妻ヶ根沢りむは眼鏡をかける
綺嬋
第1話 ブリッジの上で
──ぱきり!
誰かとぶつかり後ろに転ぶ。とっさに地面についた右手の下で音がした。二つの校舎をつなぐ渡り廊下で、僕がよく知る
「
データがなくても一目瞭然だ。目の悪いりむには見えていないのかもしれないけど。目の前で尻餅をついているりむは、わざとらしく無機質に言いながら左の人差し指で眼鏡のつる──テンプルを上げようとする。しかし眼鏡は僕の右手の下。指は空を切り顔を真っ赤にして俯いた。
「悪い、りむ。怪我はない?」
ちくりと痛む右手をどかすと、透き通った薄いピンクのナイロール眼鏡が無残に砕けている。放課後の気だるい日射しを受けて割れたレンズがきらめく様は、まるで涙みたいにみえた。
「心と財布が大怪我です! あぁ……金曜日専用の眼鏡が……」
途端に目を潤ませたりむは下校の往来を気にも留めず、金品でも独り占めするような大げさな仕草で眼鏡の破片をかき集める。手のひらにすくい上げると、鼻が触れるんじゃないかってくらい近づけて睨んだ。大きなため息をついてスカートの太ももの間に優しく横たえてから、通学カバンから取り出したガラス色の眼鏡ケースにしまう。まるで眼鏡の棺だななんて思ったけれど、本気で悲しむりむの前でそんなことは言えない。
「本当にごめん。弁償させてくれ」
「ううん、私の不注意ですから。眼鏡屋のシフトを増やせば、三ヶ月後には買い直せる予測です」
眼鏡を直そうとする手が再び空振りし、りむは眉の下がった笑顔を見せる。眼鏡をかけていない顔なんてどれくらい久しぶりに見るのかな。三年ぶりくらいかも知れない。
「いや、僕がいなければぶつからなかったわけだし。ここは責任を取らせてくれ」
「でも眼鏡って結構しますよ? 『この子』なら五万円は──」
「それくらいなら大丈夫だし、金額の問題じゃない。僕の気持ちの問題だ」
本当は大問題だ。高校生のアルバイト代で五万円は苦しい。しかし人の物を壊しておいて『分かった、気遣ってくれてありがとう』で済ませたくなんかない。
りむは「うーん」と唸りながら灰色の天井を見上げていたが、ふいに目を大きく見開く。頭の上に電球が見えた気がした。そして次に、思い切り眉根をひそめた細目の顔で詰め寄ってきた。
「その気持ち、本当ですか?」
二人の距離がぐっと縮まる。ダークチョコレート色をしたセミロングが揺れて、表情には不釣り合いすぎるほどに女の子が香った。体温が上がる。滲んだ汗を嗅がれてしまうんじゃないかと心配になって、肩を掴んで距離を取る。想像より一回り小さな肩にさらにドキドキしてしまって、りむの顔の両隣でパーを作ってしまう。りむってこんなに白くて、顔ちっちゃいんだ。というか今の顔はアレだけど、眼鏡ない方が可愛いよな。なんて思っても恥ずかしくて言えない。
「本当! 本当だから! その距離感と目つきをやめなさい!!」
「眼鏡越しでないと、こうでもしないと見えませんから」
「僕の顔なんて見なくたっていいだろ別に」
「いいえ。本当に後悔していないか、見ておきたいんです」
通り過ぎる生徒が笑いをこぼしていくのが聞こえる。こんなやり取りを見られると後でからかわれてしまう。
「とりあえず部室に行こう。話はそれからだ」
〇-〇
室名札の【眼鏡部】をちらりと見てから僕とりむは部室に入る。最上階の西の果てにあるここが僕達の活動拠点だ。
僕達の高校は部活動に所属していない人間は少ない代わりに、風変りな部も許可がなされている。僕はどの部活にも興味はなかったのだが、帰宅部のイメージはよくない。仕方なく、一人では心許ないから一緒にとせがむりむと共に眼鏡部を建てた。主な活動は眼鏡の歴史、素材、文化など眼鏡についてのあらゆる学習だ。いたって真面目な部活動なので、活動内容を話すと毎回のように感心される。
りむはカバンをロッカー上に置くなり、二つ繋げて幅を広くした長机の上にある毛羽立ったケースを開けて、艶のない黒いメタルフレームのスクエア眼鏡をかける。さらにポケットから黒い髪ゴムを一つ出して、髪を低い位置で結った。あっという間に優等生の出来上がり。さっき僕が壊してしまったピンクのやつも似合っていたけど、知的な眼鏡もよく似合っている。どっちを選ぶかはなかなか難しい問題だ。
「今日のところはこの部活用眼鏡を使うしかないですね」
「いつも思うけれどいる? その部活用眼鏡。各曜日用のままでよくない?」
「蓮くんは何のための眼鏡部員なんですか? 眼鏡とは顔の一部を変えるもの。顔が変われば、心理状態も影響を受けないはずがないんです」
「残念だけれど僕は眼鏡が好きじゃないからね。りむのカウンターウエイトみたいなもんだ」
「本当に信じられませんよ。『イモっぽい』『勉強好きみたいで嫌』『不摂生してそう』とか、根も葉もないただのイメージで眼鏡を嫌うなんて。蓮くんだって中学二年の秋までは眼鏡かけてましたよね?」
「実際そんなイメージだろ? 僕もそれが嫌でコンタクトレンズにしたんだ」
雲が窓の向こうの西日の前にやってきて部室を暗くする。白い机がレンズに映りこんで、りむの目が見えなくなった。
「そうやってうわべだけ見ていると。いつか痛い目をみることになりますよ」
「重要なのはうわべだと僕は思うけどな。内面まで見てくれる人なんていないよ」
『メガネザル』とかからかわれていじめられ、僕は眼鏡を捨てて服装も変えた。そうしたらいじめは嘘のようになくなった。結局いじめる奴も『眼鏡をかけている奴は弱そう』なんていうイメージだけで標的を決めていて。僕は自らそこに踏み込むような面倒ごとが嫌になった。
「私は、蓮くんのことは──」りむは何やらもごもご言ってから、諦めたようにため息をつく。雲が流れて、また部室が明るくなった。
「仕方ありませんね。蓮くんの意見に納得はできませんが、これも貴重な
「さらっと人をなんかの敵みたいに呼ぶね? 貴重なのは僕じゃなくてりむだろ。そこまで眼鏡が好きな人そうそういないよ」
りむは昔から眼鏡をかけていたけれど、こんな執着じみた感じではなかったと思う。確か、中学二年の夏の終わりに新しい眼鏡をどれにしようか悩んでいて、あの時僕はりむに何かを言ったような。それからしばらくして、りむは眼鏡にこだわるようになったんだよな。
「りむにとって、眼鏡って何?」
「……蓮くんの眼鏡への印象を聞く限りは、理由を答えても仕方ないとは思うのですが」
分厚いレンズの向こうにある目が宙に浮かぶ言葉を探していく。
「そうですね──眼鏡は私にとって、枷であり仮面です。蓮くんがめがねを好きになれば、その意味が分かるようになるかも知れませんね」
四角いリムを指でつまんで目をつむる。当ててみろよと挑発されているが、生憎答えは見つからなくて。ここは話題を変えよう。
「そうだ、廊下で何か思いついてたよね?」
「え? ……はい、よく気がつきましたね。蓮くんに買ってもらう眼鏡のことですが」
りむは右手で左肘を受け、伸ばした左手で眼鏡を触る。ふふんと、僕を試す笑顔を見せて言った。
「私に一番似合うと思う眼鏡を、君が探してください」
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