最終話 あなたのしあわせになりたい―①
「もし、私に何かあったら、真っ先にありすを頼りなさい。きっと、貴方を助けてくれるはずよ」
お母さんから、初めてそんな言葉を聞いたのは、お母さんが体調を崩し始めてすぐの事だった。
お父さんが居なくなって、お母さんは、今までよりたくさんお仕事をするようになって、そして、必然的に、わたしはひとりになる時間が増えた。
それが、寂しくなかったと言えば、嘘になる。
お母さんは、わたしのために頑張ってくれてるんだ。それが分かっていても、それを受け入れられるかどうかは、また別の話だ。
ひとりで食べるご飯も、学校がお休みの日に、どこにも行けずにひとりで本を読んでる時間も、寂しくて、虚しかった。
だから、お母さんが体調を崩して、家にいるようになった時、こんなこと思っちゃだめだって、そう、思ったけど。ちょっとだけ、嬉しいって思うわたしがいた。
お母さんがどこにも行かない。ずっと一緒にいてくれる。
嬉しくて、嬉しくって、そしてちょっぴり、安心した。
どこか、思い詰めたような顔をして、毎日仕事に出かけるお母さんのことが、わたしは、ずっとずっと心配だったから。
だから、休めるのなら休んでほしい。そう思った。
たとえ、生活が今より苦しくなったって。
お母さんが隣にいて、やさしい顔で笑っていてくれるなら、それだけで、よかったのだ。
だけど、お母さんの体調は日に日に悪くなっていって。布団から起き上がれない日も、増えていって。
そんな時だった。
「久しぶりだね、夜宵。用事って何?」
音羽ありすが、お母さんに呼ばれてやって来たのは。
「その、ありすさんって、どんな人なの?」
お母さんにそう聞いたのは、果たしていつの事だったか。
ありすを頼りなさいと、そう言われた時のことだったかもしれない。
はっきり言って、わたしは、あの女性のことがよく分からなかった。
何回か会ったことはあるから、顔は知っている。声も、どんなふうに話す人なのかも。
だけど、よくわからない人だったのだ。
お母さんとは朗らかに話すけれど、わたしには、少し距離を置いたような接し方をする。
まるで、わたしとその人の間に、見えないガラス板があるかのようだと、そう思っていた。
それはなんだか、お母さん以外の人を拒絶する壁のようで、話し掛けづらい人だと、そう思ったのをよく覚えている。
お母さんは、わたしが何を聞きたいのか、何となく察したのかもしれない。んー、と思い悩むような素振りを見せると、やさしい笑顔を浮かべて、語り始めた。
「そうだなぁ。ちょっと気難しいけど、優しい子だよ。こんな、世間知らずでどこかズレてた私とも、ずっと仲良くしてくれてる。本当は、人が嫌いなのにね。それでもずっと、私と一緒にいてくれた、優しくて、頼りになる女の子」
そこまで言って、お母さんは一息ついた。その顔が、ほんの少しだけ翳ったような気がして、わたしは小首をかしげる。
「でもね、いつも寂しそうなの。私と一緒に居ても、他の誰かと居る時も。笑ってるけど、寂しそうな顔をしてる。あの子の心の底からの笑顔を、見てみたかったけど……なかなか、うまく、いかなかったなぁ」
そう言って、お母さんはにこりと笑った。その笑顔は、なんだか、寂しそうだった。
「ねえ、よる」
お母さんが、私の名前を呼ぶ。なあに、と返せば、お母さんはそっと、わたしの頬に手を添えて、言った。
「お母さんはね。貴方にはもちろん、しあわせになってもらいたい。だけど、ありすにも、しあわせになってもらいたいの」
だから、どうか。
「もし、貴方がありすのところに行くことになったら、私の代わりに、貴方があの子を、しあわせにしてあげて。もう、寂しそうな顔を、しないで済むようにしてあげてね」
お母さんは、まるで祈りを込めるように、わたしの手をきゅっと握った。
うん、と、返事をすれば、お母さんは、満足そうに笑顔を浮かべた。
あの日。ありすさんに手を引かれて、お母さんと暮らしたアパートをあとにした日。
車を運転するその人の横顔は、酷く悲しそうに見えた。
お母さんとありすさんがどんな話をしていたのか、お母さんの膝の上で微睡んでいたわたしには、よく分からない。
だけど「行くよ」とわたしの手を掴んだその人の横顔が、悲しそうで、苦しそうだったから。
お母さんが、わたしに「元気でね」と手を振ったから。
なんとなく、ふたりがどんな会話をしたのかは察することができた。
きっと、お母さんの命は長くないんだろう。そう思ったけど、口にはできなかった。
それを言ったら最後、ありすさんが泣いてしまうような気がしたから。
だから、口を噤んで、きょろきょろと辺りを見渡すことしかできなかった。
そんなわたしに、ありすさんは、ぎこちなく声をかけてくれた。
ぎこちなくとも、その言葉の端々から感じ取れるやさしさに、ああ、お母さんの言葉は本当だったんだな、と、ようやく実感することができた。
あの時は分からなかったこの人のことが、少しずつ、分かっていくような気がする。
人付き合いは不器用だけど、手先は器用なこと。不器用ながらでも、わたしにやさしくしてくれること。
そして、時々、わたしを見つめて寂しそうな顔をすること。
寂しそうな表情の理由は、分かりそうで、だけど分からなくて。
だけど、その表情は、少し前までの、ひとりぼっちで過ごしていた頃のわたしを見ているようで。
わたしはこの人をひとりにはできないと、思ってしまったのだ。
『私の代わりに、貴方があの子を、しあわせにしてあげて』
かつて聞いた、お母さんの言葉が脳裏を過ぎる。
そうだ。そうだった。
わたしが、ありすさんをしあわせにしなきゃ。
それがとんだ思い違いだって分かったのは、お母さんが死んで、2日ほど経った時だった。
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