっと妖艶な先輩マネージャーについて雑多な想像をしてしまい、口ごもる。

「……あー、とにかく。結局は行けなかったけれど、美和は前に夏休みに一緒に旅行してもいいって云っていたんだよ?」

「それとこれとは、また別の話だろ」

「え、なんで?」

「わかんないか。まあ、翔太だからなあ」

 俺だからってなんだよ、と翔太は思ったけれど、常々、勉強と女の子の扱いについては正隆にはかなわないととうの昔に諦めていたので逆らわなかった。

「キスはいいのに、胸は駄目?」

「まあ、そうだね」

「手も繋ぐし抱きしめてもいいのに、胸だけ駄目?」

「北村さんだからね。彼女みたいなタイプに、学校の教室でキスのついでにちょっと揉んでみる、なんていうのは駄目でしょう」 

 人類の創生以前からの理のように正隆にそう断言されて、とうとうよく分からないまま納得させられてしまった。

「俺、女の子の気持ちはきっと一生わかんない」

 翔太は素直に観念した。

 二年生になって放課後まで学校にいる時は、翔太は正隆の部活が終わるのを教室で待っていた。その間、今日のように隣のクラスから美和が来て、よくここで一緒に時間を過ごした。今ではもう一年生の時のように翔太が美和を家まで送っていく事もないし、週末に外でデートをする事もなかったから二人でいられる時間はこの偶然のようなひと時だけだった。

「俺さ、美和の笑った顔が好きなんだ。ふわあって優しくって、なんかすごく安心するから」

 急に真剣にそう云った翔太の、相変わらずのまっすぐな素直さに、正隆は一瞬はっとさせられた。

 翔太はいつもそうだ。人のいい処を見つけるのがうまくて、何の打算も駆け引きもなくそれにそのままストレートに感動できる。正隆はそんな翔太の掛け値のない素直さに、いつも崇高ささえ感じさせられていた。

 こんなにも純粋で、この先この世知辛い世の中を渡っていけるのかって、子供の頃から妙に大人びて人生を達観していた正隆は心配したものだ。でも、実際、本人にはいつもどうでもいい軽口をたたいてしまうけれど。

「翔太、おまえさ、いきなり俺にそんな告白してどうする」

「美和があんなに嫌がるって思わなかったから。悲しい顔なんて、絶対にさせたくなかったのに」

「うん」

 彼女を怒らせてしまった事を本当に気にしているようで、翔太は俯いて黙ってしまった。

 正隆もしばらくその様子を見つめていたけれど、結果、効き目のない慰めの言葉の代わりに、雰囲気を一新するように音をたてて椅子から立ち上がった。

「帰ろう。今日も迎えの車、呼ぶの?」

「ん。もう電車には乗るなって。どんだけVIP待遇になっているんだかな、俺」

 やっと少し笑って、翔太はポケットから取り出した携帯電話をかけた。正隆は教室の窓を閉める。こんな時間でも、空はまだねっとりと赤かった。

 夏が終わる。

「あまりにも全部が赤すぎて、ちょっとだけ怖いな。夕焼け」

 使い終わった携帯電話を手に持ったまま、空を見上げた翔太が独りごちた。


 美和に、翔太と付き合うのはもう止めなって云ったのは親友の理子だった。

 翔太はバスケットボール部の特待生としてこの学校に入学を許されたのに、二年の頭にいきなり部を辞めてしまった。それと同時に学校さえも休みがちになり、うんと遅刻して来たり、来たと思ったら授業をさぼったり、さっさと早退してしまったりともう滅茶苦茶だった。

 授業中もうとうとと居眠りをしている事が多かったし、定期テストでさえろくに受けていなかった。

「どうやら学校を辞めて、芸能界に入るらしいよ」

 どこからそんな情報を仕入れてくるのか、そう美和に教えてくれたのも理子だった。

 翔太と正隆は当然、入学したての頃からバスケが抜群に上手かった。が、そうは云っても先輩達の中にも特待生は何人もいたし、厳しい練習も積んできていた。そんな強者揃いの2年・3年を差し置いて、入部してすぐの6月のインターハイ予選から、翔太達は実力でレギュラー入りしていた。

 半端な兄弟よりもずっと長い時間を共に過ごしている翔太と正隆の連係プレイは、まったく他の追随を許さなかった。正隆の絶妙なパスからの流れで放たれた翔太のショットは、どんな位置のどんな体勢からでも必ずゴールネットを揺らした。

 二人の恵まれたセンスと体格、それに競技にはあまり関係のないルックスの良さも手伝って、インターハイで準優勝した後にスポーツ誌だけでなく、アイドル雑誌から何社もの取材を受けていた。

 こんな時代なので、翔太達の通学風景とか休み時間に友達とじゃれている姿なんかが盗撮されて、勝手にインターネットで流されたりもしていた。それがまた結構なアクセス数を稼いでいたので、必然として翔太の学校生活が乱れ始めて出た噂が「芸能界デビュー」というものだった。

 それについてはいつも何でもオープンで明朗闊達な本人が、肯定はしなかったけれど曖昧な表情で否定もしなかったので、さらに信憑性をもって囁かれる事になった。

 でも美和は、今はもうそんな事はどうでもよかった。それよりも今日、翔太に「ばか」と云い放ったあげく、あまつさえ彼の肩をどんと突き飛ばしてそのまま怒って帰ってしまった事を、すでにぐるぐると百万回は後悔していた。

 家に帰ってベッドにもぐり込んで考えれば考えるほど、自分の行動に後悔の念が募ってくる。翔太の事が大好きだから、翔太にだったら何処を触られようが、どんな事をされようが全然構わないって本当に思っている。だから決して嫌な訳じゃなかったのに、なんだか急でびっくりしてしまったのだ。

 だけど普通「触りますよ」などと事前に予告される筈もなく、そういう事はきっといつも突然に決まっている。美和はすごくばつが悪かったけれど、明日学校で会ったら謝ろうと決心していた。

 彼をひどく拒絶してしまった自分の態度に、きっと翔太は驚いて、そして哀しくなったに違いない。大好きな人にそんな思いさせたままだなんて、美和には辛くて堪らなかった。


 次の日登校して、朝から休み時間の度に翔太の教室を覗きに行ったけれど、彼は来ていなかった。ここ最近、特に出席率が悪い。

 でも昨日の事があるから、例えどんなに忙しくても疲れていても、放課後までに翔太はきっと自分に会う為に学校に来てくれると美和は確信していた。そういう翔太の絶対的な優しさが大好きだった。

 美和達が付き合いだしたのは、翔太・正隆コンビがこんなにも世間に騒がれるようになる前の、入学して間もない頃の昼食がきっかけだった。

 当時、翔太が持ってくるお弁当はクラス内で「運動会弁当」と呼ばれていた。

 何でもない普通の日なのに、彼のお弁当は毎日、黒塗りの大きな二段の重箱に色とりどりの美味しそうな料理がぎっしりと詰められていた。おかずだけで十種類以上あるのに、ご飯も巻寿司だったり炊き込みだったりピラフだったりと、とにかく手が込んでいた。

 早朝練習のある日はそれでも全然足りなくて、重箱とは別に、中にいろんな具がたっぷりと仕込まれた大きなおにぎりも持ってきていた。本人はバスケ部なんだけれど、海苔でサッカーボール風とか野球ボール風とかに楽しく細工してあって、それもみんなの目をひいた。

 一方、美和には三つ上の大学生のお姉ちゃんがいて、春から交代でお互いのお弁当を作る事にしていた。

 その日は姉の担当の日で、昼食時間になってお弁当箱を開けてみたら、二つのタッパーの中身が両方ともご飯だった。どうやら間違えて姉がおかずの方を二個、持って行ってしまったらしい。ダブル白米を目の前に呆然としていたら、翔太が自分の机を抱えてきて美和の机にくっつけると、真ん中にかの運動会弁当をどんと置いた。

「俺のお母さん、すごく料理、うまいんだ。北村さんも食べてみて」

と、にっこり笑いながらそう云った。

 標準より小さく生まれた翔太は幼い頃は食が細くて、周りと比べるとひどくやせっぽちだった。それを心配した母親が少しでも食べる事に興味をもってくれたらと料理を工夫して、見た目も味もとどんどんこだわっていった結果、「日々運動会弁当」となって今日に至ったのだ。

 美和は素直に翔太の親切を受けておかずを分けてもらったのだけれど、それは本当に美味しかった。ウインナー一本、ニンジン一つ取ってみても凝った飾り切りがしてあるし、詰め方も味や温度が移らないようにちゃんと計算してあった。

 料理の他にも、彼のバスケットシューズ入れやペットボトルホルダーは手作りだし、冬にはものすごく凝ったデザインの温かそうな手編みのセーターを制服の下に着てきて「お母さんが編んでくれた」と嬉しそうに自慢したりもした。

 なにかと目立つ派手目な男子が苦手な理子は事あるごとに「マザコン」なんて云っていたけど、美和はそんな風にお母さんの愛情をまっすぐ受け止めている翔太にすごく好感を持った。

 その日、豪華な運動会弁当のおかずと引き換えに、ただの白米に市販のシャケふりかけが乗っただけの、美和の重複していたご飯をあっという間にパクパクと完食してくれた翔太の事が、たぶんその瞬間から美和は大好きになっていた。生まれて初めて男の子を好きになって、それを自覚した美和は至極当たり前のように「好きです」と告白した。

 それは自分も好きになってもらおうとか恋人になりたいとか、そんな大それた次の展開を期待していた訳では全然なくて、ありのままの翔太の明るさと優しさがとても素敵だったから「そう思っている人間がいるよ、いつまでも変わらないでね」っていう、応援のような気持ちだった。

 けれど。

「えーと、うん。俺も北村さんの事が好きだ。もっと仲良くなりたいから、俺と付き合ってくれる?」

 突然でちょっと驚いてはいたけれど、翔太はちゃんと自分の気持ちを確認してから、そう云った。自分から告白しておいてそう云うのも変だけれど、美和は思いがけず翔太と付き合う事になった。

 バスケットボール部の規律は厳しくて、よっぽどの理由がないと練習は休めなかった。翔太と美和の家は全く逆方向だったけれど、他になかなか一緒の時間がとれなかった翔太は、帰りにものすごく遠回りをして美和を送って行ったり、ごくたまの部活のない休日を美和と過ごしたりした。

 二年生になって、翔太の生活が変わってしまうまでは。


 放課後、美和が教室に行ってみると翔太はちゃんとそこにいた。

 窓側に向きを変えて置いた椅子に座ったまま、開かれた窓の枠に上半身を預けて、外を見ていた。グラウンドのハンドボールコートでは部員達が並んで、ぐるぐる回りながらシュート練習をしている。遠く向こう側のテニスコートは、六面とも練習試合が行われているらしく、それぞれのコートに部員たちが群がってネット上を行き交うボールを目で追っていた。

 バスケットボール部はいつも体育館で練習をしている。そこまで見に行けなかった翔太は、今頃は筋トレかな、走り込みかなと想像してみるばかりだった。気配に振り向くと、そこに通学カバンを持った美和が立っていた。

「美和」

 そう名前を呼んでみても、美和の表情は固い。いつも自分が笑うと美和もよく笑ってくれたので、翔太は意識して笑顔を作って云った。

「昨日、ごめん。ごめんね」

 先に謝られてしまって、美和はただ首を横に振った。

「もうしないから。美和が嫌な事は、絶対にしない」

 そう云われて、美和はまた首を横に振る。嫌じゃない。どんな事だって、翔太が望むようにしていいんだよって云いたかったけれど、でもやっぱり恥ずかしすぎて云えなかった。

 そんな風に美和が考えているなんて翔太にわかる筈もなく、どうにか今日、もう一度だけでも笑顔が見られたらと思っていたのに、美和が期待通りに笑ってくれない事が翔太はとても残念だった。

 でも、彼はこの短期間に諦める事には随分と慣れてしまった。

 目の前の美和は、あの大好きな笑顔じゃなくてちょっと困ったような表情はしていたけれど、それでも十分に可愛かった。伸ばしかけの髪が肩にあたって、くるっと半分巻いているのも愛しかった。寂しくならないように哀しくならないように、努めて普通の声音で翔太は云った。

「俺達、別れよう」

 その翔太の言葉に、美和は、ああとうとうこの時がきたんだと思った。

「……うん」

 だから、頭の中でいつも予習していたとおり、素直に頷いた。

 一介の高校生だった翔太が、あれよあれよという間に全国的規模のちょっとした有名人になってしまって、美和は密かにずっと覚悟をしていた。自分の付き合っている人が、そこのコンビニで売られている雑誌に載っていたり、ネット動画でいろんな人達に何万回も再生して見られたりしている事実。放課後に他校からも女子生徒が体育館に翔太達を見に来るような事態になって、すっかり気後れしていた。

 始めの頃、ちゃんと翔太は公に、

「付き合っている好きな子がいるから」

とはっきり云ってくれていて、それはとても嬉しかった。

 でも二年生になるのとほぼ時期を同じくして翔太は学校を休みがちになり、部活も辞めてしまった。もう、あの運動会弁当も持って来ない。

 殆ど会えなくなってからもやっぱり翔太は美和に優しくて、学校に来ている時はこれまでと同じように話してくれた。本当に申し訳なさそうに、送って行けなくてごめん、休みの日も会えなくてごめんって何度も謝ってくれた。

 でも、翔太だって聖人君子でもなんでもない普通の男の子だから、選択肢が格段に広がった今、付き合う女の子は少しでも可愛い方がいいだろうし、胸だってきっと大きい方が好きに違いない。ましてや本当に芸能界なんかに入るんだったら、地元の女の子と付き合っている場合じゃないだろう。

 わかっている。

 ちゃんと、わかっているから。

「え、あ、いや、ごめん! やっぱりやめる。別れるの、やめる!」

 わかっているって何度も反芻したのに、うっかり涙がこぼれてしまった。美和がこらえきれずに黙って泣いているのを見て、慌てて翔太は前言を撤回した。

 大好きな女の子を自分のせいで目の前で泣かせてしまって、翔太は「今日で別れて、二人の関係をきれいさっぱり清算する」という当初の決意なんて簡単に反故にした。この為だけに今日、かなり無理をしてこんな時間にやっと登校してきたのだけど、そんな事はもうどうでもよかった。

「本当は別れたくなんてない。でも、俺、きっともうすぐ学校を辞める事になるから」

「うん」

「いいの? これからもずっと家まで送ってもいけないし、デートもできない。俺は美和の事、束縛するだけで何もしてあげられない」

「それでもいい。そんなのどうでもいい。翔太が好きだから」

 別れたくない、別れるのをやめるって云ってくれた。デートなんてできなくても、それで十分だって思えた。 

 それから、美和は思わず「翔太が好き」とまた今、つい直球で云ってしまった事が恥ずかしくなって俯いた。

 翔太はすごく嬉しかった。

「ありがとう」

 その素直な美和の言葉と、これまでの二人の楽しかった時間に対して翔太は心から感謝した。

 そうしたら美和がやっと笑った。その念願の笑顔はやはり翔太をすごく安心させてくれて、大袈裟だけど「幸せだなあ」なんて思った。

 県境近くから通っている美和の家への電車は、通勤通学の時間帯でさえ一時間に一本しかない。容赦なくタイムリミットとなって、翔太は教室でそのまま彼女を見送った。

 一人になると、翔太は椅子の背もたれに体重を預けたまま一度瞳を閉じ、一つ大きく息を吐いた。次にゆっくりと目を開けたら、正隆がいつものように通学カバンと大きなスポーツバッグを持って教室に入って来る処だった。何も云わずにカバンを机に置いて、翔太の隣の席に座った。

「正隆、髪、濡れている。タイもちゃんと締めないと」

 正隆は翔太を心配して、部活が終わってすぐシャワーもそこそこに急いでここに戻って来てくれたんだってわかった。風紀に厳しい学校だから、制服のネクタイをしていないだけで先生に見つかったら反省文を書かされた。

 翔太に云われて正隆は、素直にまず胸ポケットに押し込んでいたネクタイを出して、鏡も見ずに器用に締めた。

「正隆。おまえ昔から俺のお母さんの事、さんざん過保護だって云っていたけど、正隆だって十分に過保護じゃね?」

 わざとふざけた口調で云ってみたけれど、正隆はまったくそれに乗ってこず、淡々と口を開いた。

「別に。早く来たら、翔太と北村さんのすごい過激なシーンが見られるかと期待した、ただの野次馬根性だよ」

「あっそう。ご要望に応えられなくて悪かったね。ほら、髪も拭かないと風邪ひくよ」

 額にかかる前髪から滴が落ちる。正隆は云われるままにスポーツバッグを開けて、中からタオルをひっぱり出した。それにつられてバッグから出かかったTシャツに、翔太は目を止めた。

 ここのバスケットボール部は毎年、春にお揃いのTシャツを作る。今年度は淡いブルーの生地で、左胸に学校のロゴマークがデザインされていた。翔太も貰ったけれど、結局一度もそれを着て練習に参加する事はなかった。

「いいな、バスケ。3ポイントのジャンプシュート、だいぶ感覚が掴めていたんだけどな」

 正隆は小さい時から運動でも勉強でも、始めたら何でもすぐにできるようになった。それが羨ましくて、翔太は少しでも追いつきたいって思っていた。特にバスケットボールは、正隆が何人ものマークをぶっちぎって華麗なドリブルでコートを駆け抜けて行くのがとても恰好よくて、絶対に自分も正隆みたいに上手くなってやるって翔太は頑張れた。

 そうやって遜色ない程に上達した翔太と正隆のコンビは完璧だった。どれだけ動きが速くても、いくらフェイントをかけても、翔太には正隆がいつどこへパスを出すか分かっていた。正隆にも翔太が次にどっちへ走るか分かっていた。シュートが決まった後、いつも右手を上げてハイタッチを交わした。

 正隆と一緒にバスケットボールができて、ずっと一緒に居られてすごく楽しかった。

「ありがとう」

 と、翔太は正隆にも云った。

「……なんで、今、そんな事云うんだ?」

「まあ、今度いつ云えるかわかんないから、ついでに」

 正隆はタオルで無造作に髪を拭くだけで、視線も合わさず返事もしなかった。今日の正隆はいつになく無口だった。

 本当は正隆にはもうずっと、翔太に云いたい事が山程あった。でも結局とうとう、そのどれも言葉にする事ができなかった。そのひとつでも口に出したら、次から次へと際限なく言葉につられて強い感情が溢れてきて、止まらなくなってしまいそうだった。

 もう今日の用事は全部済んだ教室なのに、翔太達はいつまでも去りがたく、許される限りの時間、二人はその場所にただ留まっていた。



 翔太が死んだ。

 その夏が完全に終わりきるのを、彼は待てなかった。

 翔太はまだ高校二年生だったのに、決して治る事のない重くて辛い病を得ていた。

 それでも発病してから半年の間、彼は少しでも体調のいい日は学校に行き、具合が悪くなったら保健室で横になって、もっと悪くなったら早退して、もっともっと悪くなったら学校を休んで、どうしようもない程にひどくなったら入院した。そして、どうにか幾らかマシになると退院してまた学校に行った。

 その事を知っていたのは翔太の両親と学校の先生と、そして正隆だけだった。

 学校が好きだったから、しんどかったけれどできるだけ頑張って通った。美和の事が大好きだったから彼女には何も聞かせず、ただずっと笑っていて欲しかった。

 それでも、やっぱり最後は泣かせてしまったけれど。

 たくさんたくさん、泣かせてしまったけれど。

 だからもう一度云われても構わない。

「翔太のばか」

って、云ってもいいんだよ。

                             〈 了 〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

翔太のばか 及川 瞳 @h-oikawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ