第5話 君と仮初のしあわせを見る
急速に、五感の感覚が戻ってくるような心地がした。
鼻にふわりと香る、お粥の優しい匂い。
先程、ちいさな身体を突き飛ばした感触。
必死で叫んだせいで、ほんの少し痛む喉。
ひとつ瞬きをすれば、ようやく思考が、現実と繋がった。
「……よるちゃん」
名前を呼べば、彼女はびくりと身体を震わせた。
「……ありすさん、さっきの」
「……うん」
「あれが、ありすさんの、本心なんですね」
おずおず、といった様子で、少女が言った。
腹が立つくらい、聡くて、子供らしくない子供だ。つくづくそう思う。
だけどその聡明さと、年齢に不相応な子供らしくなさが、今の僕には、ほんの少しだけ有難かった。
きっと僕は、今から君に、残酷な道を選ばせるから。
こくりと頷いた僕に、よるは「そう、ですよね」と、微笑んだ。
身体は未だ、ふるふると小さく震えている。強がっているのが、目に見えて分かった。
分かったけれど、それには気付かない振りをして、僕はよるに尋ねた。
「ねえ、よるちゃん。お母さんとおんなじところに、行きたい?」
その言葉を聞いても、よるは、表情ひとつ変えなかった。静かに凪いだ瞳で、じっと、僕のほうを見ていた。
「こうなっちゃった以上、君だってもう、僕のところになんて、居たくないでしょ?僕だって、もう、君をここには置いといてやれない」
凪いだ瞳に見つめられながら、僕は、残酷な言葉を吐き続ける。
「今、僕が君に与えられる選択肢はふたつだ。君を、殺すか。君を、このまま追い出すか」
僕は、よるの瞳を真っ直ぐに見つめて、言う。
「君は僕に、どうされるのを望むんだ?」
本当は、これ以外の選択肢だって、与えられる筈だった。
施設に預けるなり、よるを生かす方法は、幾らだってある筈だ。
だけど、それを選ばせなかったのは。
その選択肢を、この場で提示しないのは。
君に、しあわせになって欲しくないから、なのだろう。
若くして死んでしまった夜宵の人生を、不幸だと言う権利は、きっと僕には無い。きっと彼女は、しあわせに生きて、未練も残さず死んだのだとも、思っている。
それでも、僕が許せなかった。
よるの話を聞くに、彼女が体調を崩したのは、彼女の夫が、この世を去ったあとのことだ。夫が居なくなった穴を埋めようと、彼女は必死だったんだろう。
君がいたから、きっと彼女は、身体を壊すほどの無理をしたんだ。
きっと君が、愛する娘が居なければ、彼女はそんな無理をすることも無く、今もこの世界で笑っていたと、そう思っている。
彼女を殺したのは、僕の前にいる君なのだ。
彼女がそう思わなかったとして、僕は、そうとしか思えない。
大切な人を僕から奪ったひとがしあわせになるなんて、そんなの、絶対に許さない。許してやれない。
だから僕は、君を殺す。
君を殺して、僕も死ぬ。
だからどうか、お願いだ。
君もどうか、僕に殺されることを、選んでおくれよ。
祈るように、瞳を閉じる。
目を閉じたのとほぼ同時に、その声は耳に届いた。
「―行きたいです。お母さんのところに」
嗚呼、祈りは届いた。
瞳を開けると、そこには、年齢に不相応な微笑みを浮かべる、よるの姿があった。
瞳はうるうると潤んでいて、今にも泣き出しそうだったけれど、涙が零れる気配は、ひとつもなかった。
「……こわく、ないの?」
聞いてから、馬鹿か僕は、と思った。自分から、あんな選択肢を提示しておいて、なんてことを尋ねているんだろう。
そんな馬鹿みたいな問いかけにも、よるは、元来持っていたのだろう真面目さからか、律儀に答えてくれる。
「正直、こわいです」
やっぱりか、と思った。そうだよね、怖いよね。そう言おうと思った僕を遮って、彼女は言葉を続ける。
「だけど、もう、この世界にわたしの居場所がないのなら。きっと、お母さんのところに行った方がしあわせなんだろうなって、そう、思っただけなんです」
「……そっか」
健気に微笑む少女を見つめて、僕は投げやりに、返事をした。
なあんだ。君にとっての「しあわせ」も、ただ、生きることだけじゃ、なかったんだ。
しあわせのために、君は、生きることを諦められるんだね。
君のことを、僕は、不幸にはできないんだね。
その言葉は、無自覚のうちに、口から零れ落ちていたらしい。目の前の少女はくすくすと笑って、そして、僕の手を誘うようにやさしく握ると、歌うような声音で、言う。
「そうですよ、ありすさん。わたしはしあわせになりに行くんです。だから、ね、」
わたしのことを、しあわせにしてください。
「うん、分かったよ。きっと君のこと、しあわせに、するから」
だって、僕、約束したんだもんね。
君の、お母さんと。
その言葉に、目の前の少女が、満足そうに微笑んで瞳を閉じる。
それが合図とでもいうかのように、僕は、少女の細い首に手をかけた。
『どうかこの子のこと、幸せにしてあげてね』
うん、大丈夫だよ。もしかしたら、君の思うしあわせとは、違うかもしれないけど。
僕は僕なりに、この子を、しあわせにしてあげられるみたいだ。
本当は、不幸になって欲しかった。僕の手で、この子のことを不幸にしたくて、そのために、この子を殺そうとした。
だけどどこかで、それを躊躇う僕も居た。
君との約束が、あったから。僕はこの子を、本当に不幸にしていいのかって、思ってしまったんだ。
だけど、君の子供は聡い子だったんだね。きっと僕の、ほんの僅かな心の迷いに気が付いたんだ。
だから最期に、あんなことを言ってくれたのかも。
今となっては、もう、本当のことは分からないけれど。
それでいい。本当のことなんて、分からなくていい。
これは、僕がそう思いたいだけのことだもの。
ねえ、夜宵。
僕はこの子を、しあわせにできたかな。
たとえそれが仮初だったとしても、しあわせに、できていたらいいな。
だって。それが君との、約束だったもんね。
不意に、あの日の光景が、君と約束をしたあの日の景色が、頭を過ぎった。
あの日、夕日のやさしい光が射し込むアパートで指切りをした彼女が、やさしい笑顔で笑っている。
『ありがとう』
そんな都合のいい言葉が、どこからともなく聞こえたような、そんな気がした。
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